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 かの北アメリカ大陸横断レース、スティール・ボール・ランが終結して早三ヶ月が経つ。
 ジャイロ・ツェペリは故郷ネアポリスに帰り、法務官の地位を降りて単純な医者として生活を送っていた。
 レースが終了し、ジャイロは納得して前に歩んでいる。故郷で明るく暮らしているのが、その証拠でもある。
 過密地域であるネアポリスの市場には人が溢れている。
 瑞々しい野菜や、鮮魚がたくさん売りだされているこの市場にいると食材に悩み目移りする。一人暮らしを始めた今、すっかり献立を考えるのが癖になってしまったのだ。
 キョロキョロと辺りをまんべんなく見渡し、美味しそうなものがないか探索する。
 雑踏の中、なんとなくの感覚で人を避けて歩き、ろくに前も見ずに歩いていると左肩に人がぶつかった。
 ジャイロとぶつかった修道女、彼女もまた前を見ていなかったのか、体勢を崩して硬い地面に尻もちをついてしまう。
 修道女の持っていたかごも一緒に地へと落下し、ごろごろと転がる林檎と、地面にむき出しのまま接触してしまう、袋から飛び出たチャバッタ。
「おっと、悪い!」
「……いいえ」
 ジャイロは修道女に手を差し出し、立ち上がる介助をしようとする。がしかし、無表情の修道女はその手を見もせずに、せっせと林檎とチャバッタを拾い上げ、かごにしまう。
 口に運ぶものが地面と付着してしまい、これでは到底食べる気にはならないだろう。
 だが、修道女は残念であるだろう気持ちも表に出そうともせず、ただ寡黙にかごから落ちたものを拾い集める。
 かごのなかへ全てを元に戻したところで、修道女はジャイロを一瞥し、さっさと立ち去ろうとする。
「おい、ちょっと待て! 新しいやつ買ってやるよ……いや、買わせてくれ!」
 慌てるジャイロは修道女を呼びとめる。自分とぶつかって落としたということは自分が落としたも同然である。
 正義心があるわけではないが、なんとなく申し訳なさを感じてしまう。
「別に大丈夫」
 振り返りもせず、修道女は短絡的にジャイロの頼みを拒み、ふたたび去ろうとする。
「待てって、修道女さんよーッ!」
 しかしここまできたら意地になるジャイロは修道女を逃しはしなかった。
 右手首をがっとつかみ、勢い良くひねり上げる。もはやちょっとした喧騒である。
 ところがひねり上げた右手に掴まれているものを見てジャイロは目を丸くする。
 レース中によく目にした、肉色をした、手のひらより少し大きめのスプレーが握られていたのだ。
 噴射口はジャイロのほうへ向き、容易に想像できたペースト状の肉がジャイロの目元に吹きつけられた。
「お前ッ……まさか!」
 ジャイロはあとわずかというところで片目だけ肉の攻撃を避け、好戦的な修道女をその目で捉える。
 その行動のはやさには修道女も誤算だったようで、拙いというような表情でジャイロから目を逸らすように地に視線を向けた。
「あの時の修道女だな! やっぱりホット・パンツと知り合いだったのか!」
 ジャイロは思い出していた。この修道女と、十分にも満たない時間だが、出会ったことを。
 第七のステージ、ゲティスバーグから離れたとある町のゴミ捨て場で、ただ少し会話をしただけの関係。
 少なくとも、ジャイロが考える関係性はそれだけだ。
「……そんなに目が悪くて医者をやっているだなんて、驚きだな」
 まるでジャイロのことをよく知っているかのように話す修道女は、質素な黒のウィンプルとベールを取り、髪の毛を露出させる。
 その髪は浅緋色で短い長さで切り揃えられており、帽子こそかぶっていないものの、その容貌はレース中に見たことがある人物そのものであった。
 いまの今までイコールで繋がらなかった線が、ジャイロの中でようやくつながった。修道女こそがホット・パンツの正体。
 何度も確認するチャンスはあったにもかかわらず、レース終了後に発覚した事実に、ジャイロはすこし呆然としてしまう。
 しかしジャイロはこの後、ホット・パンツの驚きを怒りへとかえる。
