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 学院を卒業し、プロデューサーとして奔走してきたあんずが体調を崩したのはつい二、三日前のことだった。社会人はからだが資本。健康には気を遣ってきたつもりではあったが、周囲で風邪が流行っていたことと普段の疲労が重なって、あんずもとうとう風邪をひいてしまった。
 軽い風邪なら仕事は休まなくても大丈夫、そのうち治る。そんな安直な考え、自分が扱う商材には絶対にしないのに、自分に対してはこうも安易でいてしまうのはあんずの元々の自己犠牲精神が生んだものだろうか。あっという間に風邪を拗らせ、ついに同居人にも勘付かれて、そして久しぶりに見たものすごい剣幕で、あんずは叱られた。
 それからあれよあれよという間に仕事は休まされ、病院に連行され、今現在こうして自室のベッドで天井を眺めている。あんずの頭に思い浮かぶのは、同居人に風邪をうつしてしまったら申し訳ないということ、仕事で穴を受けてしまったことの罪悪感。それもこれも、あんずが風邪を甘く見ていたせいだろう。
 気がつけば足取りがふらふらとするほど熱が出て、からだのあちこちがだるい。節々の痛みにからだを動かすことも億劫で、今となっては寝返りすら打てない。枕元で静かに加湿器が働いている。ぽつんとひとり取り残された寝室にはなにも聞こえない。
 ちょうど昼時、お腹はあまり空いておらず、だからといって眠気があるわけでもない。同居人の居ぬ間に仕事の進行度でも確認しようかと、ナイトテーブルに置かれた携帯端末に手を伸ばした。……だが運悪く、ドアの開く音がした。その音がして初めて、あんずは同居人が部屋に近づいていたことに気がついた。風邪をひいたせいで、耳が遠くなっていたのだ。
「ちょっとぉ、なにしようとしてるわけぇ?」
「あ、せんぱ…い…………」
 同居人こと瀬名泉は小さな一人用の土鍋を両の手で持ちながらぎょっとした顔であんずを見る。携帯端末まであと数センチメートル。あんずは瀬名の顔を見てしばらく硬直した後、大人しく手を引っ込め、顔までばさりと布団を被った。
 そんなあんずの反応から、瀬名はムッとした顔でため息をつき、しかしながらも風邪を引いた彼女のために作った卵粥をナイトテーブルに置き、ちらりとその彼女の手に渡ることのなかった携帯端末を没収した。
「風邪が治るまで携帯は没収。電話なら俺が出るから」
「………………はい」
「ほらぁ、ご飯食べて薬飲んで早く寝な」
 すごく怒っているかと思ったら案外そうでもなく、あんずは瀬名の声色の優しさに布団からちらりと顔を覗かせ、彼の様子を伺ってから数秒後、上半身を起こした。同居人は世間をきらめくアイドルで、もっとも風邪を移してはいけない存在。そんな彼に風邪っぴきの自分の面倒を見させてしまうなんてなんという醜態。あんずが瀬名の優しい声音にげんなりしていると、マスクをつけた瀬名は首を傾げる。
「なぁに、食べさせてほしいの? あんずは甘えん坊さんだねぇ」
「ち、ちが……」
 枯れた声の否定など彼の耳には届かず。瀬名は土鍋から卵粥をスプーンに少し掬うと、息で冷ましてからあんずの口元に近づける。世話焼きの瀬名はあんずの体調不良を見抜けなかったことを憤っていたが、それと相反して世話を楽しんでいる気すらある。食べさせてもらうなんて、そんなこと自分がしたことはあるが、やってもらうとなるととても恥ずかしい。
 熱にうかされながらも至って理性的なあんずはスプーンを奪い返そうと手を伸ばしたが、シニカルなんぞどこへやら、爽やかな善意百パーセントの笑顔、その背後に隠された圧倒的な威圧感に負けてスプーンに掬われた卵粥を大人しく受け入れる。
 少しだけ熱い、とろりとした感覚が口の中を流れていく。熱のせいで麻痺しているのか味がよく分からないが瀬名のことだ、完璧な分量で作ったに違いない。
「ちゃんと全部食べさせてあげるからねぇ」
「せんぱ、い……仕事は……?」
 なんとかこの状況から脱却したいあんずは、食べさせられながらもちらりと時計を見やる。売れっ子の瀬名のスケジュールはタイトだ。今日は午後から撮影のはずだ。芸歴はそれなりといえども、瀬名が余裕をもってスタジオするタイプであることをあんずは知っている。
「まだ大丈夫。ていうかそんなの、あんたが心配することじゃないでしょ」
 一瞬でかわされてしまった。瀬名はスプーンで卵粥を掬う手を止めない。……あんずは結局、自分の手でスプーンを持つことなく卵粥を完食した。その後は薬を飲むところまで見つめられ、ふたたびベッドに寝かされた。掛け布団を首までしっかりと包み込まれた。瀬名はひとまず満足したような顔であんずの頭を軽く撫でる。
「じゃああと少しで仕事行くから。大人しく寝てるんだよ」
「はい……ありがとう、ございます……」


 ぱたんと静かにドアを閉めて、苦しそうに頬を紅潮させたあんずから離れる。瀬名は卵粥が入っていた土鍋を早急に流し台へ持っていき、乾かないうちにさっさと土鍋とスプーンを洗ってしまう。仕事まであまり時間もない。
