蛇口をひねると温かいお湯の粒がトリッシュの身体一面に降りそそぐ。
トリッシュは毎日同じ順番で身体を洗う。まずは頭から。頭部にシャワーが当たるようにシャワーを持ち、桃色の髪を濡らしていく。くせっ毛であるため、髪に水が馴染みづらく、いつも苦労している。それに、ここのシャワーは水圧が弱く、まんべんなく髪を濡らすのにはわりと時間がかかる。
髪を掻き上げて根本をぬらし、そろそろいいか、とトリッシュ専用のローズの香りがする、緋色のシャンプーボトルのポンプを押す。
このローズのシャンプーは、トリッシュが今もっとも気に入っている香りであったし、友人にもいつもいい香りねと褒められるのでしばらく使い続けていた。
かしょ、とポンプを押すと情けない音がした。手にとれたのは本当に微妙の液体。おかしい、と二度三度押すが手にとれた量は変わらず。これでは髪を洗うのにはまったく足りない。
新しいものを買った覚えもないし、完全に失念していたのだ。一気に気分が下がってしまい、仕方ないと別のだれかのシャンプーを借りようと辺りを見渡す。
…………。シャンプーのボトルらしきものはトリッシュの紅色のボトル以外に見当たらない。一体、彼らはなにで頭を洗っているのだろう。今までは特に気にならなかったが、疑問符が何個も頭上に浮かんだ。
しかしこのままではいられないので、トリッシュは白い厚みのあるバスタオルで、せっかく濡らした髪の毛の水分を拭き取り、それから身体にタオルを巻いてバスルームを出る。だれかに尋ねたほうが早い。潔癖症のトリッシュは、いち早く身体にこびりついた汚れを落としてしまいたかった。
「ねえ、ちょっと」
「うおっ、おめーそんな格好で出てくるんじゃねーよ!」
ソファで雑誌を読んでいたギアッチョはトリッシュのタオル一枚の格好を見てぎょっとし、指摘する。
そんなギアッチョなどお構いなしに、トリッシュは話を続ける。
「あなた達なんてパンツ一枚で出てくるじゃない、それよりマシよ。――それより、シャンプー借りたいんだけどどこにあるのよ? わたしのしか見当たらないんだけど」
「あぁ? あるだろーが、ラックの二段目に! テメェの目は節穴か! っつーか節穴ってよォ~」
勝手に節穴という言葉に苛つきだしたギアッチョは放っておいて、トリッシュはシャワールームの風景を思い出す。
あのバスルームにラックは三段で、一番上にはトリッシュのシャンプーやらコンディショナーやらボディソープが置いてある。一番下にはあまり使わないバスタブを洗う洗剤だとか、スポンジだとかが置いてある。二段目を曖昧に想像するが、思いつくのは固形石鹸ひとつのみ。石鹸で頭を洗うなんてトリッシュには信じられなかったし、そもそもあれは髪の毛を洗うものではない、というのがトリッシュの認識だ。おそるおそるトリッシュは、ギアッチョの言葉を遮って問いかける。
「ね、ねぇ……二段目って……石鹸しかないじゃあない」
「だからそれだろ、それ」
「石鹸は頭を洗うものじゃないわ。せいぜい身体か、ふつうは手を洗うものよ」
「オレらそれで全部洗ってるぜ」
ひっ、と驚きと抑え目の悲鳴が混ざった小さな声がトリッシュから発せられる。トリッシュにとって、人と石鹸を共有するなんていうのは到底理解できる行為ではなく、それを考えただけで身の毛がよだつほどだった。なぜ、ここのバスルームには自分以外のシャンプーボトルがないか、いま理解して絶望した。
石鹸では頭を洗うことなど、トリッシュにできるはずがない。いつも汚れて帰ってくる男どもがそれで身体を洗っているだろうし、髪はきしむだろうし、マイナス面しか思い浮かばない。
「絶対ムリ! ねえ、ギアッチョ、シャンプー買ってきてよ。シエラオーガニカのローズアンドローズマリー!!」
「な~んでオレがそんなことしなきゃならねぇんだ! 自分で買ってこい!」
「もう髪濡らしちゃったもの! はやく買ってきてよ!!」
ぎゃんぎゃんとバスタオル一枚のまま喧騒を始める。湯冷めするほどシャワーを浴びていたわけではないが、やはり外に出ると寒い。ギアッチョに買いに行くようにお願いというにはあまりにもかわいくない命令をするが、ギアッチョはもちろんトリッシュの言い分など聞きもしない。
「だれかに頼んだらいいだろ」
「はっ、そうよ、それがあるじゃない! だれか……ええーっと……」
適当に、携帯の着信履歴の一番上にいたイルーゾォに電話をかける。呼び出し音がとぅるるる、と耳元で鳴り響く。それと同じくらいに、別のところから着信音が聞こえる。誰かが置いていった携帯でもなっているのだろうと思った。着信音はだんだん近づいてきて、つながったと思ったらイルーゾォが扉を開けて入ってきた。
「もう! なんで帰ってくるのよ!」
トリッシュは電話を勢いよく切って目の前のイルーゾォに八つ当たりとも言える憤激をぶつける。
耳元でぶつり、と電話の切れる音を聞いて、イルーゾォは眉間にシワを寄せたまま、ポケットに携帯をしまう。
「なんだ、帰ってきて早々……お邪魔だったか?」
「シャンプーがねえから買ってこいってよ」
ギアッチョは雑誌に目をうつしながらイルーゾォにわがまま娘の命令を押しつける。
「は? シャンプー?」
「シエラオーガニカのローズアンドローズマリー……」
すでにテンションに下がりきったトリッシュは、いじけて呟くようにそう答える。
「……シエラオーガニカのベルガモットアンドハニーなら持ってるが、貸してやろうか?」
