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 和泉守兼定は複雑な心境を悟られぬよう適当な相槌を続ける。女の口から出てくるのは他の男の名前。目の前にいる自分のことはまるで見えていない、そんな表情だ。
 他の男のことを考えながら嬉しそうに話す女の顔が、和泉守は心底嫌いだった。他の男のことでそんなに楽しそうに話しかけるなと本当は言ってやりたかった。だが和泉守は女の感情を一方的に切り捨てられるほど冷酷ではない。
 それに、否定するようなことを言ってしまえば女の信頼を失ってしまうだろうというのはよくわかっている。だから当たり障りのないことを言って本心を濁すのだが、和泉守はそろそろやりきれなくなってきた。女はどういうわけだか和泉守のことを愚痴や悩み事を聞いてくれる心優しい奴だと思い込んでいる。それが和泉守にとってはひどく面倒であった。
 和泉守は旧主から受け継いだ精神面のせいもあってか情に厚く、困っている者は放っておけない性格だ。正義感が強いとでも言うべきだろうか。それが心根の良さや優しさに直結している。
 しかし今の和泉守が持ち合わせているのはそんな優しさなどではない。自分でも嫌気がさすほどの、醜い感情。自分を良い奴だと評してくれる彼女にはばれてはいけない、おぞましく劣悪な気持ち。ほとほと感情というのは面倒なものだと実感させられた。肉の器を得ると尚更そう思う。人間が清いだけでは生きていけないというのが身に沁みた。
「ねえー、ちょっと聞いてるの!」
 ぼふん、と和泉守の背中にクッションがぶつけられる。勢いよく跳ね返ったクッションに顔をぶつけてむくれている女の表情は和泉守の心を荒ませた。自分にも同じように笑いかけてくれたらと何度思ったことか。
「うるせーな、聞いてるよ」
 良い奴ぶるのも難しくなってきて、ぶっきらぼうに吐き捨てる。女がこれしきの態度じゃ気落ちしたりしないことを和泉守は知っている。自分たちの間柄は主従だとかそんなものよりもどちらかというと同性同士の友に近い。だから女が不貞腐れても、ある程度は放っておいて大丈夫だ。
 男と女が友情で結ばれるなんていうのは和泉守の生きた時代では到底ありえるものではなかった。男と女は深い情愛で結ばれるもの。そういうものだと思っていた。だが女の生きている時代では男女の友情なんてものはどうやら普通であるらしく、和泉守も半ばそれを強要されている形だ。別に和泉守は女と固い友情で結ばれたいわけではない。主従という関係性を順守しているのも柄じゃない。和泉守の心には彼女を恋しいと思う感情が宿っている。
 だが目の前の女はそんな和泉守の気も知らず、別の男のことを考えてべらべらと楽しそうに惚気けてみせる。彼女の声はとても耳障りが良いのに、耳を塞ぎたくなるような話が延々と繰り返される。聞きたくないのなら聞かなければいいと思うかもしれないが、和泉守にとっては貴重な彼女とふたりだけの時間なのだ。だからこそ余計癪に障るのだが、彼女が好いた別の男の話をするのは和泉守にだけであった。
 秘密という言葉はなんて甘美な響きなのだろう。だが現実はそんなに美しいものではない。なによりも残酷で、目を逸らしたくなる。
「あ、でね。聞いて、和泉守……」
 女はなにも気づいていないような顔で他の男の話を続ける。目の前にいる切ないかんばせには気づかぬまま、嬉々と一方的に話し続ける。懇々と他の男の話を聞かされ続けた和泉守の拘束が解かれたのは、夕餉のにおいが漂ってきた頃だった。

 非番であったせいか腹も減っておらず、夕餉の芳しい香りにもあまりそそられぬまま座卓の前に座る。座る場所は綿密に決められている。主人である審神者……先ほどまで和泉守の心をかき乱すような話をしていた彼女が上座に座り、その近くに初期刀と近侍が座り、後はこの本丸に来た順番で座る。新入りに食事の仕方を覚えるのはその前に本丸へやってきた刀剣の役目だ。理に適った配置である。
 和泉守がこの本丸に降り立ったのは比較的早い時期だった。覗きこめば彼女の顔は容易に見える距離だが、会話はしようと思ってもできない距離感。和泉守はろくに食事を味わいもせずさっさと口の中にかきこんで水を飲み干す。
 いつもは楽しみな食事も、こんな気分ではまったく楽しめたものではない。きっと厨当番の燭台切や歌仙にはちゃんと味わって食べろだの、よく噛めだのと文句を言われるだろうがそんなことはどうでもよかった。さっさと風呂に入って寝てしまおうと支度をして湯殿へ向かった。
 まだ誰もいない大浴場、さっさと体と頭を洗って湯船に浸かる。ざあ、と湯船から溢れたお湯が流れていく。ゆっくりとまぶたを閉じて思い浮かぶのは審神者の笑んだ顔。なにも考えたくないはずなのにどうしてか彼女の顔が脳裏から消えない。こんなにうだうだと考えこむなんて自分らしくない。だがこればかりは旧主のようにうまくはいかない。
 和泉守の前の主、土方歳三は女に不自由したことがなく、数多の恋文を同僚に自慢していた姿もよく知っている。しかしだからといって自分もそうかと言わればもちろんそんなことはないのだ。人間の器を得て分かったことは、上手く生きることは難しいということだ。
 でかい図体でも最初のうちは箸を持つことすら出来なかったし、風呂に入る度に泡が目に入って痛い思いをした。なんであれすべては培ってきた経験が物を言う。だが和泉守が得た人間としての経験は与えられたものが大半だ。食事も労働も、あの審神者から与えられたものだ。
