近侍を日替わり制にしてから早一ヶ月が経った。
新しい制度を導入してから、格段に審神者の負担は増加した。
元の近侍――歌仙兼定に任せていた仕事は多くあったのだが、日替わりとなるとそういうわけにはいかない。
刀剣が変わるごとに教えていてはそれだけで一日が終わってしまうし、向き不向きがある。
飲み込みが早く審神者をよく手伝ってくれる刀剣もいれば、本丸にいるのが嫌で戦に出せと駄々をこねる刀剣もいる。
果てには近侍の仕事を全うせずにどこかに行ってしまう者もいた。となると、審神者が自分で処理するほかないし、それが一番手っ取り早かった。
一ヶ月が経ってようやく今の体制にも慣れてきたが、寝不足がたたってからだは疲労困憊、くたくたですっかり元気は失われていった。
今までどれだけ歌仙に助けられてきたか審神者はよく実感した。彼は審神者を厳しく叱りながらも仕事を手伝ってくれていたし、審神者の体調にもよく気を配っていた。
時折喧嘩をまじえながらも穏やかに過ごしていた日々が懐かしくて、思わず戻りたくなってしまうが審神者は首を横に振って忘れようと努力する。自分から言い出したくせに、なんて浅ましく愚かな考えなのだと自嘲した。
そんな仕事の合間、たまには気分転換と思い審神者は街に降り立った。なんてことはないただの調味料の買い足しで来ただけなのだが。
いつも街に出る時は荷物持ちとして刀剣を一振りや二振り連れて行くのだが、今日は荷物も少ないし、供の必要性もさして感じなかったのでだれにも頼まなかった。
本丸から出る前に一応、歌仙に声はかけた。偶然非番で広間にいたからで、特段深い意味はない。だれが広間に居ようと声はかけた。
出掛けるから、と審神者が小さな声で話しかけると、素っ気のない声が返ってきて、自分には興味関心がもはやないだろうと審神者はひどく落ち込むはめになった。
歌仙が近侍であり、こんないびつな関係になる前は、危険だから「女性がひとりで歩くものではない」と釘を刺されていたので、ひとりで歩くとなるとまた新鮮な感覚だ。
街は活気があり、中で婦人が井戸端会議を開いていたり、野菜や魚を売る店の店主の声が響く。子どもらは元気に駆け回っている。
そんな賑やかな街でなにか起こるわけもないというのに。か弱くうら若い乙女でもない自分に歌仙もそこまで過保護にならずともよいのにと審神者は彼が口酸っぱく言っていた言葉を思い返していた。
店は数多あるが、調味料を買うのに一番お得なのはいつも足を運んでいる万屋だ。
最近はあまり自分で足を運ぶことはなく、なんとなく避けてしまっていたのだが、お財布と相談するとやはり安価なものを買いたい。審神者のお財布にはあまり余裕がないのだ。
例の歌仙の想い人と思しき女性が不在であることを祈りながら、こそっと万屋の戸を開けると、店番をしていたその女性が審神者に気づいてほほ笑んでくれる。
その笑顔を見た瞬間、失礼ながら審神者の顔は引きつってしまう。
「あっ、いらっしゃいませ! お久しぶりですね。今日はなにをお探しで?」
「砂糖とお醤油を……」
用件のみを口にすると、審神者はすぐ俯いてしまう。
ああ、笑顔の素敵な女性だ。いつも晴天のような心の明るさで接客してくれる。身も心もくたくたな審神者とは大違いだ。
それがなんだか惨めにもなって、声を詰まらせてしまう。
目の前に砂糖と醤油の入った袋を差し出される。懐に入れていた財布を取り出そうとした時、女性が審神者の顔を覗き込み、首をかしげる。
「ところで審神者様、なんだかお疲れで?」
「……いいえ、そんなことは」
よっぽど疲れが顔に出ていたのだろうか。審神者は引きつった顔のまま笑みを浮かべ苦笑いをこぼす。
久しぶりに顔を合わせた女性に元気のなさを指摘されるということは、本丸で常に生活を共にしている刀剣たちにはとっくのとうに気づかれているのかもしれない。
女性は審神者の髪の毛を手に取ると、その色艶を訝しげに見る。
「御髪に元気がありませんよ。あ、そうだ! これ、昨日ちょうど仕入れたんです、杏子油。櫛につけて梳かすといいですよ」
