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 他の刀剣たちの手入れも終え、喪失感のある身で自室に戻った審神者は部屋に入るなり大きなため息を吐いた。
 結局、歌仙の口から確信めいた言葉を聞くことはできなかったが、先の最後に残した言葉は肯定しているとほぼ同義である。
 布団に身を預け、顔を埋める。歌仙はよそに懸想するひとがいる。その事実にどうしようもなく胸が痛み、涙がこみ上げてくる。
 どうして自分の胸が痛むのか、それに気づかないほど審神者は鈍感ではない。
 鶯丸に言ったこと以外にも、歌仙がほかの女性に恋をしていると思い当たる節はいくつもある。
 一緒に万屋に行った際には、店に入るなりすぐに審神者の手元を離れてお相手とおぼしき万屋の女性とにこやかに話している。
 距離が近くて、仲睦まじそうで、審神者はいつもぽつんと取り残されて、ふたりで来たのにひとりで来たような感覚を味わった。
 それからは一緒に万屋へ行く回数も減っていった。わざわざ自分が惨めでいられるほど、審神者は強い人間ではなかった。
 それに、本丸にいても気づくことはいくつかあった。
 ひとりでぼうっとしている時間が増え、物思いにふけっているようなため息がよく聞こえてきた。
 審神者にはしゃんとすべきと日頃からよく説いている歌仙だが、審神者の隣で仕事をしている歌仙は、まるで心ここにあらずというふうに審神者の目には映った。
 あれが恋をしている瞳なのだろうか、その瞳にはただひとりだけを映しているのだろう。そう思うと胸が締め付けられて、とても見ていることはできなかった。
 どうしてほかのひとなのだろう。己の醜い感情を押し殺すように、冷静になるために深い息を吐く。
 歌仙がだれを好きになろうと自由だとわかっているのだが、自分の感情をうまくコントロールできない。ひとりになってしまうとどうも駄目で、情感が昂って震える口元を抑えこむ。
 気が落ち込んでいるはずなのに、ぐう、とお腹が鳴る。欲求に正直なからだが小憎たらしい。そういえば慌ただしくしてしまって夕餉の時間はもうとっくに過ぎていたと今更思い出した。
 しかし、なるべく揃って食事を囲むという方針のため、おそらくはまだだれひとりとして夕餉を摂っていないだろう。
「主、食事の用意ができたぞ」
「……あ、ごめん……いま……」
 いつも自室にいる主を呼ぶのは近侍の役目である。それなのに、聞こえてきた声は歌仙のものではなかった。
 それでも、と思って布団に埋めていた顔を上げると、障子戸を開けて入ってきたのは、昼下がりに歌仙のことを相談をしていた鶯丸だった。
 鶯丸の顔を見た途端、安心してしまったのか審神者の目には涙が浮かぶ。
「主、無理をするな」
「だっ、大丈夫だからっ……だいじょ、ぶ……」
 大丈夫だと自分に言い聞かせても涙は溢れて留まることを知らない。
 鶯丸は泣き始めてしまった審神者のからだを受け止め、背中をゆっくりと擦る。
 咽び泣く声は、他の部屋にいる刀剣たちには決して聞こえない。審神者の部屋は離れにあり、近くにあるのは近侍の部屋だけだ。
 しかし、近侍は不在で、もし鶯丸が訪れなければ審神者はひとりで布団を濡らしていただろう。
「ひっ、く……ごめん、っ、鶯丸さんっ……」
 呼吸の乱れがとまらない。隠していた不安が一気に溢れだし、涙となってこぼれ落ちていく。
 まるで幼子のようにしゃくりあげる審神者のからだを、鶯丸は安心させるように抱きとめる。
「気にするな」
 温もりに落ち着いたのか、審神者の涙声もしばらくするとおさまってきて、涙で顔に張りついた髪の毛をよけて、目をこする。
 審神者はぐすぐすと鼻を鳴らしながら顔をあげると、赤く腫らした目を鶯丸からはそらしながら、ごめん、と小さな声で謝るが、鶯丸は気にしていないように笑む。
「謝ることはない。泣きたい時は泣けばいい」
「……ありがとう……あの、歌仙さん、は……」
 こんなところを歌仙に見られることは避けたいことではあったが、いつも自分を呼びに来るのは近侍の歌仙であるはずなのだ。
