ふらふらとした足取りで自室へと戻った審神者は、部屋の角でただぼうっとしているだけの時を過ごしていた。
和泉守が置いていった買い物袋を見て、とても悪いことをしてしまったと先ほどの諍いを思い返して審神者は反省する。
自分の勝手な感情だけで善意を台無しにしてしまった。あの状況が耐えられなかった気の短さには自分のことながら心底がっかりする。
のそりと重く気怠いからだを動かし、審神者は買い物袋に入れていた杏子油を取り出す。
ひかりに照らされるときれいに輝く支子色。自分にはとても似合わない気がしながらも、審神者はゆっくりと蓋をまわす。
「……このにおい……」
蓋を開けた途端、部屋中に充満する柑橘の香り。以前もどこかで掻いた記憶があった。
さていつだったかと思い出そうとする審神者の身動きが固まる。
ああ、そうだ。このにおいは……外から帰ってきた歌仙が漂わせていた女のにおい。
万屋の女性がお気に入りだといって進めてきた髪油。ふたつの出来事が線で繋がった。
思い出したくもない記憶と一致してしまい、審神者は瓶の蓋を固く締めて重たいため息を吐く。
瓶を力強く掴んで投げようとも思ったが、そんなことをしても何にもならないと、振りかぶった手を下ろす。
もう泣きたくなどないのに、また感情が昂って目に涙を溜めてしまう。精神の脆い自分と他の女のにおいが許せなかった。
しかしそれと同時に自分の感情に一定の区切りがついて、しずかに現れた背後の気配に審神者は声を震わせながら話しかける。
「歌仙さんを……手放そうと思うの」
「……本当にそれでいいのか? 俺は自分の気持ちを大事にしろと言ったはずだ。今の言葉は本心か?」
振り返った審神者の顔には一筋涙の粒がこぼれ落ちる。
いつもより真剣な眼差し、目を細めて鶯丸は審神者を問い詰める。彼には主の表情がひどく痛ましく憐れに見えてしかたがないのだ。
鶯丸の問いに、審神者は躊躇なく言葉を連ねる。その言葉は真実ではあるがまことではなかった。
歌仙に幸せになってほしいという審神者の思いは間違いなく本物だ。
しかし歌仙が審神者の元にいて幸せかどうかなど、本人に聞かなければわからない話で、審神者が決めつけることではない。
だがそれを伝えようにも、審神者は話など聞かないだろう。言っても聞かない審神者の性格を鶯丸はよく理解していた。恋は盲目とはよく言ったものだ。
「歌仙さんには幸せになってもらいたいの。だけど、歌仙は……歌仙はわたしの側にいると幸せになれない……」
「主……」
子どもを慰めるようにこぼれ落ちる涙を拭きとってやり、背中をさすりながら頭をゆっくりと撫でる。
鶯丸の肩に顔を押し当てて泣いている審神者の部屋に、また一振りが足音を消して現れる。
「主、さっきのことだが……」
とつぜん審神者の部屋に訪れた歌仙兼定は目の前で起こってる事態に目を見開く。障子戸にかけている手が思わず力む。
鶯丸に抱擁されている審神者は歌仙の声に顔を上げようとするが、その瞬間鶯丸に頭を抑え込まれ、よりいっそう強く抱きしめられる。
わけがわからないまま抱きとめられる審神者の耳元で、ここは任せておけと声が聞こえる。なにをしでかそうとしているのか審神者にはまったく予測がつかない。
「……僕の主から離れてくれないか」
歌仙は鬼気迫る表情で鶯丸の肩を鷲掴む。しかし年長者の余裕からか軽く鼻で笑って手をはねのける。
鶯丸は日常においても無下な争いは好まない。そのはずなのに、彼からは殺気にも似た気配がする。
抱きかかえられたままの審神者は不穏な空気を感じとり、心中穏やかではなかった。しかし、歌仙に合わせる顔もなく、ただ黙って二振りの会話を聴いているしかない。
自分などどうでもよいはずなのに、未だに僕の主と呼んでくれる歌仙の声音に胸が痛み、揺れる。
「それは聞けないな。お前のせいで主が幾日も泣いているというのに」