まさに救いの言葉だった。
悄げていたトリッシュの目はカッと見開き、イルーゾォの六つに結わえられたうち二つの髪の毛の束を掴んだ。
「ちょっとあるなら言いなさいよ! 貸して!」
「い゛ッ! 貸してやるからこの手を放せ!」
髪の毛を痛みから解放されたイルーゾォは、少し溜め息をついてバスルームのほうへと歩きだす。気分が元に戻ったらしいトリッシュは笑顔でイルーゾォの後ろをついていく。
バスルームの鏡の中へイルーゾォが入り、シャンプーのボトルとコンディショナーのチューブを手に持って出てくる。間違いなく、トリッシュが使っているメーカーと同じところから出ている、種類ちがいのシャンプーだった。これならば髪の毛が荒れる心配もしなくていいし、成分も気にする必要はなさそうだ。
「ほらよ。あんまり使いすぎるなよ」
「ありがとう、本当に助かったわ!」
「使い終わったら俺に言え。置いといたらあいつらに勝手に使われるからな」
そういうとイルーゾォはバスルームから出て行く。
赤茶色のボトルから出た液体から香るベルガモットのいい香りが鼻孔をくすぐる。そういえばイルーゾォの髪はつやがあって、暗殺者らしくないぐらいに綺麗だった、とぼんやり思い出しながら、トリッシュはいつもより長いバスタイムを堪能する。
ベルガモットアンドハニーのシャンプーで洗ったトリッシュの髪からは、ふんわりといい香りがして、今度買いに行く時に悩んでしまいそうだった。それほどに柑橘系のさっぱりとした香りはトリッシュを惑わせた。
バスルームからそろっと、出て行ってリビングのほうへ行くと、ほかの面々も帰宅していて、各々食事を摂っていたり、ぼうっとテレビをみていたり。
「あれ、トリッシュ。こんな時間に風呂入ってどこか出かけるんですかい?」
忍び足でバスルームから出てきたトリッシュに気づいたペッシがそう話しかける。
いまは午後六時。ふだんトリッシュがシャワーを浴びる時間は寝る前の午後十時頃なので、珍しがられてもおかしくはなかった。
「ええ、友だちとご飯なの」
「あんま遅くなるんじゃねーぞ」
テレビを見ながらプロシュートがそうたしなめる。
「もう、子どもじゃないんだから!」
プロシュートが心配しているのは他の組織に拉致される可能性なのだが、トリッシュは思わずかっとなる。
「ん、トリッシュなんかいつもとちがう香りがする」
気づかない間に近くによっていたメローネがトリッシュの耳元で囁く。
耳にかかる息だとか、知らない間に現れた男の存在に、背筋に蛆虫がたかったかのようなぞわっとした感触に襲われ、反射的に接近してきたメローネの顔を思わず平手打ちする。
「近寄らないで!」
「……うん、そのビンタ……ディモールト良いッ……」
まるで遺言のようにメローネは呟きながら、平手打ちされた右頬を抑えてその場にうずくまった。
自身の平手打ちに倒れたメローネなど気にもとめず、トリッシュはすたすたと自室へ歩いて行ってしまう。
「そんなに違ったかァー? トリッシュのにおい」
「うーん、なんか……イルーゾォみたいなにおいがした」
大して興味もなさそうな顔のホルマジオの問いに、メローネは地面に膝をつけたまま顔をあげてそう答えた。
メローネがどれだけ人のにおいを嗅ぎ分けているかはわからないが、この回答は大方正解といえるだろう。
髪の毛を乾かして、化粧を施して、お気に入りのチョーカーをつけて、少し外は肌寒そうなので上着を羽織り、出かける準備を重ねる。
動く度に、甘酸っぱいベルガモットの香りと、まろやかな甘いはちみつのにおいが髪から香る気がした。
先ほど部屋に入る間際、メローネが言っていた、「イルーゾォみたいなにおいがした」という言葉が気になってしかたがない。いい香りはいい香りなのだが、イルーゾォと同じにおいがするということがなんだか気恥ずかしくなってきてしまった。――おなじにおいを漂わせるということが、こんなにも照れるものだとは。トリッシュはいま、身を持って実感した。
「一緒に暮らしてるんだから……おなじにおいがすることだってあるわよ! そうよ!」
自分にそうやって言い聞かせて、グロスをひいて、化粧ポーチをしまう。
準備が整った瞬間、シャンプーとコンディショナーを返してないことに気づいてはっとなり、急いでバスルームへ取りに行く。
赤茶色のシャンプーボトルとチューブをとって、水分を拭き取り、時間を確認して、間に合わせの時間まであと何分かしかないと気づいて大慌てで返しに向かう。
「い、イルーゾォ。シャンプーありがとう!」
「ああ」
「……なによ?」
「顔赤いぞ、のぼせたんじゃあないのか」
両手で両頬を抑えると、頬の熱が手に伝わる。気づかなかった。この赤さはチークでもなんでもない。まぎれもなく、照れて頬が紅潮している。
指摘されてそのことに気づいて、さらに顔に熱がこもる。
「うっ、うるさいわね! あんたには関係ないわよ! いってきます!」
「日をまたぐ前に帰ってくるんだぞ」
リゾットが再度トリッシュに忠告する。
「わかったわよもう!」
「なに怒ってるんだ、あいつ」
「そういう年頃なんだろ」
暗殺者たちはのん気に年頃の娘を見送る。
彼女の顔が火照る思いに気づく者は、この中には誰一人としていないのであった。
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