id="container">

 法王庁のほうから、短期入院の精密検査を受けろというお達しがあったのは一ヶ月前のことだった。
 なんでも、わたしがレースに出ている最中に他の法王庁に属する人間は精密検査を終えているらしく、残るひとりはわたしだけだった。
 いま立っているのは、その精密検査を受ける病院の前。この街の中ではわりと大きな病院だ。ちらりと病院の名前を見ると、なんだか目にした覚えのある名前が映った。
 レース出発前に調べた話では、彼は法務官でありながら医者をしていたらしい。だからと言って、ここに今いるとは限らないのだが。
 会わないことを心底願いつつ、病院に足を踏み入れた。受付の女性に話すと、すぐに病室へ通される。小さな個室の部屋だった。そこで検査着に着替えて、ベッドに腰をおろして担当医を待つ。
 検査というものは、なにしろ健康なもので久々のことだった。あまり気は向かない。一日中ああだこうだと指示をされて動き、気の重くなるような検査の数々が待ち受けていると思ったら憂鬱で仕方がなかった。
 かつ、かつ、かつと足音が遠くから聞こえてくる。そして病室の外から顔を覗かせたのは――間違いない、あのジャイロ・ツェペリだった。わたしは思わず頭を抱えた。それはもう今までにないぐらい。
「あれっ、よお! 元気だったか?」
「……部屋を間違えているんじゃあないか」
 勘弁してほしかった。これ以上の悪運があってたまるかと思うほどだった。
 ジャイロはカルテを見せて「これお前の名前だろ?」と聞いてくる。そこにはわたしの本名が記されていて、嫌な顔をして頷くしかなかった。
 本当に最悪だった。もともと敵だった人間に身体のことを洗いざらい調べられることほど嫌なことはないだろう。
 そんな人の気も知らず、ジャイロはカルテを眺めて検査項目をチェックしていた。ひょうひょうとして抜け目がない男かと思いきや、わたしのことをレース中ではずっと男だと思い込んでいた奴だ。そんな奴に検査を任せるのも、憂鬱の一因である。
「まっ、オレがお前の検査担当だから。そんないやな顔するなって」
「最悪だな。別の人間に変えてほしいぐらいだ」
「残念だがそれはだめだ。おら、行くぜ」
 腕を掴まれたが軽く振りほどく。そうされてジャイロは笑っているが、その意味がまったく理解できなかった。
 最初に連れて行かれたのは基本的な身体測定と血液検査を行うところで、椅子に座らされて二の腕を圧迫される。この圧迫された感触で、なんだかあの圧迫好きのアメリカ大統領夫人を思い出してしまったが、わたしには圧迫の感触が好きという嗜好はまったくわからない。
「うわーおたく、血圧低くねえか? 上、七十五の下四十八、ね」
「べつにあなたに関係ないだろう」
「まあね、つぎ採血ーっと」
 腕をアルコールで拭かれ、先端がいやにひかる注射を血管に刺される。
 血の抜けていく感覚は嫌いだった。頭からすーっと血の気が引いていき、自分の意識が保てないからだ。いまだって、まだ一本目だというのにぐらりとくる。採血の注射はまだ二本転がっている。頭の中がぼんやりとしてきて、ぐらぐらとし始めた。しかし、この男の前で倒れるわけにはいかない。それは自尊心が許さない。男はそんな人の気も知らずに鼻歌でも歌いそうな顔で、注射筒に血を溜めていく。
 気がもうろうとしているなか、三本目の注射が終えられる。
 ぐらっ、と視界が天井を向いた。恥ずかしくも倒れてしまうのかとのん気にそう考えていたら、肩にまわされた男の手に支えられてなんとか事なきを得たが、わたしにとってはそのまま倒れたほうが都合がよかった。自分のプライドに対しての都合が、だが。
「せめて前に倒れてくれよォ~前に! あぶなっかしい」
「……すまない」
 かと言って減らず口をいつまでも叩き続けるほど愚かでもない。
 ジャイロはいまにもその場に倒れてしまいそうなわたしを立ち上がらせ、すぐ近くの診察台に座らせる。まだ頭はふらふらとして、目の前にいるジャイロの顔もあまり見えないし、耳鳴りはひどかった。
「ちょっとここで休んどけ」
「……はやく終わらせたい」
「むりむり。焦っても終わらねえよ」

