日付を跨いだころ、アバッキオがアジトに帰ると、リビングルームだけがやけに騒がしかった。
雑多に聞こえる男やら女の声は仲間の声ではなくテレビのものだとすぐに気づいたが、ばか笑いという言葉がすごく当てはまる笑い声が音量のでかいテレビの音をかき消すように玄関のほうにまで響きわたっていた。
ここで暮らす女はひとりしかいないので、誰ということはもうすでに理解していた。リビングを通らず自室に帰りたい気持ちだったが、この家の構造上、そういうわけにはいかなかった。
深いため息をついて、心を落ち着かせて、アバッキオはそろりとリビングのドアをあけて中に入る。
なにが面白いのか、有名な恋愛映画のテレビ放映を見ながら笑ってるトリッシュがいた。右手には赤ワインの注がれたグラス。そこら辺にころがる三本程度のワインの瓶。なぜこんな状況になっているのか、なぜ彼女がひとりで酒を呑んでいるのか、まったくもって理解できない光景だった。他の仲間はどこに行ったのだ、とアバッキオは考えたが、その答えは案外かんたんに見つかる。――床に落ちていた走り書き。紙を広げてみてみると、どうやらナランチャの文字だろうと思われるもので「あとは任せたぜ」と書いてあった。間違いない、他の奴らは逃げたのだろうとアバッキオは確信した。
そもそもブチャラティと仕事だったアバッキオは仕事を終えた後、ほかの仕事があると言ったブチャラティと別れてアジトに帰ってきた。なのでブチャラティはまだ仕事中だ。ミスタとジョルノも、自分たちとは別件の仕事があった気がするとぽつぽつ思い出す。そして非番だったナランチャとフーゴはこの眼の前の女の酒狂いっぷりに逃げたのだろう。いくらスタンド使いと言えども女ひとりを置いて家を出て行くなんてなんて奴らだ、と別の意味合いでまたため息がこぼれる。
「あっ、アバッキオ、帰ってきたの?」
ようやく背後のアバッキオの気配に気づいたらしいトリッシュが、赤ら顔で笑顔を浮かべる。
「ああ」
「おかえりなさい」
立ち上がったトリッシュはふらふらとした足どりでアバッキオに近づいて身体に掴まると、顎のあたりに唇を触れさせる。
その行動に驚きをうけたのか、アバッキオは目を見開いて少し固まる、がすぐに髪の毛を掻きあげ、何事もなかったかのようにトリッシュの額を人差し指でつつく。
「もう寝ろ。ガキが起きてる時間じゃねえよ」
「そーやってすぐ……子どもあつかい、しないでちょうだい!」
千鳥足の女がなにを言ったって説得力はない。
トリッシュは、掴んでいたアバッキオの両手から手を離して千鳥足で先ほどまで座っていたソファに座り直す。
そして、とぽとぽとワインを別のグラスに注ぐと、飲めと言わんばかりの勢いでアバッキオに突き出す。
なんだか落としてしまいそうだったので、アバッキオはグラスをすぐに受け取ったが、口をつけることはしない。
「ひとりでのんでてもつまらないの……ナランチャもフーゴも買い物行ってくるって行ったきり帰ってこないし……」
いじけたように話すトリッシュはチョコレートを食べたままソファに沈むようにもたれかかる。
「だから、ほら、のみなさいよ! あたしの注いだワインが、のめないっていうの!」
トリッシュがあまりにもわめくので、アバッキオはしかたなしにワインを一気にのみ干す。トリッシュが好みそうな、熟した果実や爽やかな花の匂いのするワインだった。ワインというものは本来匂いと味わいを楽しむものだが、小娘ひとりが荒れまくってる状況でそんなのん気な飲み方はしていられなかった。
アバッキオはどっかりとトリッシュの隣にすわり、トリッシュが右手に持つグラスを取り上げる。
「あっ! もう、返しなさいよ!」
トリッシュは身を乗り出してアバッキオの手に移ったグラスを取り返そうと手をのばす。
「だーめだ。もう寝ろ」
子どもをあやすような声音で、アバッキオはトリッシュの手を振りほどきながらそう言った。
トリッシュがアバッキオの腕を掴むと、グラスを持った手が揺れる。