離れろという歌仙の言葉に逆らうように鶯丸は審神者のからだを抱き寄せる。
鶯丸の言う通り、審神者は歌仙のことを想っては幾日も枕を濡らしていた。恋とはなんて苦しいものなのだとその度に思い知らされた。
苦しいと思っても自分の感情を歌仙に直接伝えることはできなかった。なによりも真実を歌仙の口から聞くのが怖かったからだ。
現実から逃れようとする度に審神者は涙を流して忘れようとした。忘れられないことは理解しているのに、忘れる努力を続けた。
だから歌仙の行い審神者の狭い心を傷つけ苦しませていることなど知らなくてよいのだ。知られてもどうにもならないのなら知られないほうがいい。審神者はそう考えていた。
歌仙を責めるような鶯丸の言葉を審神者は制止しようとするが、身動きをとれないようにからだを抑えこまれる。黙ってこのまま聞いていろという意味だろう。
「僕が一体なにをしたと……」
「お前もわからん奴だな。その煮え切らない態度が主を苦しませている。この主にははっきりと口で言わねば伝わらんぞ」
鶯丸がぴしゃりと言い切ると、歌仙は肩を掴んでいた手を離し、目を逸らす。その目は感情の狭間で揺れているように見えた。
言われなくともわかっている。決定的な言葉など聞きたくない。審神者は抱きしめられていた鶯丸のからだから離れると、おぼつかない足取りで歌仙の目の前に立つ。面と向かうのは久しぶりのことだった。
審神者は歌仙の瞳を見つめてゆっくりと微笑む。その目からは涙がこぼれ、それを拭う余裕すらない。
「わたし……なにも聞きたくない……」
「ある、じ……?」
「わたしは、歌仙が幸せになってくれれば、それでいいの……たとえ、わたしの側からいなくなったとしても……」
審神者の言葉は真実を言わせないための予防線だ。
歌仙の口から直接本当のことを聞いてしまえば審神者は自分を保ってはいられないだろう。
震える声で紡がれるたとえ話に、歌仙は目を丸くして唖然とする。
「君は……なにを言っているんだ! 僕が君から離れる理由なんて……」
「もういいの! わかってるから、歌仙が……ほかのひとのこと好きだって、わかってるから……」
秘めていた感情が堪えきれず爆発する。
これでは歌仙が別のひとのことを好いているから自分が涙を流しているのだと言っているようなものだ。
もういいだなんてちっとも思っていない。言葉ではいくら言えても諦めることなどできない。
だからこそ本人の目の前で決断を口にする。もう二度と自分の心を覆らせないために。
審神者の弱った声から伝えられた言葉に歌仙は耳を疑う。
「……君はなにもわかっていない! こっちへ来い!」
歌仙は審神者の右手首を掴み、自分のほうへと引き寄せて部屋から連れだそうとする。
「まっ、待って離して……」
引っ張っていこうとする歌仙に審神者は対抗するが、もちろん歌仙の腕力に敵うはずもなく、廊下に連れだされてしまう。
部屋からいなくなったふたりを見て鶯丸は茶を飲んで一息ついた時のようにほっとした様子で息を吐いた。
歌仙は自分の部屋に審神者を連れ込むと、座椅子に審神者を座らせ、ぴしゃりと障子戸を閉め切る。
そうして審神者の真向かいに腰をおろすと、まずは涙でぐしゃぐしゃになった審神者の頬を着物の袖で拭きとってやる。
歌仙は近くの文机から小さな箱を取り出すと、審神者の俯いた顔をあげさせて左手をとる。
「まったく……まだ完成していないというのに……」
「か、歌仙……?」
突然手を重ねられ、審神者は落ち着かない様子で歌仙の顔と手の間で視線を行ったり来たりさせる。
歌仙が手にしていたのは、白銀の円にきらきらと輝く小さな金剛石が埋め込まれた指輪であった。
しかし何箇所かはくぼみがあるものの石の埋め込まれていない部分があり、その指輪がまだ未完成であるということは明らかだ。
歌仙は審神者の指をまじまじと見つめながら顔を赤らめて自分を落ち着かせるように息を吐く。