 少し診察台で休んだ後、他の検査が行われ、その検査の量の多さに圧倒され、別の意味で疲労した。これがあともう一日続くことを考えるだけで身体が怠くなり、面倒くさい気持ちになる。病院にきたころには午後の一時だったのに、今はもう午後五時をまわっていた。
 夕日が差し込む病室のベッドに横になる。病院のベッドというものはあまり落ち着くものではなく、普段はなにも考えずに寝ているのに、急に自分のベッドが恋しくなった。新品のように洗われたシーツを掴み、しん、とした静寂のなか溜め息を吐く。明日は別の担当医が、とかそういうことはないのだろうかと小さな可能性にすがる。
 病院の看護婦たちがひそひそと話していたのを耳にしたが、ジャイロはどうも、何年か前から女の患者を担当することを極端に嫌がっていたらしい。それがなぜ、わたしの担当になっているのかはよくわからない。看護婦の間でもその理由について色々憶測が飛び交っているらしいが、おおよそただの気まぐれだろう。とてもくだらない噂話だ。
 ベッドに横になっていると、睡魔が襲いかかってくる。重たいまぶたの開閉を繰り返すが、頭が冴えることは一向にない。食事すらまだなのに、寝てしまいそうだった。
「おーい、晩飯持ってきたぞ」
 ジャイロが雑にドアを開け、ずかずかと室内に入ってベッド横の小さなテーブルに食事を置いた。
「そういうのは看護婦の仕事じゃあないのか……」
「オレがやりたいからやってるんだっつの」
「……そうか」
 ジョニィと一緒に行動している時も見ていて思ったが、案外世話焼きなのだろうか。
 食事に手をつける気はまったく起きなかった。ジャイロから目を逸らすように窓の方へ向いて横になる。
「おい、食わねーのか」
「後で食べるからお前は出てけ」
「ちゃんと食べろよ」
 そう言ってジャイロはわたしの頭に手の乗せ、くしゃくしゃと頭を撫でてから病室から出て行く。とても気に障る行為だが、抵抗する気もなんだか失せていたので、静かに寝床に潜った。

 ――本格的に眠りに落ちて……わたしの目が覚めたのは夜の十一時頃だった。情けないことに、お腹が空いて目が覚めてしまったのだ。ベッド横のテーブルに置かれている病院食は、スープはもう冷めているし、パンは固くなっているわでとても食べられるような状態ではなかった。外に出てもなにもないだろうし、このままもう一度眠ろうと横になってはみるものの、まったく眠気がこない。だからといってこのまま朝までこうしているのはわたしとしてもつらいものがある。
 上半身を起こしてぼうっとしていると、病室のドアがそろっと開いた。思わずクリーム・スターターを右手に潜ませ、息を殺す。
 しかし、現れたのは灯りを持ったジャイロだった。こんな時間になにをしにきたのかまったくもって不明だったが、目があった瞬間にお互いびくりとする。
「お前……こんな時間に起きてどうしたってんだ」
「……あの後、寝てしまって、今お腹が空いて起きたばかりだ」
「ゲッ! お前ぜんぜん手ぇつけてないな! 温めてきてやるよ」
「いや、べつに……」
「いいか、寝るなよ? 絶対に寝るなよ?」
 ジャイロは冷めた食事の乗せられたトレイを持つと、わたしに寝るなと釘をさして病室を出て行く。
 しばらく外の月を眺めながらぼんやりとしていると、ジャイロはまたも雑に扉を開けて現れる。
 そして、小さな車輪付きのサイドテーブルに置かれた、いい匂いのするリゾットがわたしの鼻孔をくすぶる。
「ほら、食えよ」
「……ああ、いただく」
 ジャイロはわたしの顔を見たまま、目を逸らそうとしない。非常に食べにくい状況だが、冷めないうちに食べてしまいたので、さっさとスプーンでリゾットを掬って口へ運ぶ。
 トマトの酸味とチーズのまろやかさが口いっぱいに広がる。病院食とは思えないほど考えられた味付けであり、自分で作ったリゾットなんてどうあがいても敵わないだろうと思わされるほど美味しく出来ていた。思わず食が進み、あっという間に半分近くを食べ終わる。
 そんな間も、ジャイロは食べ進めるわたしの顔をずっとニヤけた顔で見ていた。肉スプレーを顔に吹きかけてやりたいぐらい不快な気持ちと、まじまじと食べてる様子を見られている気恥ずかしい感情が入り交じる。けれども、そもそもジャイロが温めてきてくれなければ、美味しいリゾットにもありつけなかったので、仕方がなくぐっと感情を堪える。
「……あまり見られると食べにくいのだが」
 しかしどうしても視線が気になり、そのことは直接伝えてみる。
「いやー、美味しそうに食べるなと思ってよ。オレが作ったんだぜ、そのリゾット」
「…………嘘でしょう?」
「いやいや、嘘じゃねえって! なあ、うめえだろ?」
 ジャイロはさらに笑って感想をうながしてくる。笑っていたのはこういうことだったのかと理解させられる。
 おどろきのあまり、思わずリゾットを掬う手が止まってしまう。
「おいしい……悔しいけれど」
「だろ? 好きな味付けでよかった」
「こんど、教えてくれないか、……料理」
 わたしの台詞に、ジャイロはぱちくりとまばたきをして驚いたような顔をしている。……そんなにわたしが料理を教えてほしいと言ったのがおかしかったのだろうか。修道院にいると料理はしなくてはならないし、なにもおかしいことではない。――それとも教えを請うたことに驚いたのだろうか。わたしだって人に教えを請うことぐらいはする。わたしはよっぽど人の目には強情にうつるらしい。
「……ぜんぜん構わないが、オレが修道院に行くのはマズイだろうな」
 目を逸らしながら、ジャイロはそう答える。
「わたしがお前の家に行けばいいだろう」
 そんなことを気にしていたのか。
 たしかにわたしが勤める修道院は女子修道院で、男性は立ち入りを許可されていない。門限は夜の九時だし、ほかにも色々な制限がある。
 顔を伏せながら、ジャイロはわたしの頭に手をおき、何度か撫でると、あの奇妙な笑い声をもらす。
「ニョホホ。まあいいけどよォ、なにがあっても知らねえぜ」
「……は?」
「まあ気づいてないならそれでいい。さっさと食って、さっさと寝ろよ~」
 ジャイロはそういうと、病室を出て行く。
 ドアを閉める音がやけに大きく、夜なのだから静かに閉めてほしいとも思ったがあいつにそんな気遣いを期待するほうが無駄だった。
 ――それにしても、ジャイロは人の頭を撫でることが多い。人の頭を触ることがすきなのだろうか。最初の頃と違い、不思議といやな感じはしなくなってきた。
 ぬるくなってきたリゾットを口へかきこみ、皿をベッド横のテーブルへ置く。
 明日の検査は午前中で終わるそうなので、きっと朝早くから検査を行うのだろう。睡眠は充分とったが、なにをするわけでもないので、もう一度眠りにつくことにした。