「…………はあ」
 風邪予防のマスクをとり、悩ましいため息が思わずこぼれる。あんずが風邪を引いたことを憂いているわけではない。もちろん体調を崩してもろくに休まず結果寝込むまでに至ったあんずを見過ごしてしまった自分の不甲斐なさを悔いてはいる。だが今、この現在起こっている問題はそこではない。瀬名は自室に入り、ベッドに腰掛ける。
「仕事の前にっ……ったく、もう」
 こんな時間のない時に限って下着の中で燻る物が苦しくて仕方がない。青臭い高校生でもあるまいし、ばかばかしいと瀬名は下腹部に孕んだ熱をきっと睨んだ。睨んだところで苦しさがすっとどこかにいってしまうはずもなく、瀬名はベルトをゆるめる。
 全部あんずのせいだ。熱のせいで苦しそうな息遣い、潤んだ瞳、しっとりと汗ばんだ肌、果てには卵粥を食べさせた時の困った顔、スプーンを咥えた姿。ひとつひとつが瀬名の性欲を刺激した。
 溜まっていた、と言えば嘘ではない。自分の多忙なスケジュールのせいもあって、瀬名とあんずは一緒のベッドで寝ることがなかなか少なかった。まだお互い仕事を優先しなければいけない時期だからと互いの部屋を用意したことも、少なくとも瀬名にとっては良くなかった。クイーンサイズのベッドを置いた部屋は共寝をするためのものだったが、最近はほとんど使っていない。
 性欲に振り回されるほど理性を手放してはいないが、熱を出したあんずの姿にたがが外れたのも事実だ。パンツのジッパーをおろし、罪悪感を抱えながらも下着の中に手を入れ、己の物を取り出す。ばかばかしいぐらいにそそり勃ったこの物をそのままにして仕事に行くことはとてもではないができない。一度落ち着かせれば、荒んだ欲もおさまるだろう。
 ひとりで事に及ぶことも久しぶりだ。指で輪を作り、根元からそっと扱くと、体全体が身震いするほどの快楽が瀬名の全身を襲う。隣の部屋で熱に倒れた彼女の姿が浮かんだ。あの柔肌に触れられたい、あの小さな口を己の物でいっぱいにしたい。甘い唾液で満たされた咥内を自然と求めてしまう。
「んっ、はぁ……あんずっ……」
 雄の先端を指の腹でぐりぐりと押しながら寝込む彼女の名を呼ぶ。きっと今頃自分の言いつけを守って寝ているに違いない。少しくらい声が出たって、気がつきはしないだろう。
 背徳感を抱えながらカリの部分を執拗に攻めると、先端から汁がだらだらと溢れた。頭の中が欲でいっぱいになる。本当は彼女を抱きたい。しかし目の前の状況は最悪だ。風邪を引いた彼女、あと少しで仕事の時間。腕時計をちらりと見やり、時間を確認する。もう、あまり余裕はない。
 ベッドに腰掛け、仰け反るからだを腕ひとつで支える。シャツを邪魔にならないようにめくり上げ、快楽に正直なまでに波打つ下半身をあらわにする。隣で寝ている彼女にもっとも知られたくない、情けなくてあられもない姿。直視したくない現実を細目で見ながら、膨張した己を強く扱く。
「っ、あんずっ、あ…んッ……あんず、あっ…!」
「けほっ……せんぱ、い?」
「ひ、っ……?!」
 もう少しで果てそうなところ、くぐもったか細い声が瀬名の耳に入り込む。頭の中で抱き潰している彼女の声が、寝ているはずの彼女の声がなぜ聞こえるのか。果てたがってひくひくと動く下半を抑え込むように屈みながら、瀬名は精一杯平常心を保ってドア越しに返事をする。
「…………あんず、寝てなきゃだめだって言ったよね?」
「ご、ごめんなさい…。なんか、でも、せんぱい、私のこと呼んでません…でしたか」
「っ!」
 背筋がぞくりと凍る。あんずのことを呼んでいたのは間違いない。だがそれは瀬名の独り言、想像の中で抱き潰している彼女を呼んでいた。なんとかごまかすための策を練るが、どれもこれも空回りしてしまいそうだ。
「ね、熱で空耳でも聞こえたんじゃないのぉ!いいから早く寝なさい!」
「は、はい……すみません……」
 消え入りそうな声で謝罪を受け、また罪悪感がつのる。小さな足音、隣部屋のドアが閉まった音が聞こえて、瀬名はようやくほっとして息をついた。
 視界に入った己の熱は未だおさまっておらず、みっともないこれを早く鎮めようとふたたび手をかける。さすがに先ほど果てそうだったことも手伝って、欲はすぐに吐き出された。ティッシュの中に溢れたそれをぐしゃぐしゃと丸めて捨てる。
 立ち上がっていつも通りにおさめると、心なしかすきっとしている。あんずにもどうにかバレずに済んだ。欲に溺れかけた顔を引き締めて、瀬名は部屋を出る。
 外出する前にあんずの部屋前で耳を寄せると、こほこほと苦しそうな咳が聞こえる。だが今は彼女に合わせる顔もなく、ドアノブを捻ろうとする手をためらう。
「……早く帰ってくるから、早く治しなさいよねぇ」
 ドアに向かって聞こえないように独り言。欲を手放したって、結局のところ彼女が恋しいのだ。今日は早く帰って、とびきりあんずの世話を焼こう。そう決めて瀬名は家を出た。

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