いつの間にかトリッシュがアバッキオの太ももをまたいで座るような形になる。かなり密着しているのだが、ふだん潔癖症のトリッシュはそんなことなど微塵も気にしていないようで、ただひたすらに目の前のワイングラスだけを目に映していた。
しかし届かないグラスに手を伸ばすのをやめ、ふくれ顔でアバッキオの胸元辺りを掴んできっ、と酒に酔ったうるんだ瞳で睨みつける。
「じゃあ、キスして」
「……は?」
「寝てあげるから、おやすみのキス。……あなたって、ぜんぜん挨拶のキスもしてくれないじゃない!」
「……してくれねぇ、ってお前、潔癖症だろ」
「だって、だって他のみんなはしてくれるもの……」
「他の奴らとしてるならオレとする必要ねーだろ」
一緒に過ごすようになってだいぶ軽減されたものの、トリッシュの潔癖症は相当なもので、こうやってひっついたりすることなど、献上な状態ではとても考えられるものではない。挨拶のキスなんて、頬と頬が触れてしまうのだからもってのほかだ。
他の仲間たちと挨拶のキスをしているなんて、アバッキオは初耳だったが、自分には関係ないと思った。トリッシュと自身の距離感は仲間内でも最も遠く、会話をしたとしても、一言二言交わすぐらい。そんな彼女がこんなに絡んでくること自体、異常なのだ。酔っ払いの戯言としか思えなかった。
アバッキオは、だんだんと顔を近づけてくるトリッシュの口元の辺りを片手で押さえつけて遠ざけ、自身とトリッシュの距離をつくる。苦しそうな顔をしたトリッシュが、口元を押さえるその手を叩いて苦痛を訴える。そのジェスチャーに答えたアバッキオが手を離すと、少女は大きく息を吐く。
「……だって、あたし、あなたとだって仲良くしたいもの……すきじゃないけど」
「最後は余計だろ」
「だから……いままでの分、ぜんぶするから。あたしがし終わったらあなたの番よ」
酔いが回って、目が据わっているトリッシュは、その眼差しでアバッキオの瞳をみつめて、頬にキスをした。それも挨拶のキスなんて軽いものではない。唇と頬かぴっとりとくっつき、アバッキオの頬にはトリッシュの口紅が残る。しかし、そんなことも気にしないこの少女は、さらにキスを重ねていく。頬をすり寄せてリップ音をならす偽物のキスではなく、本物のキスを。
アバッキオも最初は離そうとしたが、トリッシュは腕を首にまわしてしがみついて離れないし、頬にキスをされているだけならすぐ飽きてやめるだろうと思って、特に気にもとめていないような素振りをして、ただ無言でソファに座っていた。
「……おい、もういいだろ」
「…………」
何分かして、抱きついたまま離れないトリッシュにしびれを切らしたアバッキオは、耳元でそうささやく。
しかしトリッシュから反応はなく、そのかわりに健やかな寝息が聞こえてきた。酔いが回ってきて寝てしまったのだろう。
アバッキオは深い溜息をつくと、右手にずっと持っていたグラスをテーブルに置き、空いた手でトリッシュを抱え、しかたがないので彼女の部屋まで運ぶことにした。
手が空いていないので、部屋のドアをかるく蹴ってあけると、きちんと整えられたベッドが見えたのでそこにトリッシュを横にならせる。
「……ん、どこ、ここ」
ベッドに降ろされた少しの衝撃で起きてしまったらしいトリッシュは、少し目をあけてアバッキオに問いかける。
「お前の部屋だ。いい加減寝とけ」
「ねえ……おやすみのキスは?」
先ほどの、勝手に約束を取り決めた自分の言葉を思い出したらしいトリッシュは、寝ぼけてもまだキスをせがむ。
「……ったく、しかたのねえマンモーナだ」
観念したアバッキオはしかめっ面のままかがみ、トリッシュの顔に近づいて前髪をかき分ける。
「Buona notte, Trish」
そう呟いてから、額に軽く触れる程度のキスをすると、トリッシュはすこし笑って「Buona notte」と言うと、深い眠りに落ちていった。
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