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 トリッシュは怒りを抱えるとそれを発散しなければ落ち着けない質だ。リビングに置いてあったはずのヴォーグの最新号がどこにも見当たらない。まだ読んでいる最中だったのに。もしかして誰か粗忽者が捨てたのではないかと同居者に尋ねて回ったが、みな知らないと声を揃えて言う。しかし奴らなら知らないうちに捨てていてもおかしくはない。そんな想像をしてしまったものだから、余計に面白くなく、トリッシュは怒り任せに最後の男の部屋を訪ねた。丁寧にドアをノックして所在を確かめたりなんかしない。いきなりドアノブをひねって勢いのままドアを全開にした。実のところ、この男が一番あやしいのだ。なにせこの男には前科がある。ほかの同居人も口を揃えてアイツじゃあないかと責任転嫁した。トリッシュも心のどこかで疑いから確信に変わっている。後はとっちめるだけだ。
「メローネ! 私のイタリアンヴォーグどこやったのよ!」
 犯人はお前だと言わんばかりに突撃する。しかし少女の声に跳ね返ってきたのは静寂だった。薄暗い簡素な部屋、パソコンのデスクトップの明かりだけが不気味に光る空間をきょろきょろと見渡すと、目的の男はベッドの上でうつぶせになっていた。カバーレットから頭だけがかろうじて覗いている。トリッシュは一瞬だけ躊躇したが、自身の問題解消のためには男の状況など構っていられず、部屋に足を踏み入れた。ベッドの前で脱ぎ散らかされた靴、床に転がっている手袋、ベッドの上でくしゃくしゃになった衣服。そういえばこの男、メローネがいつ帰ってきたのかトリッシュは知らない。昨日の夜から仕事でアジトにはおらず、トリッシュが朝起きた時もいなかった気がする。今は昼前だから、ここ数時間で帰ってきたことになる。リビングに顔も出さず自室に直行したことが雑多に転がった靴やら衣服やらから伺える。
 けっこう大きな声量で怒鳴り散らして突入したわけだが、メローネが目を覚ます気配はない。間近まで近づくとかろうじて寝息が聞こえる。よっぽど眠りが深いのかもしれないが、今の苛立ちに支配されたトリッシュには関係ない。
「ちょっと起きなさいよ!」
「ん…………」
 わがまま娘はしゃがみ込んでメローネの肩のあたりを掴んで体を揺する。すると、ようやくくぐもった声が聞こえた。シーツと肌がこすれる音とともに金髪の間から瞳が覗く。焦点の合わない瞳がしばらくしてトリッシュを捉えた。男が起きたと思ったトリッシュは問い詰めようとした。しかし男の手がベッドから伸びていたことに気がつかず、トリッシュは顔立ちの繊細さのわりにがっしりとした手に後頭部を押され、その顔は男の至近距離にあった。自分がどういう状況下にあるのか、思考が追いつく前に、日焼けのないネールピンクの肌が迫る。そしてオールドローズの唇がトリッシュの唇に触れた。寝起きの生々しいぬくもりが唇にとけて、数秒後解放された。重なって移ったトリッシュの口紅の色が男の唇にあしらわれている。男は眠たそうな瞳、というよりほとんど寝ているに近いほど細めた瞳をぼふりとベッドに埋め、トリッシュの頭を撫でつけて言う。
「おはようアモーレ……話は後にしてくれ……」
「……………………は、え、ちょっ、と…………」
 トリッシュがようやく言葉を発した時にはメローネは既にだらりと腕を放り投げて、再び夢の世界へと沈んでいってしまった後だった。残っているのは唇の温度とよれたリップだけ。今の行動は一体何だ。トリッシュはわけも分からぬまま唇を奪われて、ぐっすりすやすや眠る男を目の前にしている。悲鳴をあげることもできず、今どうしていいかも分からず黙ってへたり込んだ腰をあげてベッドに背を向けた。ドアに向かう先、落ち込んだ視線の奥に目的のイタリアンヴォーグはあった。入った時に見つければこんなことにならなかったのに。イタリアンヴォーグの隣にあったブランドのショップバッグが目に入るが、いまはそんなことはどうでもいい。
