爽やかな朝、自然に目が覚めてオフホワイトのシーツの温もりから抜け出そうと身をよじる。しかしトリッシュ・ウナの身体を雁字搦めにするネールピンクの細腕が動きを制止する。寝ているはずなのにがっしりと掴まれていて振りほどけない。自分は抱きまくらかなにかなのだろうかとトリッシュは愛すべき隣人の寝顔を眺めながら苦笑した。柔らかな金髪がちょうど胸部にあるのがくすぐったい。その愛おしさに起こしたくないと思いながらも、トリッシュは彼の頭を撫でて声をかける。彼はとても忙しい人だ。
「ジョルノ、朝よ」
「…………」
「今日は朝から用事があるんじゃあなかったの。起きないと遅れてしまうわ」
「…………」
無言のまま深く眠っていたまぶたがゆっくりと起き上がる。ジョルノ・ジョバーナはまだ夢見心地なとろんとした瞳だけを左右見渡すように動かして、それからようやく腕を解いてトリッシュを見た。むくりと起き上がってもなお無言。彼がトリッシュより後に起きること自体珍しいが、やはり平時と変わらず物静かなんだとトリッシュは思う。窓を背に太陽が彼の体を照らす。白い素肌の上半身がなんだか禁忌的だ。
ようやっと解放されたトリッシュは仰向けに体勢を変えてから起き上がる。さてベッドから出ようと思えば引き止めるように手の甲を捕まえられる。その手のひらは熱を帯びている。まるで子どものようだ。
「おはよう、トリッシュ」
手の甲を伝って移る微熱に気を取られていると、顔が近づいて触れるだけの口づけが落とされた。目覚めの挨拶。本来こんなことをするような男ではなかったような。まだ自分も彼も寝ぼけているのだろうか。ジョルノは伸びをすると、トリッシュよりも先にベッドを降りて寝室を出ていった。なんだか勝手な男だが、それでも嫌な気はしない。それはトリッシュが彼を心から許し愛している証拠なのだろう。
トリッシュはベッドの端でくたくたになったコットン生地のミントグリーンのワンピースを頭から被ると、彼の後ろ姿を追うように部屋を出た。ここはトリッシュがひとりで暮らすマンション。ベッドは知らないうちにダブルベッドに入れ替えられていた。ふたりで過ごす時間が増えた。まるで会っていなかった時間を埋めるように。
洗面所の歯ブラシもお気に入りのミントの歯磨き剤も長い前髪をとめるバレッタも。一緒に過ごす時間が長くなるにつれてトリッシュの家には彼の私物が増えていった。それをごく自然に受け入れている自分にいまだ実感が湧かないまま、トリッシュは逢瀬を重ねている。
なんの違和感もなくキッチンのラックからビスケットとチョコスプレッドを取り出す。それから買い置きのチョコクロワッサンも。ふたりが向かい合って座る小さなテーブルに皿を出し、それらを並べていく。向かいに人が座るなんて想像していなかったから、最近では四人がけくらいのサイズのテーブルが欲しいと思う。
シャワールームのほうからドアの開く音が聞こえた。しばらくしてからドライヤーの音が聞こえ始めたので、トリッシュはマキネッタを火にかける。彼が洗面所のほうから出てくるころにはエスプレッソが抽出された。コーヒーカップにエスプレッソと温めた牛乳を入れテーブルに運ぶ。
朝食が並べられたテーブルを前にふわりと乾かしただけの金髪が腰をおろす。ビスケットにチョコスプレッドを塗り、口を運ぶ前にカフェラテで口を湿らせた。ふたりの静かな朝食はゆったりと過ぎていく。
食事を摂り終わるとジョルノは自分とトリッシュの分の皿を洗い、二杯目の……今度はモカを淹れてトリッシュに差し出す。一方のジョルノはモカに砂糖を入れて一気に飲み干すと、髪の毛をセットするために洗面所へ向かう。ギャングの親玉なのにトリッシュの前では優しくて爽やかな青年に思える。たぶんギャングは皿なんて洗わないからだ。
今日だって朝からの用事になにがあるのかトリッシュはまったく知らない。特に干渉したいとも思わないので聞きもしない。彼が用事の詳細を話さない時はたいてい仕事のことなので聞いてもろくなことがないだろう。なんだか映画やドラマに出てくる使い勝手のいいギャングの愛人に自分を投影してしまい、内心ほくそ笑んだ。一度切り離したはずなのに再びこうして結ばれた。人がふたりいるとなにが起こるか分からない。