 どうして来てくれないのだろうと、審神者の心は不安に駆られた。
「近侍なら出かけたようだな」
 鶯丸の言葉に、審神者は下唇を噛んでまたも溢れそうな涙を我慢する。
 審神者の脳裏には万屋の女性と仲睦まじく話す歌仙の姿が思い浮かぶ。
 そんなことを思い出したくなどないのに、言葉にしないと自分の気持ちをうまく整理できず、鶯丸を目の前にして呟く。
 声は自然とうわずり、涙声になってしまう。
「そっか……また行っちゃったのかな」
「主よ、いい加減素直になったらどうだ」
「なにを……?」
「好いているのだろう、歌仙を」
 鶯丸の言葉に、審神者は眉尻を下げて、力なくほほ笑む。
 言われずとも審神者は自覚していた。自分が歌仙に対して恋い慕う感情を抱えていたことを。
 ほかの誰にも抱いたことのないこの感情は、決して気まぐれや勘違いなどではなかった。
 愛しい者のことを考えれば考えるほど幸せになり、自然と心が満たされた。
 時には考えこんで夜も寝れないほど苦しむこともあったが、それすらも幸せだと思えるほど、審神者は歌仙に対して特別な想いがあった。
 しかしこのところは苦しみが幸福より勝るようになり、審神者は自身のみにくい感情を誤魔化そうとした。
 自分には想う相手などいない。自分は恋などしていない。そう必死に言い聞かせて、想い人が懸想する姿を気にしないようにした。
 時折見せる、こちらが蕩けてしまうような笑顔も、勇猛果敢に戦っている背中も、柔らかで心地のよい声も、なにもかもすべてが愛おしかった。
 けれども、審神者は自分の気持ちを封じ込めた。
 彼はただの近侍で、自分はただの主。そもそも恋などしてはならぬのだと本心からは目を背けた。
 だから、他人ごとのように近侍が恋をしているのだと相談した。自分には関係ないと、自分自身に言い聞かせるように。
 歌仙からもらった品物だって、捨てて構わないと言われてもとって置いてあるのは捨てられないからだ。
 嵌象貝の帯留は審神者が一番初めに歌仙から貰ったものだ。しばらく前のことになるが、審神者はそれを今日まで大事にしてきた。ただひとつ、それだけを。
 歌仙の隣にいると、ほのかに香る花々の温かい香りが鼻孔をくすぐるのだ。その香りが審神者はとても好きだった。においが変わればすぐに分かる。
 香りが気になるのは女としての直感なのかもしれない。他の女の香りなんて、悪臭にもほどがあって何度も咽返った。
 いとも簡単に言い当てられて、鶯丸はひとのことを見ていないようでしっかり見ているのだと、審神者はまいった様子でため息を吐く。
「……一振りのことを特別視するなんて、主として失格だよね」
「いや、感情を持つ者として至って普通のことだろう。気にすることはない」
 歌仙を好いていることを隠していたのは、そんな理由もあった。一振りだけを特別な感情を込めて愛するなど、面白くないと感じる刀剣もいるだろう。
 幸い、鶯丸はその辺りに関しては大人びているため、審神者の感情をよしとしてくれたが、審神者自身もその辺りはやはり後ろめたい感情を持っていた。
「だけど……」
「……話はあとにしよう。みなも心配している」
 鶯丸のなだめるような言葉に審神者は無言で頷き、鶯丸の手をとって立ち上がる。
 着物の裾で涙を拭いながら鶯丸の手に引かれて廊下を歩いていると、早歩きの、別の足音が耳に入ってくる。
 足音を気にしないように俯いて歩いていた審神者は、突然立ち止まった鶯丸の背中にぶつかって何事かと顔をあげる。
 どうかしたのだろうかと審神者は鶯丸の背後から顔を覗かせると……目に映ったのは、先ほど審神者が涙を流していた原因といえる刀剣であった。
 自然とからだが動き、審神者は気がつけば鶯丸の後ろから出てきて、その刀剣の前に立っていた。
「…………歌仙?」
「…………」
 鶯丸の背後から出てきた審神者の姿に、歌仙は苦い顔をして目をそらす。
 手入れの時に整えたはずの、歌仙の髪の毛も服装もどこか乱れていて、息が詰まりそうになる。
