薄手のコートに身を包んだトリッシュ・ウナは自身の通う専門学校から少し離れた街道を歩いていた。用もなく歩いているわけではない。昼食を食べるために出かけている。あまり学校から近いと同級生たちがたむろしていて気まずかったり、軽薄な男に絡まれて不快な気分になるからだ。あと数カ月で二十歳になる年のトリッシュは校内では美人なのにぶっきらぼうで鼻につくと評判で、服飾の学校なのに高尚なモデル様が通っているなんて揶揄されることもある。そんなこともあって、授業の時以外は学校の近くに居たくなかった。だからわざわざ遠くまで足を運ぶのに、道すがら声をかけられることは少なくない。ひとりで歩いている美人は目立つ。美人にはたいてい隣人がいる。だがトリッシュはその定型には当てはまらず、ハイスクールを卒業して一年以上が経つこの専門学校生活、友人も作らずひとりきりだ。
前に行ったバールのワタリガニを使ったトマトクリームパスタが美味しかったからここから歩いてほど近いピッツェリアにでも行こうかと考えていたところ、正面に影がさす。自分よりも大きな影。嫌な予感がしてトリッシュは影を左に避けるようにして先を急ごうとした。通り過ぎざま、「チャオベッラ。一緒に食事でもどう」なんてありきたりの使い古された口説き文句を投げかけられた。この一年間、すっかり聞き飽きたセリフを「いらないわ」と投げ捨てトリッシュは先を歩く。結構と言えばいい意味で捉える男もいる。厄介で都合のいい脳みそにしっかり伝わるようにノーを言い渡し、黒の七センチヒールで石畳を鳴らす。それでも諦めない革靴はトリッシュの背中を追いかけ、あっという間に追いつき、めげずにくらいついてくる。
耳元でわあわあと騒がしいので、トリッシュは突然立ち止まり、くるりと男のほうを振り向いた。「しつこい男は嫌いよ。長い髪の毛も」そして自身の相棒をひっそり小声だ呼び出した。「スパイス・ガール」相棒であり分身であり友であるスパイス・ガールの拳は男の右足を殴り抜ける。といっても痛みを与えたわけではない。男は躓いたわけでもないのに膝から崩れ落ちる。そして下を、柔らかくなって歩くことも困難になった右を見た。なにが起こっているのかさっぱり分からない様子の男を蔑み顔で一瞥して、トリッシュはその場を立ち去ろうとした。柔らかくなった足はあと少ししたら解いてあげよう。
ようやっと男を振りほどけたと安堵し、向き直り歩みを再開する。昼食を食べるのにこんなにも一歩一歩が鈍いなんていうのは非常にばかばかしい。トリッシュが辟易しているところ、今度は肩に手を置かれる。先ほどまでは冷静に振る舞っていたトリッシュもさすがに頭にきた。
「同じことを二度言わせないでちょうだい。その髪引き千切って喉奥に突っ込んで喋れないようにしてやるわよッ!」
威勢よく振り向いた。いつもはお上品につつがなく振る舞っているものの、ふと口をついて出る言葉は思春期からひきずる悪態だ。男を見上げ、睨みつけるとその視界には先ほどの男のものとは違うふわりと柔らかなブロンドの髪が目に飛び込んできた。呆気にとられたトリッシュは半歩引き下がり、肩を叩いてきた男の顔を認める。
「それは困ったな」
かたや男はトリッシュの暴言をものともしないいたって穏やかな顔つきでその金髪と同じくふわりとした笑みを目元に浮かべていた。
「久しぶり、トリッシュ」
「ジョルノ…………どうして……」
笑みに笑みで返せず、トリッシュの表情は固まる。五年前にあの忘れられない激闘をともに駆け抜けた人。トリッシュのもっとも忌むべき父親をこの世の理から追放した人。裏社会で生きる覚悟を決めたトリッシュと同い年の男の子。そして、トリッシュが一方的に生きる道を別れた人。
ずっと連絡はとってなかった。会うこともなかった。その間に彼の身長は伸びて、背格好もたくましくなっている。なめらかで光沢のある黒の背広とストライプのベストは高品質で、とても街をうろつく格好とは言いがたい落ち着き払ったシックな佇まいだ。首元を締めるライラックのような青みがかった紫色のネクタイが聡明さを抱かせる。全体的には優しげな好青年の印象を与えながらもどこか油断できないような緊張感と厳格さが醸されている。
「よかったら再会の記念に食事でもどう?」
「…………ええ、そう、ね」