「お前、ホット・パンツ……女装か!」
 問答無用に肉スプレーはジャイロのもう片方の目へ噴射される。これはだれがどう見てもジャイロが悪い。
 どうやらジャイロの中でホット・パンツが男だというのは確定要素であったようで、男が修道女の格好、すなわち女装だと判断したのだ。ホット・パンツの「目が悪い」という挑発は、あながち間違いではないのかもしれない。
「このまま目を肉で埋めてもいいんだぞ、ジャイロ・ツェペリ」
 レース中は男装のような格好をしていたので男に間違われることは本意であったが、いま修道女の格好をしているのにも関わらず男という解釈をするジャイロに、どうやら本気で怒っているらしいホット・パンツは、クリーム・スターターをジャイロの顔へ向けたまま話を続ける。
 目がまったく見えない状態となってしまったジャイロは、手に掴んでいるホット・パンツの腕だけを頼りによろよろと立っている。傍目から見ると、大の男が実に情けない。
「いや悪かったホット・パンツ! お前は女だ、謝る!」
「……チャバッタ、五個。仕方ないからそれで許してやろう」
「わーったよ、買う! 買ってくるから、目の肉をどけろッ!」
 ふん、とホット・パンツは鼻で嘲り笑うと、ジャイロの目にまとわりつく肉を解除する。
 視界が明るくなったジャイロは、改めてまじまじとホット・パンツの顔を見つめる。その不可解な視線に、ホット・パンツはあからさまに顔をしかめるが、それでもジャイロは顔をまじまじと見つめている。――今まで女として見ていなかったが、よくよく見てみれば肩だって男より狭いし、顔も小さい。最近までサバイバルをしていたとは思えないほど髪には艶があり、唇の潤いも女性らしくみえる。禁欲的な格好に反し、女性的としての色気を有するホット・パンツに思わず引きこまれたジャイロはなぜ気づかなかったんだ、と自責の念に駆られる。気づいていたらレース中にどうこう、というわけでもないのだが。
「…………なんだ」
「いやァ、なんでもねえよ。ニョホホ」
 さっさと買っちまおうぜ、とジャイロは付け足すと、向かいに見えるこじんまりとしたパン屋へと歩いて行く。
 ジャイロは後ろからついてくるホット・パンツをちらちらと横目で見、何気ない問いをぶつける。
「お前さァ、修道女が本職なワケ?」
「……答える義理はない」
「そんな冷たいこと言うなって、レースはもう終わったんだからよォー。あ、チャバッタ五つくれ」
 出来立てのチャバッタが五つ、紙袋に入れられ、代金と引き換えられる。
 ジャイロはさっさとそれをホット・パンツに手渡す。取引は終了だ。ホット・パンツはこの場にいる義理はもう失われたと言わんばかりに「確かに」とだけ言ってジャイロの前から去ろうとする。
「あっ、おい待て!」
 目の前から立ち去ろうとする修道女の肩を思わず掴んでしまう。
「……うっとおしい。もう取引は終わったんだ。早く帰らせてくれ」
「…………なあ、お前、既婚じゃあないよな?」
「意味がわからない。修道女が結婚しているわけないだろう」
 神へ服従せよ、清貧で、貞潔であれという誓いのもと人は修道者になる。
 それは女性といえども例外ではなく、ジャイロの意図不明な質問に首をかしげながら、その肩に乗る手をはねのける。
「そうか、ならいい」
「…………お前とはもう二度と会わないことを願うな」
 妙に気分を狂わせられた気持ちになり、ホット・パンツは不快感を突きつけ、さっさと雑踏の中へ逃げるように去ってしまう。
 ジャイロはぼんやりと修道女の背中を見えなくなるまで見つめる。しばらくして、彼女の特徴的な赤い髪も見えなくなると、ぼんやりと彼女の手首を掴んだ自身の手を見つめる。
 透明感溢れる素肌の感触と、いやにか細い手首の大きさが自分の指に残る。それは先ほどまで男と思い込んでいた人間を、女性と意識させるには充分なものだった。
「既婚者じゃない、か……」
 その言葉が、どういう意味をあらわすのか知るのは彼のみ。

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