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 トリッシュは朝に弱く、起きてもベッドから三十分ほど出れないこともしばしばあった。
 今日もまた、セットした目覚まし時計がけたたましく鳴り響く。勢いよくそれを止めて、枕に顔を埋める。
 安穏を感じているのもこの一瞬だけだった。ふ、と背筋を凍らせるようなたしかな「気配」を感じた。もう今ではありえないと思っていた久しぶりの感覚に、上半身を起こして辺りを見渡す。壁も、床も、天井も見回してもなにもいる様子はない。
 ほっ、と一息ついた瞬間、身体にあたる別のぬくもりに気がつく。
 自分と同じ髪色に変な斑点模様のヘアースタイル、到底理解できない網のような服装。男のわりに多いまつげが伏せられていて、目元に小さいしわがある。
 まぎれもなく、それはトリッシュが感じた「気配」だった。

 血の気がひく、というのはまさにこのことだろうと実感する。背に芋虫が這うような気色の悪い寒気がトリッシュの身体全体をおおう。
 ――もう二度と会うはずのない、かつて自分を殺めようとした父、ディアボロが目の前にいる。
 トリッシュはその事実を残念なくらいに認知し、ベッドから静かに降りた。しかし、どうすればいいか全然わからない。
 ジョルノ曰く、「永遠に死という真実に到達できない」かの父は永遠に死に続けるというのだから、放っておけば死ぬのだろうと思った。
 けれども、向こうが死ぬ前に自分が殺されるという可能性も十分ありえた。その危機感に、どっと汗が噴き出る。なんという最悪の朝だろうか。
 まだ寝ていることをいいことに、トリッシュはいったん部屋から退避しようと目論む。
 ゆっくり、立ち上がらないままドアのあるほうへあとずさる。
 どうか起きませんように、そのことだけを祈りながら、存外トリッシュの脳内は落ち着いてきていた。
「……んん……」
 寝言のような声に身体が思わず跳ね上がりそうになる。それを必死に抑えるものの、心臓はばくばくと高鳴り、トリッシュのせっかく落ち着いてきた心をかき乱しはじめる。
 まとっていた綿毛布をぎゅっと握りしめて、父であるものから目を離せずにいる。完璧に後退する動きは止まっていた。
 しばらくすると、ディアボロの寝息が聞こえなくなり、その瞬間、ベッドから飛び起きる。その様子はさきほどのトリッシュと瓜二つだ。
「…………ハッ! こ、ここはどこだ! おれはま、また死ぬのか……」
 父は独り言を呟きながら辺りを見回す。その容貌はかなり青ざめていて、まるで死人のようだった。
 もうトリッシュは動けなくなっていた。腰が抜けた、とかそんなヤワなことではない。もう彼女は逃げることを諦めていた。
 すこしして父と娘は目が合う。一般家庭の親子ならば、なんだか気恥ずかしくて目をすぐにそらしてしまうところだが、悪魔とその娘の目線はしばらくつながっていた。
 トリッシュは覚悟をしていた。それはいざとなれば自分ひとりで立ち向かう覚悟だ。覚悟とは、「暗闇の荒野に進むべき道を切り開くこと」だ。たとえその先が絶望であろうとも、決して諦めてはならない。諦めたとたんに、覚悟は潰える。

「……おまえは、トリッシュ……か?」
 ディアボロが先ず口をひらく。あんがい平凡な問いかけだった。トリッシュをさす指はすこしふるえている。
 娘はその問いに対しうなずくと、父は「そうか」とだけつぶやいた。
 どうやら殺害意欲がないらしいディアボロはベッドの上で座り込んでただうなだれている。まるで生前とは別人のようだった。
 死をなんどもなんども繰り返すことによって、過去を消し去ることへの執着が薄れてしまったようにトリッシュの目には映った。
 ディアボロの目はうつろで、もはや廃人に近いのではないかと思うほどだ。呆然と父を見ていると、物騒な独り言をつぶやきはじめた。精神を病んでいるかのような言動は見ていてこっちまで不安定になりそうなほどである。
 そんな父の様子に、トリッシュはなんだか覚悟も緩んでしまう。
「あなたに聞きたい。…………母さんのことは愛していたの?」
 なんていうばかげた質問をしたのだろうと自分でも思った。けれどトリッシュは抑えられなかった。
 母は単純な快楽に利用されたのか、それとも愛をもってしてその行為を行ったのか。
 ただそれだけを、それだけをこの男の口から知りたかった。それもこの男にとってはくだらないことなのかもしれないが。
 ディアボロはトリッシュの顔をまじまじと見つめ、それから目をそらして答えた。
「…………ああ、愛していた」
「よかった。それだけで……母さんは報われた」
 父の嘯きとも真ともわからない言葉。けれどもその一言でも、死した母に届いてるといいと思った。
 トリッシュが吐いた安堵の声はふるえていた。知らぬうちに一筋の涙が頬をつたっていた。
「もしも、もしも……べつの世界というものがあったのなら、あたしたちはふつうの親子として生きていたのかしら……」
「…………」
「……母さんがいて、あなたがいて……しあわせな、しあわせな世界が……」
 言葉がつまる。もう涙はとまらない。とめどなくあふれる涙が、トリッシュを包む綿毛布を濡らす。
 両親がいるからしあわせな世界であるとは彼女も思っていない。
 しかし、父の愛情というものを感じ取ったことのない少女が、それにしあわせをすがるのはおかしなことではない。――たとえ、殺されかけたとしても。
 しあわせを思い描き、泣いている顔をだれにも見せたくはなくて、下にうつむく。
 ディアボロはなにも言わずにベッドから降りる。トリッシュに近づいてくるその足音はまるで猫が歩くように静かだったが、「気配」がたしかに近づいてきた。それはトリッシュにも理解できた。
 「気配」はトリッシュの近くで立ち止まった。
 そして大きな、ごつごつとした骨ばった手でトリッシュの身体を抱き寄せる。
 ディアボロも自分がなぜこんな行動をとったかはわからなかった。ただ泣きじゃくる娘のあたたかみを、はじめて身に感じる。
 トリッシュもまた、父のぬくもりというものをはじめて身に浴びせられた。
「おまえの言うしあわせな世界というものに、わたしも憧れたことがあった」
「…………」
「しかしそんな世界にわたしのようなものは存在しないとおもう。……だから、いまこの世界がおまえのしあわせな世界だ」
「…………そんな……」
 ぬくもりが離れ、父は娘の頭をくしゃりと撫でる。娘をみる父の目はまだ虚ろであったが、いままでの眼差しとはどこかちがっていた。
「……さようならだ、トリッシュ」
「……ちょ、ちょっと、なにがさよならなのよ……! まだ、……まだッ……!」
 なんども死を巡ってきたディアボロにはもう慣れたけれども、死期が理解できるというのはいつまで経ってもなれなかった。
 心臓をじかに鷲掴みにされるような感覚に、息が詰まりそうになる。脳に酸素が回らなくなり、血の気がひいていく。
 ばたり、とだらしなく倒れこみ、届かなくなる空気に手を伸ばすこともできなくなる。
 過去に殺そうとした娘の泣きそうな顔が最期に瞳に映りこむ。それは悪魔の目に、あまりにも眩しく映った。
(ああ……おまえはそんな顔をわたしにむけてはいけない……トリッシュ……)
 やがてまぶたは完全に閉じ、呼吸音もこの世界から消える。
 この日、ディアボロははじめて安らかなる死を迎えた。はじめて味わう、家族に看取られるという感覚だった。

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