ことん、と審神者の目の前に置かれたのは支子色の液体がたっぷりと入った透明な瓶であった。
きらきらと輝く支子色に審神者も興味をひかれた。瓶の中には杏子の花弁が沈んでいて、見た目だけでも美しいものであった。
いままで審神者は髪の毛に対して特別な手入れをしたことなどなかった。
女性なのだから少しは気を使ったほうがいいと乱藤四郎や次郎太刀に諌められることも多々あったが、どうにも気乗りしなかったのだ。
だがどういう心境の変化か、杏子油に興味を持ってしまったことに審神者自身が一番驚いた。
しかし財布の中身をすると、やはりなんとも寂しいもので、ものの数秒で諦めて財布の紐を締めてしまう。
「ごめんなさい、いま持ち合わせが……」
「これはいつもご贔屓頂いているお礼ですよ。持っていってください、ね」
否応なしに、杏子油は調味料の入った紙袋に同封されて手渡される。
最近は訪れていなかったというのに、いつもご贔屓にとは、刀剣たちの利用も含めてのことなのだろう。
……とくに歌仙はこの万屋に足繁く通っている。おそらく、いや、確実にこの女性目当てにして。
いろいろと考えているうちに虚しさを思い出してしまって、審神者は目をそらしながら女性に礼を言う。
「あ、ありがとうございます……」
「ぜひ使ってみてくださいね。わたしもお気に入りで……」
ほほえみを絶やさない女性の姿をみて、胸が締めつけられる。
幸せで、愛されている人間とはこういう顔をするのだ。御髪も綺麗で、肌の色艶もよい。目はきらきらと輝いていて、吸い込まれてしまいそうだ。
羨ましくて、苦しくて、どうにかなってしまいそうな心境を抱えながら審神者は足早に万屋を去った。
万屋を出て、賑やかな街には似合わない暗い面持ちで街を歩く。足枷でもついているかのように足取りが重たく、心臓がどくどくとうるさい。
こんなうるさい心臓などいっそ止まってしまったらよいのにと自暴自棄になりながらも帰路を辿っていると、突然目の前に影ができたように暗くなる。
どうしたものかと顔をあげると、審神者は五人の男に取り囲まれていた。それぞれの男に面識はまったくない。
四方八方を男に塞がれ、審神者は息を呑む。 なぜ嫌なことというのは立て続けに起こってしまうのだろう。自分の運の悪さに、審神者は心底うんざりした。
男たちは下品なうすら笑いを浮かべながら、物色するように審神者を見る。大方、金目のものが目当てなのだろう。
「おう姉ちゃん。大人しく財布と荷物置いてきな」
ひとりの男が口を開く。にやついた喋り口に審神者は応じることなくじっ、と地面の砂を見つめる。
審神者は刀剣などに神を降ろせるだけのただの人間である。
男五人を相手に取っ組み合いの喧嘩などできるはずがないし、ましてやとびきり機転が効くわけでもない。しかしだからと言って財布の中身を愚かしい輩にあっさりと明け渡せるような女でもない。
周囲を見ても人々は助けてくれそうにない。いつだって触らぬ神に祟りなしだ。
審神者がどうするべきか思考を張り巡らせていると、荷物を抱えている手をむりやり捻り上げられる。
乱暴をされると余計、むざむざとやられてなるものかとむきになってしまうのが審神者の性格だ。
痛みに顔を歪ませながら男の顔を睨みつけると、それがたいそう気に食わなかったのか手に力が入る。片手で持っている荷物が落ちてしまいそうだった。
さらに肩を鷲掴みにされ、からだはおろか、恐怖のあまり振り向くことすらも出来なくなっていた。
「さっさと金出しゃあ、身の無事だけは保証してやるぜ?」
「ったく金持ちの女は頑固だなあ、ええ?」
なにを言われても審神者は口を開かずきゅっと結ぶ。
審神者は大金を持っているわけではない。養っている刀剣が多いから使う金が多いだけだ。
街にはよく金を落としているので金持ちと認識されるのもしかたがないのだが、実際のところ生活はかつかつである。
しかしなにを話そうとも狼藉を働くような輩に通じるはずもない。
「もうむりやりヤっちまおうぜ」
「誰の主になにをするって?」
いま乱暴を働こうとしている男たちよりもいっそうガラの悪い声が耳に飛び込んでくる。