 二日目の検査は急ぎ足で進んでいき、ジャイロも午後から手術があるとかで、昨日よりうっとおしくなく検査が終わった。
 最後に、今更やる必要性も感じない問診があるというので、仕方がなく診察室で待つ。
 そばにいる看護婦が、わたしのことをちらちらと見ては目を逸らしを繰り返している。それがあまりにも気になってわたしが振り向いた時、看護婦と目が合ってしまう。看護婦はかるく苦笑いをして、会釈をする。とくに気になりもしなかったので、よそよそしく会釈を返して向き直る。
「あ、あのっ! あなたって、ツェペリ先生とは親しい、のですか?」
 しかし、向き直った瞬間、若い看護婦の懐疑の声が背後から飛んでくる。
 親しいか親しくないかで聞かれれば、まったく親しくないと答えるのが正しいだろう。
「いえ、特別親しいというわけじゃ……」
 余計なことを喋っては面倒な詮索をされる。昨日の看護婦間の噂話から簡単に推測できることだ。いや、ほんとうにこれといった関係ではないのだが。
「そうですか……。ツェペリ先生、普段は女性の患者さんは担当しな……」
「おーっと! 新人ちゃんよォ、看護主任が呼んでたぜ」
「ツェペリ先生! す、すいません……」
 後方から聞こえたジャイロの声にびくりと背中を震わせる新人であるらしい看護婦は、頭をさげて診察室を出て行く。
 ジャイロは頭を掻きながら、溜め息をついて椅子に座る。
「ずいぶんと噂されたものだな」
「……まあな。おら、心音聞かせろ」
 なんとなく言葉を濁された気もしたが、さして興味もないのでこの話題は終了する。
 聴診器を持ったジャイロの右手が、わたしの検査着の合間をぬって侵入する。三箇所ほど、心音の聴診が終了すると、ジャイロは耳から聴診器を外してカルテに文字を綴る。
「心音は問題ねぇな~。じゃ、一週間後に結果が出るからまた来いよ」
「……また来なければいけないのか。郵送じゃあだめなのか」
「だーめだ。じゃあまた一週間後な」
 ジャイロはカルテをとじて椅子から立ち上がる。
 カーテンをくぐって出て行こうとするジャイロは、忘れていた、と呟いてこちらへ向き直る。
「お前、一週間後、病院終わったあと空けとけよ」
「……なぜ」
「料理、教えてほしいんだろ? ニョホホ」
「あ、ああ……」
 覚えていると思わなかったし、正直わたしも忘れかけていた。ぼんやりと返事をすると、ジャイロは忘れるなよ、とわたしに釘を差してカーテンの奥に消えていった。
 約束を交わしたあと、不可思議に心を狂わされたような気持ちでひとり、あのリゾットの味を思い出していた。

PAGE TOP