 やましいことばかり考えてしまって、審神者は自分の思考回路がうらめしくなってしまうのと同時に、やはり自分は歌仙が好きなのだと実感させられてまた、目が潤む。
 零れ落ちそうになる涙と、震える声を必死にこらえながら、審神者は明るく振る舞おうと虚弱な笑みを浮かべる。
 けれども、目をつむった瞬間に目尻から涙が一筋、頬を伝う。隠しきれない涙を、拭う余裕もすでになかった。
「どこ、行ってたの? なにも言わずに出ていくなんて……」
「…………」
 審神者が名前を読んでも、問いかけても、歌仙は口を開かない。
 それどころか、会話を断固拒否するかのように口を真一文字に結んでおり、たいそう機嫌の悪そうな顔で遠くを睨んでいる。
 口をきこうとしない歌仙に、審神者は焦りを感じて半歩、歩み寄る。静寂では廊下の軋む音すらも大きく聞こえた。
 自然と手が伸びる。なにを掴みたいのか、審神者は自分でもわからなかった。
「ねえ、歌仙……」
「今日の君はしつこいな」
 余裕のない、つたない声で審神者は呼びかける。
 しかしそれは無情にも切り捨てられて、伸ばしかけた手は萎縮して胸元で握られる。
 もう、歌仙のことを直視できなかった。
「……ごめんね」
 震える声色に気づかれないように、審神者は声を振り絞って一言口にするのがやっとであった。枯れない涙がぽたりと、廊下に染みをつくる。
 歌仙はため息を吐いて、審神者の横をさっさと通り過ぎると自室へと戻っていってしまう。
 こんなに冷えきった関係ではなかったのだ。もともと喧嘩は多いが、言いたいことはすぐ本人に伝えるし、それで関係が拗れたことなどなかったのに。
 それが今はどうか。色恋沙汰を挟むとこうもこじれてしまうのかと実感させられて、息ができないほどに胸が苦しくなってしまう。
 普通に、口喧嘩を交えながら仲良く話していた日々がとても遠くに感じた。
 ふたりの様子をじっと見ていた鶯丸は、ひどく落ち込んだ審神者の頭を撫でる。
 声をあげて泣くことはしたくないのか、嗚咽を必死に飲み込む審神者は、おぼつかない足取りで広間とは反対方向へと向き直る。
「やつもまだ青いな…………主?」
「ごめ、……部屋もどる、ね……ご飯もいらないかな……」
「……わかった。ゆっくりと休むといい」
 これ以上審神者に気を張らせることできない。鶯丸はゆっくりとした足取りで自室に戻る審神者の姿を見送り、広間へと戻る。
 結局、自室に戻ってきてしまった審神者は、畳に座り込んで奥歯を噛み締める。
 こんなことではいけないとわかっていても、惨痛に涙が止む気配はない。
 自分の手元から愛しい者が離れていくことがこんなにも苦しいことなのかと、想うことでこんなにも胸が締めつけられるなんて審神者は今まで理解していなかった。
 一番近くにいた存在は自分を見ておらず、よその女に懸想している。言葉に形容しがたい虚無感を感じた。
 布団にからだを投げ出せば、空腹もどこへやら、心身の疲弊に襲われ、うとうとする間もなく死んだように眠りに落ちてしまった。



 ***



 朝、審神者は陰鬱な気持ちで目を覚ました。
 しばらくぼうっと、布団のなかでぬくもりを感じながら時計を見つめる。いつも目覚める時間より半刻も遅い。
 ここしばらくは寝坊なんてしていなかったので自分で目覚めていたのだが、十分でも遅れれば近侍が布団を引き剥がしに来ていた。
 それなのに、今日は半刻も遅れているのに部屋に訪れた形跡はない。
 布団を握る手に力がはいる。もう自分のことなどどうでもよいのだと、呆れられてしまったのだと、辛さが滲んで下唇を噛んでしまう。
 本当はこのまま布団のなかでうずくまっていたかったが、ばたばたと身軽な足音が審神者の耳に飛び込んでくる。
 きっと短刀たちが起こしに来たのだろう。審神者は気分を切り替えて、短刀たちが起こしに来た時にどういうリアクションをとろうかと寝ている振りをするのであった。
 いつも通りの自分を演出しても、目が赤いことは誤魔化しきれないことを理解しながら。