トリッシュは迷ったが、拒むのもなんだか違う気がして躊躇い混じりのイエスを返した。この辺りの店を知らないらしいジョルノ・ジョバーナはトリッシュにお気に入りのバールがあるかどうか尋ねる。出会う前にトリッシュが思い浮かべていたピッツェリアの名前をあげると「ではそこで」ということですぐに決まった。足を運ぶと昼時だがそう混み合ってはおらず、観光客などの余所から来たようにみえる人々が散見された。この地方で暮らす人は帰宅して昼食を食べる人のほうが多いのだ。トリッシュのようになんの思い入れもない土地で一人暮らしをしている身としては関係のない話だ。
母が死んでひとりぼっちになった。今まで会ったこともない父親の部下だと名乗る人に連れられ、彼らと出会った。その時のジョルノの印象は同じくらいの年のきれいなチンピラっぽくない男の子。年齢を知ったのはすべてが終わってからだった。パッショーネというギャング組織のボス、トリッシュの父親もといディアボロは永遠に死の淵をさまよっている。この世とあの世の狭間で生き死にを繰り返していることをトリッシュはたしかに感じている。
あれから、トリッシュはディアボロとの最終決戦で出会ったジャン・P・ポルナレフのツテでスピードワゴン財団の援助者であるイタリア人医師の老夫婦の養子となった。当時齢十五のトリッシュにはまだ親という肩書きの人間が必要だったのだ。それからだ。養子となってから、トリッシュは彼らと連絡をとるのをやめた。
最初は苦しかった。同じことを体験した者などこの世には彼ら以外存在しない。あの数日で大切な人々を喪った。大切だったのだと気がついたのは彼らの葬儀が終わってからだった。ただ純粋に悲しくて泣いて、それから自分の痛覚の鈍さに呆れた。しかしトリッシュよりも縁が強いだろう彼らは毅然としていた。トリッシュが悲しんでいる時、彼らはすでに前を向いていた。後ろを振り返っていない彼らを見て、自分も前を向かねばならないと感じた。だから彼らに連絡をとるのをやめた。彼らと一緒にいる時間は、どうしても複雑な痛みを思い出してしまう。彼らは優しく慰めてくれると知っている。だからこそ自身の弱さもろとも断ち切った。トリッシュ・ウナは前を向き、彼らと交わらない道を歩くことを決めた。
養夫婦はとても優しい人たちだった。トリッシュが生まれたままの姓を名乗ることを望み、一人暮らしをしたいと申し出ると比較的治安のいい地方のハイスクールに通わせてくれた。この専門学校に入ることも一応相談したが「あなたが望むように生きればいい」と励まされた。いまはハイスクール時代にアルバイトをして貯めたお金と、生母の遺産でこぢんまりとした一人暮らしをしている。ひとりで生きることは慣れてしまった。時々養夫婦には連絡するが、お互いに過剰な干渉はしない。トリッシュにとってはちょうどいい距離感だった。
自分の父親の正体を知るためだけに危険な旅に同行し、果てには父親を追い詰め、殺害以上の絶望を与えて屠ったあの時のことを片時も忘れたことはない。父親の気配だって、いまもふとした時に感じる。まだ根治していない悲しみと恐怖を乗り越えるためにトリッシュはいまを生きている。
それなのにどうしてか、目の前にジョルノが現れてしまった。会わないことで前を向いていられると思っていた。それはトリッシュのくだらない願掛けみたいなもの。それがたったいま断ち切られた。喉の奥が苦しくなって、食欲は消え失せてしまった。
運ばれてきた青々しいプンタレッラのサラダ。アンチョビソースとワインビネガーで味つけされた酸味あるサラダはトリッシュの好みだがいまはそれどころではない。再会を記念して無機質なグラスが鳴る。喉を通る炭酸のぴりとする感覚に気を取られていると、ナイトブルーの瞳がトリッシュをじっと見ている。なにを発するわけでもなく、ただトリッシュを見ている。今更にこやかに久しぶりなんていうのもおかしく、必死に平静を装いながらグラスを物音立てないようにテーブルに置いて黙りこくってしまう。
後ろめたさなんて感じていないつもりだった。わたしはわたし。彼らは彼ら。そう思って生きてきた。トリッシュから連絡を断てば彼らから連絡が来ることもなかったので、これでよかったのだとトリッシュはいままで思っていた。だが彼らのことは片時も忘れたことはない。生きる道筋が違うのだから後悔なんてないと頭の中で必死に唱えていただけだったのだ。いまジョルノと対面して焦りを感じている自分がいて、トリッシュは内心ひどく動揺し続けている。
「君が元気そうでなによりだ。僕らも嬉しい」