審神者の手を掴んでいる男の肩を掴み、割って入ってきたのは――浅葱色の瞳を細めた和泉守兼定であった。
よく見知った刀剣の姿にほっとした審神者は思わず顔が緩む。それでも不利であることには変わりないのだが。
和泉守は審神者の肩と手首を鷲掴みにしている男の手を払いのけ、審神者を守るように胸元に抱える。
体勢を崩した審神者はよく見れば和泉守が帯刀していないことに気がつく。かたや審神者にたかろうとした男どもは腰に木刀をさしている。
「ちっ、ツレがいたのか」
「だがひとりだ! やっちまえ!」
男共が和泉守に飛びかかってくる様子は、まるで時代劇のようだと審神者は守られながら考えていた。
上から振ってくる木刀をさっと避けたかと思えば足をひっかけ、ひとりをまず倒す。
次に後ろから急襲してきた男の手首をいとも簡単に捻ると、掌から落ちた木刀をすかさず拾い、次に向かってきた男の肩に重たい一撃を食らわせる。
正直なところ、和泉守が木刀を手にした時点で審神者の心は危機を脱したかのように落ち着いていた。
肩を抑えながら倒れこむ男をみて、他の男たちもいかつい顔を引きつらせてたじろぐ。
和泉守の顔を見上げると、手応えがないとでも言いたげなやけに冷めた表情をしながら右手に持った木刀で肩を叩く。
圧倒的な力を前にして男たちはそろそろ引き上げるかと思いきや、今度は一斉に木刀を振り下ろしてきた。
二本の木刀をすぐさま弾き飛ばし、地面を蹴って砂埃を巻き上げると、男たちが一瞬目を瞑ったその隙を狙って木刀を投げつける。
さすが土方歳三の刀と言うべきなのか、喧嘩でも当然のように強い。
和泉守は審神者に自身が羽織っていた浅葱色の羽織りを頭から被せると、手を引いて走る。
すこし走って家屋の影に隠れると、はあ、と一息ついて審神者はその場に座り込む。荷物を持って走ったせいか、いつもより息切れが激しい。
「あ、ありがとう……和泉守」
お礼を言う審神者の顔を、和泉守が訝しげな表情で見つめる。
不条理なことがあって納得がいっていないような、機嫌の悪い表情だ。
審神者も和泉守の表情の変化にはすぐ気がついたが、なにが理由でそんな顔をしているかまでは分からなかった。
和泉守は審神者と同じ目線になるようにしゃがみ込むと、顔をまじまじと見つめて深いため息を吐く。
「……あんた、なんで供を連れていないんだ?」
「いや、軽い荷物だったからひとりでも大丈夫かと思って……ごめん」
つまるところ和泉守は供を連れずにひとり歩きしていた自分に対して怒っているのだ。
確かに今回の行動は軽率だったと審神者もすこし反省している。用心するに越したことはないのだ。
素直に謝って頭を下げると、和泉守は乱暴に審神者の頭を撫でる。まるで同性の兄弟のような扱いである。和泉守なりの励まし方なのだろう。
「明るかろうと女のひとり歩きは危険だ。つったく、歌仙のヤローは知ってるのかよ?」
「……歌仙は関係ないから」
和泉守に頭を撫でられた安堵感で綻んだ顔が一瞬にして曇る。
問いかけにすっと目をそらすと、和泉守は核心を突いてしまったことを察してうんざりとしたような声音をもらす。
歌仙と審神者の関係性にひずみが生じていることに気づいていない刀剣はいないだろう。歌仙と同じ兼定派である和泉守ももちろん知っている。
和泉守は配慮ができない刀剣ではない。わかっていて、審神者に歌仙のことを尋ねた。
「言ったのか? 出掛けるって」
和泉守はまっすぐな瞳で審神者の目を見つめる。
嘘すらも見透かされてしまいそうなほど透明な瞳。忘れがちだが彼らも神の一端だ。
「……言ってない」
審神者は和泉守からは目を逸らしたまま嘯く。見透かされるかもしれないと心を緊張させながらも、真実は口にしない。
歌仙のことを守っているわけではない。情けない自分の姿に素直になれないのだ。
素直についてきてくれと歌仙に言えばよかっただけの話。自分の感情を押し殺せばよかっただけの話。
それができない自分の心の脆さを恥じて、嘘を吐いた。
「……ふうん。ま、今回は俺がいたからよかったけどよ。ほら、荷物貸せよ。行くぞ」
和泉守は納得がいっていないのか口をへの字に曲げたまま返事をして、調味料の入った荷物を持ち上げる。