「今日から近侍を日替わり交代制にします」
 朝食後のお茶を飲み干した審神者の突然の発表に、広間の空気が静まり返った。
 だれもが審神者の方を凝視するが、当の本人はというと顔色も変えず表情筋も動かさず飄々としている。
 しかしそれは強がっているだけで、審神者も本当はこんな命令を下したくはなかった。
 本当は歌仙兼定に近侍を続けてほしい。それが審神者の本音だ。
 けれども彼には想い人がいて、個人の時間を拘束する近侍の仕事をこのまま続けさせるのはひどい話だと思ったのだ。
 歌仙が幸せなほうがよいのだと審神者は自分に言い聞かせて、この決断を口にした。
 驚いて顔を見合わせている刀剣たちをよそに、審神者は食器の乗ったおぼんを持ち上げ、立ち上がる。
「あ、今日の近侍は蛍丸。あとでわたしの部屋まで来てね」
 それだけ言い残して、審神者は広間から立ち去る。
 静かに、朝日に照らされた廊下を歩く。これでいいのだと、自分に言い聞かせる。歌仙にとっても、なにより自分にとっても。
 顔を合わせると胸が焦がれて痛むのだから、近侍から外してしまえば想い人が懸想する姿を見なくて済む。よその女の甘ったるい色香も嗅がなくて済む。
 嫉妬をするみにくい人間になりたくなかったというのもある。なるべくなら綺麗なまま自分の心に区切りをつけて、歌仙のことを忘れてしまいたかった。
 歌仙がそのつもりであるならば手放すことも考えている。それがまだまだ先のことになるのか、今すぐのことになるのかは審神者にも予測はつかない。
 頭を切り替えて、なるべく歌仙のことを考えないように、と思った途端、後ろから腕を掴まれて、反対方向に勢いよく引っ張られる。
 強制的に振り向かせられ、驚いて見上げると、審神者の腕を掴んでいたのは他ならない歌仙兼定であった。
 焦慮した歌仙の顔から、審神者は拒むように目逸らしてしまう。それに歌仙はますますいら立ったようで、か細い腕を握る手に力が入る。
「なぜ突然あんなことを……! 僕のことが嫌になったのか?!」
 近侍を外されたことによって反論をしてくるのは審神者にとって想定内である。
 歌仙兼定は非常に自尊心の高い刀剣だ。自分が特別な地位を任されているという自負がある。そこから振り落とされるということが我慢できない性格であるというのは審神者もわかっていた。
「……えっとね、今のままだと歌仙さんばっかり忙しくて自由な時間がないでしょ? だからみんなにも近侍をお願いしようかなって」
 もっともらしい理由を、審神者は笑みを浮かべて答える。嘘ではない。だが真実でもない。
 理由を聞いても歌仙は納得いかないのだろう、無意識に、審神者の白い素肌に爪が食い込む。
 血肉が切れてしまうのではないかというほどの痛みに、審神者は顔を歪ませるが歌仙は気づいていない。
 納得はいかないだろうがすぐに引き下がるだろうと審神者は踏んでいたのに、少しだけ誤算であった。なぜなら、歌仙にとって時間が増えることは嬉しいことのはずだ。想い人と逢う時間が増えるのだから。
「僕は今のままでも充分……」
「ほ、ほら! わたしに構ってないでお外でも行ってきたら? 週末だけじゃ足りないでしょ……」
 歌仙の言葉を遮り、自分に嘘をついて突き放すような言葉を口にする。
 本当は自分の側にいてほしいと審神者は願っている。だがそれはあまりにも一方的で愚かな思いだ。
 それに、そんなことを言えば歌仙はきっと困惑するだろう。審神者は自分の言葉を胸の中に閉じ込めておくしかなかった。
「……わかったよ。君がそう言うなら従おう」
 歌仙は掴んでいた審神者の腕を離し、納得いっていないようなしかめっ面で広間のほうへと引き返していく。
 その背中を、追いかけて引き止めたい気持ちはあっても、そんなことはできない。そんなことをする勇気も審神者にはない。
 これでいいのだと、自分自身に思い込ませるように何度も頭の中で唱えた。

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