 雑誌を回収すると部屋からしずしずと退散し、頭を抱えた。突然の出来事に脳内が今の出来事の処理を拒んでいる。現実として認めたくない事実が、トリッシュの頭の中を埋め尽くしている。
 どうして避けられなかったのか。怒りのせいで油断していたのかもしれない。確かにそれはあるが、もっと心の深いところで油断していた。トリッシュはここに連れてこられた時、それはもう警戒していた。しかし数カ月経ち、彼らが思いのほか無害だったから、いつの間にか警戒を解いてしまっていた。そんな月日がいくつも流れて今に至る。トリッシュはすっかり用心を忘れていた。ここは己の身を守らずとも良い場所と勘違いをしていた。先の蛮行を許したのは自分のせいでもある。

 イタリアンヴォーグの最新号のどこのページを読みたかったかすらも忘れてしまったトリッシュはリビングに置いてあるソファの隅っこで膝を抱えてうずくまった。相当青ざめているに違いないと思った顔はどうしてか熱を帯びている。自分はそわそわして落ち着かないのに、件の男ときたら今もきっと自室で夢の中だ。ああなんて腹立たしい。私はこれからどうやって生きていけばいいとこれからの人生についてまで考えてしまう。
 大人びたビジュアルからはとても想像つかないだろうが清らかな乙女そのものであるトリッシュは先ほど散った己の純潔をひどく哀しんでいた。べつに好きな男と初めてのキスをして、その人と結婚して、子どもを授かって、幸せに老後を暮らしましたとさなんて夢を見ていたわけではない。トリッシュの置かれている環境はそんな夢からは最も遠い場所だ。だがほんのすこしの理想くらいはある。少なくとも、寝ぼけた恋人でもない男とのキスよりはマシなやつ。
 それにしてもアモーレなんて。どこの女と間違えてキスしたのか。男の交際関係がどうかなんてトリッシュにとっては心底どうでもいいのに無性に腹が立つ。間違いでキスされたんじゃ尚更最悪だ。心の中でどうしてとどうしようが積み重なっていく。考えたってどうしようもないのは分かっている。すぐに気持ちを切り替えられないトリッシュは、いつもは見ない明るくて仄暗いこの国のニュースをぼうっと眺めていた。



「……ふあ、よく寝た」
 夜に所用を足してから仕事に出て、昼前にアジトに帰宅したメローネはどろどろに疲れた精神を休めるためにベッドに潜り込んで六時間。ようやく目が覚めた頃にはもう陽は落ちていた。いくら自動追跡、遠隔操作型のスタンドとはいえども本体のメローネも疲弊する。息子がどんな行動を起こすかは逐次見守っていなければならないし、軌道修正も必要だ。まさに本物の子育てさながら、息子から目を離すことは許されない。故に長丁場となるとさすがにくたびれてアジトに戻って速攻眠りに落ちた。なんだかいい夢を見た気もするが、夢の話なんてのはくだらない。ギャングなら尚更だ。
 メローネは部屋に落ちていたシャツとパンツを適当に着て部屋を出る。寝ぼけた頭のままシャワールームへ向かい、衣を脱ぎ捨て鏡の前に立つ。曇った鏡を手で拭うと、唇に掠れた青みがかったピンクの口紅が付着していることに気がついた。昨日は美女を引っ掛ける暇もなかたし、それどころか最近では女と遊ぶこともしなくなった。どうしてかって、それは誰にも言っていない。覚えのない口紅をべろりと舌で舐め取ると、シャネルの味がした。この色の品番はいくつだっただろうか。数秒考えたが思い出せなくてシャワーのバルブをひねった。眠気覚ましの熱湯が頭に降りかかって、ようやく夢見心地な頭が現実に戻ってきた。

 シャワーを浴びてさっぱりした姿でリビングに寄ると、このアジトで生活する唯一の女が三人掛けソファの肘掛けにもたれかかってうとうとする背中が見えた。もしかして舟を漕いでいるのかと思い、珍しそうなものが見られそうだと彼女の正面に回ると、たしかにうとうとしている彼女がいた。しかし重たげな目蓋からうっすら覗く緑の瞳とばっちり目が合うと、ソファの上でビクリと体が跳ねて短い悲鳴をあげられた。理性的な短く甲高い悲鳴もなかなかにいいものだ。