片手で荷物を持ち、空いているもう片方の手で審神者の手を掴むと、足早に本丸へと急ぐのだった。
「おい、歌仙!」
「ちょ、ちょっと、和泉守!」
審神者の手を引いたまま和泉守が訪れたのは歌仙兼定の部屋であった。
頬杖をつく歌仙の文机には筆と墨、それから和紙が乱雑に置かれてあり、なにかをしたためていた最中であったことが想像できる。
ふたりの姿を見た途端、歌仙は文字を連ねた紙を着物の裾に隠して目の届かないようにしてしまうのだが、審神者はその行動を見逃さなかったし、書いていた文字も見逃しはしなかった。
歌仙は旧主に似たのか、非常に筆まめだ。書くことはどうやら苦にならないらしい。
審神者もいくつか文や歌を貰ったことがあるが、あまりにも達筆すぎるのと、言い回しが現代人の審神者には理解できずそのまま保管していた。
本人に聞けば、たいそう嫌な顔をして、自分で考えてくれと突き放されたので、未だに意味はわからずじまいだ。
しかしいま見えた文字の羅列は審神者にもかんたんに理解できるもので、思わず閉口してしまう。
「……なんだい騒々しい」
迷惑と苛立ちが混同した瞳で歌仙は部屋に突然現れた両者を睨みつける。
だが審神者の心中はそれどころではなかった。歌仙が着物の裾で隠した歌が眼に焼きついて離れない。
――こんなにも近くにいるのに君の側で咲くことすら許されない。あまりの切なさに花神も崩れてしまいそうだ。
古典には疎い審神者だが、見えたものはくずし字ではなかったため、すこし考える時間は必要だったものの理解ができてしまった。
歌仙が書き連ねていたのは、想い人の傍らにいることすらもできない自身の苦しみだ。
こんな思いをさせている自分はなんてひどい主なのだろうと審神者は歌仙のほうを見ていられない。
審神者の複雑な気持ちに気がついていない和泉守は激しい剣幕で歌仙を捲したてる。
「お前な、自分がこいつをひとりで外歩かせるなって言い出したくせになんでついて行ってやらないんだよ! 部屋でダラダラしてるなら買い物ぐれー付き合ってやれよ!」
「うるさいな……そんなことで……」
同じ刀派の、それも何代も離れた目下である和泉守に怒鳴られた歌仙は面白くなさそうに吐き捨てる。
審神者はその言葉にひどくショックを受けた。自分は歌仙にとってその程度の存在でしかないと突きつけられた気分だ。
名ばかりの主であることは重々承知していたし、従者はつねに主に付き従い守り通せだなんて思ってはいなかった。
みな己の意思で審神者に接し、審神者もそれに文句をつけることはなかった。
離れていく者がいればそれはもう仕方がない、止める資格などないと思っていたが、それが現実に実際起こるなどとは想定もしていなかった。
信頼と恋心を寄せていた相手に審神者は見放されたのだ。天空から地上へ突き落とされるようなにわかに信じがたい苦痛が審神者を襲い、心を蝕んでいく。
しかし歌仙の振舞いをどうこう言う資格など自分にはないと審神者は思っていた。
末端といえども彼らは神である。神を己の勝手な理由で引き止めるなどというそんな浅ましい行為、ただの人間である審神者にはできない。
「そんなことじゃねえだろ。こいつ男に絡まれてたんだぞ!」
和泉守がそう言い切ると、歌仙は目を見開いて審神者を見つめる。
その視線がやけに痛く、審神者は歌仙のほうを見ることができない。いまさらそんな心配がる振りなどしなくてもよいのにと、自暴自棄になってしまう。
歌仙は立ち上がり、審神者の頬にそっと手をのばす。
しかし審神者はそれが視界に入った瞬間、即座に払いのける。同情のこもった掌のぬくもりなど必要ないというように。
「ある……」
「和泉守! いいから、もう……ごめん、わたし行くから」
その場にいることが居た堪れなくなって、一方的に話を片付けて審神者は歌仙の部屋を立ち去る。
和泉守が引き止める声は審神者の耳にも届いたが、もう立ち止まることなどできなかった。
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