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 愛する女が目の前にいる。
 美しい黒髪で、凛とした瞳で、イタリア人らしい明るい気風の性格の女だ。
 しかしこれから別れなければいけない。それが自分と関わったものの運命。不変の未来だ。
 愛する女は隣で小さな寝息を立てて寝ている。苦しまずに殺せるのは今のうちだ。わかっている。理解している。こいつも殺さなければ、と。
 殺す理由は簡単だ。自分を知るものは自分を脅かす。だから今までだって自分と関わったものは最後には殺してきた。これからもきっとそうだろう。
 冷気によって冷え切ったナイフを手にとり、彼女の心臓に狙いを定めた。
 今までこれほどに殺すことをためらったことがあっただろうか。自分は母親すら殺した男だ。もう殺害することに恐怖心などない。
 恐怖があるとすれば自分を脅かすもの。隣で眠る女はまさにそれである。
 彼女との付き合いは一月ほどだ。
 自分の故郷、サルディニア島にバカンスに来た彼女と恋をした。
 程遠いものだと思っていた。恋愛は、自分の存在を最も色濃く残してしまう行為。
 殺さなくては、殺さなくては、と自分の中で違うだれかの声がそう命令しているような気持ちに襲われた。
 振りかざしたナイフを一旦おろす。
 なにをこんなことで悩んでいるのかと、簡単なことではないかと自分自身に思い込ませる。
「……どうしてだ……」
 思わずぽつりと呟いた声に、彼女は気づいた。
 目をこすり、上半身を起こす。やや寝惚けた眼で、彼女は自分を見る。
「どうしたの、ソリッド」
「……なんでもないんだ。寝ててくれ」
「その右手に光るものは、なに?」
 察しのいい女だった。
 強気な彼女はそれを指摘し、刺されるかもしれない可能性をわかっていて言ったのだろう。
 自分が答えないでいると、彼女は黙って私の眼をみた。ソリッド、そう自分の偽名を呼んで。
 彼女を殺そうとしたことは紛れもない事実。気づかれたのなら殺すしかない。叫ばれても、逃げまどわれても殺すしかない。
 それしか自分を保つ術はないのだ。
 けれども自分は、
「なんでもないんだ」
 そう答えていた。無意識のうちに、心理がそうさせた。
 殺さなければならないのに、それを避けるような、そんな回答をしてしまった。
 彼女は私の目をみたまま微笑んだ。
「あなたがなんでもないっていうならなんでもないのね」
「…………」
「わたしはそれ以上聞かないわ、ソリッド」
 自分の偽名を呼ぶ、彼女。
 殺したくないと思わせるほどに愛しいと思わせる。まさに罪な女だった。
 彼女は自分から視線を外すと、ベッドからおりる。
 冷蔵庫へ向かうと、ペリエのミネラルウォーターを取り出してコップに注いだ。それは二人分あった。
 彼女は戻ってきて右手に持っていたコップを自分に渡した。
「水でも飲んで眠ったほうがいいわ」
「…………ドナテラ」
「なにかしら」
「聞いてほしいことがある」
「どうぞ」
 自分でもなにを口走ろうとしているのかわけがわからなかった。
 自分の情報はもらしてはいけない。形も残してはいけない。
 けれども、愛したたった一人の人に、真実を伝えなければとも思った。
 コップを持つ手に力がはいる。
「俺の本当の名前はディアボロという」
「……」
「俺は自分の存在を世に知られてはならない。そのためには、俺がここでお前と過ごしたという事実を消さなければならなかった」
「……」
「だからお前を殺そうとした。しかし殺せなかった」
「……そう」
 彼女は自分の話を聞き終わると、一言だけ呟いて寄りかかってきた。
 彼女の体温が、温もりが、じかに伝わる。きっとこれが最後だ。
「あなたの名前がソリッドだろうとディアボロだろうと関係ないわ。わたしはあなたを愛してる」
「明日にはお前の元を去る。――ドナテラ、お前はソリッドもディアボロも知らない。知らない女になる。そうすれば、俺はお前を殺さないでいられる」
「あなたの中に生き続けるのなら、殺されても構わない。そう覚悟したわ」
「俺はお前を殺したくないんだ」
 そうだ、これが本心。隠し切れない自分の心情だ。自分を滅ぼす、自分にとって最も邪魔な気持ちだ。
 それを黙して殺そうとした。
 けれども彼女の艶やかな髪も大きな瞳も、強い心もすべてが愛おしい。
 愛しいと殺せないなんて、初めて知る気持ちだった。
 愛情とは自分の心を乱す。もう二度と人を愛さないとたった今、誓った。
「…………わかったわ。あなたのことは知らない女になる。けれど、ただ……ただ、あなたの撮ってくれたこの写真だけは残させてほしいの」
 ナイトテーブルに置いてある写真立てを手にとって彼女は言った。
 自分が撮った、彼女ひとりだけが写った写真だ。自分たちの間に、写真はこの一枚しかない。
 この一枚も、彼女を殺した後に焼ききろうと思っていた。自分が撮ったという記憶がその写真には残っているから。
 そんなことを言えば、彼女は笑うだろう。
「……その写真がお前と過ごしたという証明になる」
「ふふっ、だれが撮ったかなんて、本人たち以外わからないわよ。……わたしはもう寝るわ。おやすみなさい、……ディアボロ」
 彼女はそう言うと、またベッドに入って寝てしまった。寝顔をみるのもこれで最後だ。自分はここへは戻らない。
 朝になればこの一ヶ月は自分にとっても彼女にとってもまっさらな空白となる。
 自分と彼女は存在すらもしらないただの人と人になる。
 これでいいのだと自分に言い聞かせた。
 朝日が顔を出すまで、ずっと彼女の横顔を眺めていた。
 そしてシーツに温もりも残さずに、部屋からひっそりと去るのであった。

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