「君の時代では婚姻を申し込む時に指輪を贈るのだと聞いた」
指輪はゆっくりと審神者の左手薬指にはめ込まれる。いつの間に指周りなんて測ったのか、サイズは丁度よい。
慌てふためく審神者の左手薬指に歌仙がそっと触れるだけの口づけをする。そして指と指を絡め、揺るぎない縹色の瞳で審神者を見つめる。
「主、どうか僕の妻になってほしい」
***
審神者が目を覚ますと一番最初に目に飛び込んできたのは見慣れた天井だった。
自分がいつ布団に入ったかすらも覚えていない審神者は、ぼんやりした頭で記憶が飛ぶ前のことを思い出そうと低く唸る。
「あ……」
はっと意識がとつぜん正気に戻り、左手薬指を確認する。
紛れもなく嵌められているのは銀色に光り輝くきれいな白銀の輪。落ちかけた陽に当たると金剛石が反射して眩しい。
歌仙が婚姻の証として審神者に贈った未完成の指輪は、たしかに審神者の指に存在した。
いまだに信じられない。いままでのことがすべて夢だと思って頬をつねっても痛みがじんわりと残るだけで、夢から覚める気配はない。
右のほうに寝返りをうつと、ひとの姿が目にはいる。ぎょっとして顔をあげると、指輪の贈り主である歌仙が座ったまま壁にもたれかかって船を漕いでいた。
「…………」
歌仙はずっとここにいてくれていたのだろうか。審神者にはまったく時間の感覚もない。
審神者は上半身を起こし、そっと歌仙の手に触れる。
「ん……あるじ、起きたのかい……?」
歌仙は自身の前髪を掻きあげて寝ぼけ眼を擦って目をぱちりと開く。
そうして、先ほどのことなんてなんでもないような顔をして立ち上がり、審神者の頭を撫でて「水でも持ってくるよ」とこの部屋から離れようとする。
「あっ、待って、歌仙……!」
歌仙の袴の裾を掴んで引き止めると、歌仙は少し困ったように微笑みつつも大人しくその場に座る。
引き止めたはいいもののなにを言おうかなど決めていなかった審神者は歌仙から目を逸らしつつ起きたばかりの頭を必死で張り巡らせる。
「どうしたんだい」
ひさしぶりに聞いた緩やかな声音、柔らかい表情に胸が揺さぶられる。
自分の思いを伝えたいのに、うまく言葉が出てこず震える歯を必死に噛み合わせて審神者は言葉を紡ぐ。
「わっ、わたしを……歌仙のお嫁さんにしてください!」
審神者がそう言い切ると、すぐさま歌仙は審神者と同じ目線に屈んで抱きよせる。
ずっと恋しかった体温をやっと側に感じることができて、審神者もしっかりと歌仙の背中に手をまわす。
あたたかな花の香りは審神者も好きなものだ。いつも通りの歌仙のにおいが鼻孔をくすぐる。
落ち着きなく高鳴る歌仙の胸元に埋められていた顔をあげると、ぱちりと目が合う。
歌仙は審神者の左手を手にとり、しげしげと自分が贈った指輪を見つめ、ため息を吐く。
「本当なら完成したものをあげたかったのだけれどね。君があんなにも誤解しているとは思わなかったから突然渡すことになってしまって……」
審神者がいま嵌めている指輪にはいくつか石の埋め込まれていないくぼみがある。
完成してから渡すつもりだったのが急きょ予定が狂い、歌仙は自分の思い通りにことが進まなかったことに心残りがあるようだ。
思えばすべては審神者の早とちりだったのだ。鶯丸の助言を最初から素直に聞き入れ、自分の本心を正直に伝えていればこんなややこしいことにはならなかったのだ。
審神者は猛省するとともに心底ほっとして歌仙の胸にもたれかかる。
「……ごめんなさい」
「謝らないでくれ。紛らわしいことをした僕も悪かった。……さて、食事でも持ってくるよ。待っていてくれ」
審神者とつないでいた手を離すと、歌仙は腰をあげて部屋を出ようとする。
やっと互いの想いが通じたというのにずいぶんあっさりしていると審神者はすこし寂しくなってしまう。
「行っちゃうの?」
「……厨にいると昂った気も鎮まるんだ。これ以上はあまり言わせないでくれ」