イスに腰かけたまま朝のニュースを眺めながらぼうっとしていると、ワイシャツのボタンを首襟までかっちり留めたジョルノが寝室のほうから出てきて、深緑のネクタイを無言のままトリッシュに手渡す。
「……なあに?」
「ネクタイ結んで、トリッシュ」
「なに言ってるのよ。自分で結べるくせに」
「今日はそういう気分じゃあないんだ」
なんだか子どもっぽい言い訳を聞き流し、トリッシュは立ち上がってネクタイをジョルノの首に回す。ネクタイを結ぶには近づく必要がある。ジョルノに近づくことをいまさら緊張したりはしないが、ネクタイを結んだことはない。もちろん、今の今まで一度も。誰のネクタイも結んだことはない人生だった。父もいない。恋人もいない。ネクタイとは無縁だった。
分からないなりに通っている服飾の専門学校の授業で習ったネクタイの結び方を思い出す。左右交互に巻きつけ、最後に結び目を作るようにネクタイの先端を輪っかに通すと、ぼんやりと見覚えのあるそれらしい形になった。
「ほら、できたわよ」
「ありがとう」
ジョルノはすこし屈んでキスを落とす。朝から数えて二回目。アッシュローズの唇にカーマインレッドの口紅が少し移った。それがやけに色っぽくて、トリッシュは俯いてジョルノから目を逸らす。
「もう……」
「もう、なに?」
「今日は朝からずいぶん甘えたさんだわって思っただけよ」
どきりとさせられた心を隠すように上から目線でそう言った。ジョルノは反論することなく、どこか満足気に口角をあげてイスにかけていたジャケットを羽織る。ポケットに手を差し入れると、ゴールドに輝くネクタイピンでネクタイを挟んだ。そのネクタイピンはトリッシュが彼にプレゼントしたものだ。平面の部分には花模様が掘られており、てんとう虫がアクセントとなっている。だがそんなに高くもなんともないノーブランドの、ぐうぜんどこかで見かけて買った品だから品格のあるスーツの中ではなんだか浮いてみえる。少なくともトリッシュにはそう思えた。
「それ、仕事にも使っているのね」
「もちろん」
「ほかのタイピンを使ったほうがいいんじゃあないの。そんなに高くもないし……」
プレゼントした当の本人が苦言を呈すと、ジョルノは顔をしかめるわけでもなく、澄ました顔でトリッシュの頬に手を添える。
「君からの贈り物に勝るものなんてない。それに僕はこれが気に入っているんだ」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど……」
ジョルノの言葉はいつだってストレートだ。本心からそう言っているのが明らかで、トリッシュは反論できず口を尖らせる。あまり口酸っぱく言っても小うるさいと思われそうで嫌だった。ジョルノの手から逃げるようにイスに座り直して頬杖をつく。
てんとう虫のネクタイピンはトリッシュがジョルノらと袂を分かって直後くらいに買ったものだ。ぐうぜん贈答品を扱う雑貨屋で見かけたもので無意識のうちに手が伸びていた。鈍く光る黄金色、てんとう虫。別離したばかりのジョルノがすぐに思い浮かんだ。渡すこともないはずなのにプレゼント用に包装までしてもらって、ずっと開けられなくて引き出しにしまってあった。だが再会した後に自宅を整理している時に見つけ、自分の手元にいつまでも置いておくのも変な話だと思ってジョルノにプレゼントした。
その時のジョルノの反応といえばトリッシュは今も覚えている。慈しむような瞳でトリッシュとネクタイピンを交互に見て「大切にする」と固く誓うように言った。これが初めての贈り物だった。だから使わないでと強くは言えない。
「会ってない間に買ってくれていた物なんだ。それまでの時間を埋めるくらい身につけていたいだろう」
「あなたって、案外ロマンチストなのね」
プレゼントした品を身につけることによって空白の時間を埋めてくれるだなんてトリッシュは考えもしなかった。ふだんの立ちふるまいや思考はロマンチストとはほど遠い。現実的かつ論理的に問題を解決していく性格なのだ。そんなことを言い出すとは思っておらずトリッシュは驚きのあまり目を見開いてジョルノを見上げた。
「君がそうさせるんだよ」
ジョルノはいたって冷静な声色でそう言いながらイスの背もたれに手をかけ、トリッシュに近づく。本日三度目のキスが降ってきたのはその直後だった。
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