「やあトリッシュ。こんなところで寝ると風邪を引くぞ。俺たちに看病されたいなら話は別だが」
「ねっ、寝てないわよ! いいから、私のことは放っておいて」
 機嫌の悪さを隠そうともしないトリッシュはメローネから顔を逸し、眉間をしわを寄せた。への字に曲がった口元には乾いた青みの含んだピンク。メローネがシャワーを浴びる前に確認した紅とよく似ている。いいや、似ているどころかそっくりだった。メローネは思わず嫌がる彼女の口元を覗き込み、有無を言わさず彼女の顎を人差し指ですこしだけ持ち上げた。なおも強気に嫌悪の表情を見せるのが大人の真似をする小生意気な子どものようでぞくぞくする。
「君かぁ、この口紅」
 メローネのたったその一言で、トリッシュの頬は真っ赤に染まる。熟れた果実が目の前に差し出されたような状況、手を伸ばさずにはいられない。顎を上向かせた人差し指でそのまま彼女の唇の輪郭をなぞると、バチンと勢いよく手をはたき落とされた。容赦のない手首のスナップは骨ばったメローネの手の甲をじんわりと赤く腫らした。
「ありえない! ありえないわ……」
 必死に否定するその姿は実に分かりやすい。メローネは自分の唇についていた紅が彼女のものであると確信を得た。
「まさか寝込みを襲う趣味があったとはね……ベリッシモ良い」
「どうして私からアンタにキスしなきゃいけないのよ?! 寝ぼけたアンタが! 他の女と間違えて私にキスしたのよ!」
 メローネは分かっていながらトリッシュをからかうような言葉を口にする。わりかし短絡的なトリッシュはまんまとメローネの冗談に乗ってしまい、ムキになって反論する。それから数秒して、キスしたと認める発言をしたのが恥ずかしかったのか、トリッシュはソファに置いてあったクッションを抱きしめてメローネから目をそらした。
 高級ブランドのマゼンタを唇に差すくせして初心なところがあるトリッシュはメローネにとって稀有な存在だった。売春街で若くして自分の性を売り物にしている、自分の値打ちを分かっていない阿呆な女とは違う、自分たちのようなギャングに我を通してみせる鋭さと強さがありながら普通の少女性を兼ね備えている。性を売って麻薬を買ってギャングの男になって殺される……なんて女よりよっぽど興味をそそる。
「ンー? 今のところ特定の女はいないんだがなあ。女の名前を呼んでたか?」
 トリッシュの隣にぼふりと勢いよく腰をおろして脚を組み、わざとらしく顎に指を添えて首をかしげる。メローネが覚えている女の名前なんて眼前の少女くらいだ。
「それは……呼んでないけれど……」
「じゃあなぜそう思ったんだい」
 意地悪くメローネが尋ねると、トリッシュはあからさまに距離を取るように肘掛けぎりぎりまで寄って縮こまる。ちらちらとメローネを見るのに、目が合いそうになると逸らしてしまう。視線を追いかけるとムキになって視線をどこまでも遠くへやろうとするのが面白くて、いつまでも見つめていると、クッションが顔面めがけて飛んできた。
「もう! 見ないでよ!」
「おいおい、君が質問に答えないからだろ」
「…………アモーレって言ったからよ。そんなの、恋人相手じゃないと言わないでしょ! だから、それだけの話よ」
「へぇ、なるほど……そうか」
 寝ぼけた自分の口から出た言葉が思いのほか赤裸々で感心する。メローネは当然照れる素振りもなくトリッシュの口から語られる自分の姿を受け止めた。確かにアモーレなんていうのは恋人やそれと同等に愛しい人にかけられるべき言葉だ。トリッシュがやけに恥ずかしがって口ごもるのも頷ける。
「へぇ、じゃないわよッ! いい加減謝ったらどうなの?!」
「いいや、謝る必要はない」
「はァ……?」
「その言葉もキスも、嘘じゃあない」
 回りくどい言い方にトリッシュはいまいちピンとこないようで、メローネを怪訝そうな顔で睨みつける。嘘でないというならなんだと言うのだ。女に対してはみな平等にそうなのか。世界的に見ても女ったらしなイタリアーノなら充分にありえる話だが、そんなのトリッシュには通用しない。それに女ったらしは嫌いだ。手じゃなくて思いっきり顔にビンタでもかましてやればよかったと余裕綽々なメローネの顔を見て思う。