ジョルノはプンタレッラをフォークで刺しながら言う。軽やかで爽やか。まるで一か月ぶり、くらいのフランクさで。
「そう、ね……ありがとう。ジョルノも元気そう。背が、伸びたのね」
なんとかして普通の話題を出して空気を取り繕う。
「この五年の間でそれなりに伸びたよ。おかげで周りにも第一印象がいい」
出会った頃はトリッシュがすこし視線を上げれば目が合った。だがいまのジョルノは一八〇センチメートル以上はありそうな立派な体躯をしている。フォークを扱う骨ばった手もどこかたくましい。嫌でも五年の歳月を感じさせる。墓穴を掘ってしまったことに気づき、トリッシュは口の中にあったプンタレッラをごくりと飲み込む。ふたりの間で流れた歳月を気にしているのはなによりも自分自身かもしれない。あたりさわりのないことを聞いたつもりが迂闊だった。
「トリッシュはいまなにを?」
「学校に通っているわ。ええと……服飾の」
トリッシュが服飾の学校に通っていると言った途端、へえと初めて聞いたようにジョルノは反応した。
ジョルノはイタリア全土に影響力のあるパッショーネのボスだ。本人から聞き出さずとも情報を仕入れるのはたやすいだろう。トリッシュがここにいた理由、家の住所、どんな学校生活を送っているかだって知られていたってなにもおかしくない。この国においてギャングの影響力というのはそういうものだ。偶然を装いボス自ら会いに来た。そういう可能性だってある。トリッシュの頭の中で蔓延る後ろめたさが、いまジョルノがここにいることに疑問を感じさせる。
「わたしのことより、ジョルノはどうしてここにいたのよ。しかもひとりでなんて危ないんじゃあないの」
自分の話題からそらし、彼の行動を探る。ギャングのボスがこんな街道をひとりでうろうろしているのはおかしい。そんなことを気にするのはただトリッシュが自分のことに触れてほしくないだけなのだが。
「ニ時間好きにさせてくれと言ってある。僕にだって休暇は必要だ」
厳格な口元がくすりと微笑を含み、すこしだけ緩む。ギャングがどれだけ仕事に追われているのかは知らないが、よっぽどタイトなスケジュールをこなしているらしい物言いだ。では尚更、なぜここにいるのか。疑問が頭の中で膨らみ、トリッシュは適当に相槌を打った。
ワタリガニのトマトクリームパスタが運ばれてきた。きちんとほぐされたカニの身がトマトクリームパスタの上に盛りつけられている。皿の中でフォークに巻きつけた。トマトの酸味とカニの塩味が口の中に広がる。シャレた味でもなく、シンプルでほっとする味付けに心が少しだけ落ち着く。だが視線を感じて顔を上げるとジョルノはまたトリッシュを見つめている。食べにくいったらありゃしない。
「二時間しか自由にできないなんて大変ね。それにしたってこんなところ、なにもないのに」
近くにトリッシュが通う服飾の学校と個人でやってる飲食店やブティックが立ち並ぶ。あとは住宅街。ただそれだけの街にどうしてきたのか、探るような皮肉るような。またフォークにパスタを巻きつけて口に運ぶ。
「なにもないなんてことはない。君に会えるのだから」
ペリエを一口あおって、さもトリッシュの言葉の意図を理解しているといったふうにいたずらっぽく口角を上げる。やはりジョルノはトリッシュの居場所を知っていてこの土地に訪れたのだ。
ジョルノの頭が冴えていることはトリッシュも知っていた。サルディニア島に飛行機で向かっている途中、スタンド使いに襲われた時もジョルノだけが正体不明のスタンド能力を見抜いた。勉強もできるのだろうし、勘もいいのだろう。
「……やっぱり、わたしを探したのね」
その事実から逃れられるならその方がよかった。ランチをともにしてさようならとできたなら。トリッシュが深刻そうに呟くのを聞いて、ジョルノはアマトリチャーナを食べる手を止めた。わずかに目が見開かれ、瞳が揺れたがトリッシュは気がつかなかった。テーブルに片肘をついて顔を寄りかからせて俯いている。まるで恐怖を抱いているように。
「どうして探していたと思う」
「…………分からないわ。いまさら、なんだってわたしのことなんか……」
消え入りそうな声。思い出されるのはすべてが終わった後に聞いた、彼がトリッシュへ遺した願い。それを叶えることこそが亡くなった彼へのはなむけになるだろう。そのためには自分の力で必死に生き抜いて、闇が巣食わない場所で輝いていたい。この五年、彼が望んだ未来であるように、片意地張って生きてきた。だがそんな意地は、ジョルノと再会したことで脆く崩れてしまった。旧友との再会、本当なら手放しで喜びたい。嬉しくないはずがない。それなのにまるで魔法が解けたように後ろ向きな自分が顔を覗かせる。己をひどく嫌悪した。