問いかけに困ったような表情をして答える歌仙を見て、審神者は気が昂ぶっている原因を察するが、気がつかないふりをして流す。
歌仙の真意はいまのいままで見抜けていなかったが、さすがにいまの発言をつつくほど審神者も鈍い性格をしていない。
部屋にひとり取り残された審神者はきらきらと己の指に輝く指輪を見つめて緩んだ笑みを浮かべる。
「きれいだなあ……」
「ああ、本当にきれいだな」
のん気な男の声に審神者がぎょっとして先ほど歌仙が出て行った障子戸のほうを見るとそこには鶯丸が立っていた。
鶯丸は審神者に近づくと、まるで孫でもかわいがるように頭を撫でてほほ笑みを浮かべる。
「ようやくつがいとなってくれたか。安心したぞ」
「ご、ごめんなさい……鶯丸さん……わたしの早とちりがすぎたばっかりに迷惑かけて……」
「気にすることはない。まあ、昼夜問わず歌仙に鬼のような形相で睨まれたのもよい思い出だ」
「そ、そんなことが……本当にごめんなさい。……でもありがとう」
鶯丸は審神者の相談相手としてよく傍らにいたし、涙をする審神者をよく慰めもしていた。歌仙に疎まれて睨まれるのも無理はない。
ただ両者がこれ以上つらい思いをする前に相思相愛となれたのは鶯丸の一言あってである。
審神者は感謝の意味を込めて鶯丸と抱擁を交わす。
「主、米と麺どちらが……」
そんなところに厨に行ったはずの歌仙が突然現れ、審神者は鶯丸と抱擁したままばっちりと目が合う。
瞬間、歌仙の眉は釣り上がり、目が見開かれる。審神者が慌てて抱擁を解くがもう遅い。
すさまじい足音で歌仙は部屋へと入り込み、握りこぶしを震わせる。
「ちょ、ちょっとちがうんだってば、歌仙! これはわたしからしたことで……お礼っていうかなんていうか……」
「君は静かにしていてくれ。……鶯丸、君には感謝しているがそれとこれとは話が別だ! 主から離れろ!」
「やれやれ。俺は主に祝言を述べにきただけなのだがな。嫉妬する男は嫌われるぞ?」
鶯丸は立ち上がると、力を抜けと言わんばかりに歌仙の肩をぽんと叩き、部屋から出て行ってしまう。
歌仙は鶯丸が廊下を歩いていったのを確認すると、障子戸を締めて審神者に駆け寄り、力強く抱きしめる。
あまりの力の入りように審神者はからだが痛かったが、なにを言っても気の済むまでこうしているのだろうと早々に諦め、歌仙の頭を撫でつける。
子どもをあやすように頭を撫でていると、歌仙はいじけたような顔をあげて、審神者の口元をじっと見つめる。
物欲しそうな歌仙の瞳から審神者が目をそらしていると、下唇をとつぜん指でふに、と触られて顔が熱くなる。
「しても、いいかい」
「……歌仙の好きにして、いいよ」
好きにしろとは言ったものの審神者のからだは緊張で汗ばみ、目線はきょろきょろと動いてまったく落ち着きがない。
歌仙は審神者の目線に気がつくと、下唇に触れていた手を一旦下ろし、涙の跡のついた頬をゆっくりと撫でる。
「僕は欲深い。君の言葉、体温、表情、いや……すべてを僕に絡めて離したくないと思っている。そんな強欲な僕に、君は身を委ねてくれるのか」
不安が入り混じったような歌仙らしくない表情を包み込むように審神者は両頬を手で覆い、額と額を合わせる。
「わたしも歌仙の全部がほしい。わたしが好きな、歌仙の好きにして」
震えたままの声音で歌仙にそう伝えると、審神者は布団の上にあっという間に押し倒され、あ、と小さな声がもれる。
歌仙は指と指を絡め、愛おしそうに指輪のついた左薬指に何度も口づけを落とす。
審神者がその様子を熱のこもった視線で見つめていると、歌仙はからだを移動させて顔と顔を至近距離に近づける。
目と目が合うと、愛を確認するように何度も唇が重ねられる。審神者の頬には喜びの涙が伝っていた。
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