 トリッシュの混乱をよそに、メローネは「すこし待ってろ」と席を立ってしまう。待ってあげる理由も待たされる言われもないトリッシュはふてくされた顔をしてテレビを消した。今日という日はなにを見ても腹が立ちそうだ。抗争のニュースも、ドラマティックな恋愛ドラマも陽気なバラエティも全部お断りだ。階段をのぼる音の次に立て付けの悪いドアの開く音がした。また少しして階段をおりてくる音が聞こえる。近づいてくる足音はトリッシュの背後でぴたりと止まり、そして眼前にメローネの部屋、落ちていたヴォーグの隣で見たショップバッグが差し出された。
「あげるよ」
「は、なんで私に……」
「いいから、開けてみな」
 太ももの上に落とされたショップバッグ。少し大きめの中の箱を取り出し、かけられたリボンをほどくと、細かくラインストーンが散りばめられたペールピンクのメッシュ、そして底地が真っ赤な七センチヒールの両足が箱に収められていた。これはイタリアンヴォーグに載っていたブランドの新作だ。それもトリッシュがちょうど目をつけていた麗しの靴。これで外を歩いたらどれだけ楽しいか、想像だけはした。しかし己の身はとても不自由で、靴を買いに行くのも、買った靴で出かけるのも、すべて許可が必要だ。許可なくしてはこの家から出ることは許されない。そんなトリッシュの目の前に差し出されたこの靴。なにかの間違いなんじゃないかとトリッシュの視線は靴とメローネの顔をいったりきたりする。
「なんで、これ……」
「君、欲しがっていただろ」
「でも私そんなこと一言も……」
「言わなくとも本の読み具合と視線の動きで分かる」
 さらっと常人的でないことを言ってのけるが、メローネが言う通りトリッシュはこの靴を欲しがっていた。どの角度からみてもきらきらと眩しいこの靴はトリッシュの心を虜にして離さない。先ほどまでの怒りと心のもやもやがすこし晴れたものの、次にはどうしてという感情が湧いてくる。メローネから靴をプレゼントされる理由なんて、トリッシュにはないのだ。
「どうして、って顔をしているな」
 至近距離、右耳にささやかれる声。心を読まれたかのような問いにトリッシュはどきりとして肩をすくめる。トリッシュはメローネのほうを振り向かないまま、箱から取り出した靴を一度しまう。妙な緊張感に体中が支配され、黙りこくってしまう。背後から回された骨ばった手がトリッシュの顎から唇の下を優しい手つきで撫でる。
「好ましいと思った女を口説かないのは失礼だろ?」
「…………」
「言葉もキスもその靴も、全部俺の本音だ」
 告白というにはあまりにも乱暴で順序が狂っている。それなのにあまりにも落ち着いた声色のせいですとんと心の中に入り込んでくる。メローネの言っていることが嘘ではなく本気だとトリッシュは納得してしまった。メローネは手でトリッシュの顔を自分に向けさせると、こつんと額を合わせる。一瞬、またキスされるかもしれないと思ったトリッシュは露骨に体を引いた。心臓が忙しく鼓動を早める。また頬が紅潮している気配がする。嫌だ、こんな顔は見られたくないと手で頬を覆う。そのトリッシュの慌てぶりをみて「残念」と口にし笑う。余裕をまとったその態度が気に入らなくて、かちんときたトリッシュは言葉を返す。
「でも私、あんたのこと好きになんてならないわよ」
「問題ないさ。すぐに俺なしじゃいられない体にしてやる」
 ここまでされても強気に男を振ってみせる。そんなところもメローネにとっては好ましくてますます追いかけ甲斐があるというものだ。これですんなり懐に収まるようでは面白くない。
「じゃあその時は……この靴を履いてあんたの隣を歩いてあげる」
 そう言って箱に蓋をし、上目遣いで笑んだ。口先の攻防戦はますます加速していく。

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