「ずっと会いたかったんだ。いま、実感している」
トリッシュとは対照的にはっきりとした声音でジョルノはそう述べた。まっすぐな声と言葉がトリッシュの胸を突き刺す。なんて返せばいいか分からなかった。トリッシュにとってジョルノは現実を視る人であった。だからそんな歯の浮いた台詞を言うとはまさか思いもしなかった。その言葉の真意を探り、次の言葉を躊躇っていると、メインディッシュの白身魚のアクアパッツァが運ばれてきたので会話はやんだ。パスタとメインを無口のまま片付けて、最後に出てきたエスプレッソをかっ食らって、店を出た。
店を出てそのまま「さようなら」と足早に去ろうと考えていたトリッシュだったが、先に口を開いたのはジョルノだった。「君がどんなものを作っているか興味がある」などとさわやかな顔で言う。つまりアトリエに連れて行けということだ。なんてわがままを言ってのけるのだ。だが断ろうとしてもどうにか言いくるめられて結局アトリエに向かう話になるに違いない。ジョルノはさわやかだが弁が立つ。トリッシュには太刀打ちできない。すこしでも利口なふりをするためにトリッシュは躊躇った後に許可を出した。午後からの授業は欠席せざるをえない。彼は一体なにを求めているのだろう。
ジョルノが路肩に停めていた車に乗って、トリッシュが借りているアパートの一室にやってきた。きなり色の壁、赤のドア。ジョルノはたいそうご機嫌そうにドアの鍵を開けるトリッシュの後ろに控えている。服飾に没頭するためだけに借りた白い木目がシンプルで落ち着ける室内には鉛筆で描かれたデザイン画がテーブル一面に広げられている。ミシンの近くにははぎれや細かく切れた糸が散らばっている。生地が服が日焼けしないようにカーテンは半分ほどしめられている。誰にも見せる予定なんてしていなかったから、粗雑さが随所に見え隠れしている。また相反してあらゆる手触りの布生地やレースは丁寧に棚に収納されており、ボタンやスパンコールなどの飾りになりそうな素材も種類ごとに細かくに瓶やクリアケースに入っている。すこし乱暴でだいぶ几帳面なトリッシュの生まれてそのままの性格が見え隠れする。
「悪いけど、カッフェもなにも出せないわよ。本当にただのアトリエだから」
「構わないよ。押しかけたのは僕だから」
ジョルノは物珍しげにアトリエを見渡す。学校の課題は様々だ。シャツやパンツ、ワンピース、今まで作ったものは酷評を食らった物でも処分せずにハンガーラックにかけて保存してある。しかしその中でも一際目を引くのはワンルームの部屋の奥、ぽつんと孤独なトルソーが佇んでいる。
ハイネックの首元からデコルテ、さらに手首までを覆うようにきめ細やかなレースがあしらわれており、そのところどころに小粒のコットンパールが散らばる。胸からはジョーゼットのなだらかな生地が後ろに引きずるほど長い。ウエストにはシルクのリボンが縫いつけられているが、その作業はまだ途中のようだ。暖かみのある柔らかな白が祝福を想起させる。ジョルノの知識が正しければ、これはウェディングドレスだ。
「きれいだね。君に似合いそうだ」
「べつに、自分で着る服をデザインしてるわけじゃあないのよ」
トリッシュはイスに腰掛け、ジョルノの言葉にくすりと笑う。もちろんデザインに自分の好みは影響しているが、作り上げた服が自分に似つかわしいかは話は別だ。どこか他人事のような眼差しで、トリッシュはウェディングドレスを見ながら話す。
「誰かの幸せの役に立ちたいの。そう考えたら、ウェディングドレスに行き着いた」
花嫁衣装は幸せの象徴だった。着ているその人だけでなく、周囲の人すべてを幸せな気持ちにさせる神秘が詰まっている。繊細で芸術的な側面もあり、トリッシュはいつしかウェディングドレスのデザインと縫製を手がけたいと思うようになった。後ろめたい過去があっても、どんなに邪悪な父親の下に生まれたとしても他者の幸せを祝福することはできる。
「自分の幸せは?」
ジョルノはトリッシュに向き直り、横のイスに腰を下ろす。ウェディングドレスを見つめるトリッシュの瞳に迷いはない。だがマラカイトはどこか寂しげに瞬く。返事はない。
「……君が幸せならそのまま帰ろうと思った。いや……違うな。君が行方をくらませてからこの五年、ずっと会いたくてしかたがなかった。元気にしているか、つらい思いはしていないか、信じられる人は、友人は、恋人はできたか」
トリッシュがこつ然と姿を消した。最後に会った時は「またね」と彼女が匿われているアパートの玄関で別れた。その時はパッショーネの再興に忙しなく動いており、次に会えるのは二ヶ月後の約束だった。花束を持って訪れた。しかし色鮮やかな花束は玄関先で落下する。もぬけの殻のアパートの真相を知ったのは、血相を変えてアジトに戻った時だった。組織の相談役としてのポジションにすっかり収まっていたポルナレフがトリッシュの独り立ちを支援したという。怒ることも悲しむこともできなかった。自分たちと別れて生きることが彼女にとって正しい道であると理解していたはずだった。
いなくなってから気がついた。彼女はジョルノにとって特別だった。名前も顔も知らなかった父親に殺されそうになってもなお前進する底力。肉親という縁に囚われないタフネスな心。けれども多くの人を喪って傷ついていた。ジョルノがもっとも信頼し尊敬する彼の人が彼女を最後まで守ったように、彼女を守るのは自分の役目だと思っていた。しかし彼女は守られるだけの人ではなく、むしろジョルノよりも早くに立ち上がって、先を歩いていった。敬意を抱いたと同時に、寂しくも感じた。彼女は自分は居ずとも大丈夫。
トリッシュを忘れたことはなかった。彼女が幸せに暮らしているかどうか、もしかすると因縁を断ち切って正しき愛を手に入れているかもしれない。彼女に関する情報を仕入れようと思えばいくらでも仕入れられた。しかしいままでそれをしてこなかったのは自分の干渉が彼女にとっての毒になるかもしれないと思ってのことだった。あえてなにも言わずに去ったのは袂を分かつためだ。彼女の意思を尊重したかった。
しかしそれでも会いたくなって、こうして彼女が住む街にまで来てしまった。ジョルノは自分のわがままを押し通した。
「……わたし、幸せそうに見えているかしら」
再会してからちっとも笑わなかったトリッシュが儚げに笑う。そんな笑顔を見たかったわけではなかった。もっと澄み渡る青空のように屈託のない笑顔だったのなら、ジョルノは未練なくトリッシュを諦められたのに。
「君の夢は素晴らしいことだ。けれど僕はまず君が幸せでいてほしい」
か細く柔らかな手を握りしめる。握り返されることはなく、目が合うこともない。しばらくすると重なった手の甲にぽたりと涙が落ちる。ローズピンクの髪がふわりとジョルノの肩にもたれかかってくる。
「……わたしは、一度あなたの前からいなくなった。頼らずとも前に進めるって、証明したかった。……それがわたしの覚悟だった。けれど……幸せじゃないなら、だめね……」
指先で目尻の涙を拭いながらぽつりぽつりと話し始める。元気な姿で会えるならよかった。だがいくら死線を乗り越えた精神があっても、幸せに行き着くには時間がかかる。むしろ苦難があったからこそ幸せへの恐怖心が生まれる。
自分の周りでたくさんの人が死んでいったこと、自分の父親が同じ人間とは到底思えないほどの畜生であり、また自分にもその血が流れていること。まばゆい太陽でなくては解かせない、後ろめたい恐怖心。
トリッシュが姿を消した理由を聞き取り、ジョルノは涙を拭うトリッシュの指先に手を重ね合わせる。
「トリッシュ、僕と一緒になってくれませんか」
「……だめよ。あなたの傍にいると、あなたを頼ってしまう」
前を向いている彼らのためにトリッシュは行方不明になった。それなのに再び戻ることは彼らの道筋の邪魔になるのではないか。優しさに甘えてしまうのではないか。ジョルノ本人から言われても後ろめたさは消えない。
「僕がそれだけのことで君を見放すとでも?」
ようやっと目があった。自信のきらめくナイトブルーに惹きつけられ、トリッシュは顔をくしゃくしゃにしてわあわあと泣き出してしまう。本当はずっと別れたくなかった。いつまでも良き友人でありたかった。感情が噴出して、止まらない。
「おかえりなさい、トリッシュ」
泣きじゃくる彼女の背中を優しく抱きとめる。祝福の光がカーテンの隙間から差し込み、ふたりを暖かく包み込んでいく。もうお互いに忘れる必要はどこにもなかった。
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