 しかし心の機微だけはそうではない。他者の言動によって芽生えることはあれど、己の意思で得たものとして確かに存在する。そして新たに得た感情が和泉守をほとほと困らせている。ざわざわと落ち着かない鼓動は日に日に酷くなっていく。それが特定の人物の前でだけ沸き起こるものだと気づき、その感情に恋という名前があることを知ったのはついこの間の話だ。
 恋は病のようにひっそりと和泉守の心を蝕んでいった。最初は些細なことでも喜びを感じた。彼女がただ隣にいるだけで、一言二言言葉を交わすだけで、戦働きを褒められるだけで幸せだった。だが恋という感情がそれだけでは落ち着かないことを和泉守は知らない。
 そしてやがて、和泉守は彼女の恋を知ることとなる。どうやら審神者は他の男に恋をしているらしい。つい三か月ほど前に出会った、優しさだけが取り柄のような面白みのない男審神者だ。どうしてそんな男に惚れてしまったんだか……自分の方がずっと良いに決まっている。和泉守はそれが慢心であると理解しながらも気を紛らわせるためにそう考えることにした。
「はあ……」
 顔にかかる前髪をかき揚げ、湯船の縁に頭を預ける。おそらく審神者は気づいていない、和泉守がどういう目で審神者を見ているのか。和泉守も思いの丈を口にしない。というよりもできないというのが正しいだろう。自分の惚れた女は別の男に惚れている。それを分かっていて玉砕するなんてことは和泉守の趣味じゃない。格好のつかないことはしたくない。
 自分の身の振る舞い方をどうしたものかと考えながら湯けむりに覆われた天井を眺めていると、引き戸の開いた音がして、冷たい空気が差し込む。
「おー、いたいた」
「ずいぶんひとりで湿気た顔してるなあ」
「……なんだよおめーら、揃いもそろって馬鹿にしにきたのか?」
「ふたりともあんまり兼さんをいじめないでよ」
 脱衣所から湯殿に入ってきたのは加州清光と大和守安定だった。三振りは和泉守にとっては昔なじみだ。他のどの刀剣たちよりも遠慮がない。今だって、和泉守の機嫌が悪いことを察しながらもそれを煽るかのようなことを言ってのける。
 そしてその後ろには加州と大和守をやさしく窘める堀川国広がいるが、必要以上に口を挟もうとはしない。それは、和泉守も日頃から加州と大和守をからかって遊んでいるからだ。大切な相棒のことといえどもむきになって止める必要はない
「んで、主とはいくらか進んだわけ?」
 三振りとも和泉守が審神者に恋焦がれていることは知っている。そしてその仲がいまいち進展しないことも知っている。傍から見ているととてつもなくじれったいふたりの仲を加州は特に気にかけていた。……面白がっているとも言うが。
「……別に、なにもねえよ」
 全刀剣の中で最年少ということもあり常にからかわれてきた和泉守はむすっとした顔でそう吐き捨てる。なんの行動も起こせない自分がみっともなくもあるから、なおさらひどい剣幕になる。
「もっと好きにさせるために行動しろよなー。このままじゃ他の奴に取られちゃうじゃん」
「分かってんだよ、そんなこと……」
 他の男に取られてしまったら、なんてことは毎日考えている。しかし審神者と彼女の恋した男が本当に愛し合っているのなら、自分はふたりの間を引き裂くようなことはせずひっそりと身を引く方が彼女にとって幸せなのではないかとも考えてしまう。
 審神者がその男と連絡を取り合っている時はとても幸せそうだ。その幸せを邪魔していいのか、幸福を奪ってもいいのか。自分のためではなく彼女のためを思うとなにも行動ができなくなる。虚しい考えだ。しかし悲しむのは自分だけで、彼女ではない。自分が彼女の心に立ち入ることによって彼女を困惑させたくない。
「分かってるならなんで行動しないのさ。うじうじ悩んでんのなんて和泉守らしくないじゃん」
 和泉守が黙りこくっていると、大和守がつらっとした顔で意見する。彼の言っていることは至極真っ当だ。
 口では分かっていると言いながら行動は起こさず、悩んで口をつぐむ。行動しないなんて自分らしくないのは和泉守本人が一番よく分かっている。何事にも格好よさを求めているくせに、こうも臆病になってしまうとは。我ながら情けない。しかしこれは和泉守だけの問題ではなく、相手がいる話だから慎重になってしまうのは致し方ない。
「ふたりとも、あまり煽るようなこと言っちゃだめだよ」
「もう充分煽られてるっつーの……」
 加州と大和守に押し負けている和泉守を笑いながら湯船に浸かる堀川はそう言うものの、彼の目は笑っていない。
「でも兼さん、今のままじゃ何も変わらないよ。砕けて散るか、花を咲かせるか、はっきりさせないと」
 らしくない和泉守の背中を押すように堀川はそう言い放つ。声は明るいが、どうやらはっきりしない和泉守に相当もどかしい気持ちを抱えているらしい。
「ったく……お前までそういうこと言うのかよ。知ってんだろ、あいつは……」
「うん、知ってるよ。でも行動しない兼さんなんて格好悪い。そんなことじゃ主さんは惚れてくれない」
「……言ってくれるじゃねえか」
 普段はキツイことをまったく言わない堀川の言葉に、和泉守の心にも流石に火がついた。和泉守は湯から上がって立ち上がると、三振りの方に指をさして大声を張り上げる。
「お前ら今に見てろ! 今日中に決めてやるからな!」
「おっ、言ったなー」
「ふーん。ま、楽しみにしてるよ」
「うん、兼さんその調子だよ! 頑張って!」
 和泉守の一大決心に三者三様の反応が返ってくる。そして三振りは風呂から上がって早足で脱衣場へ向かっていく和泉守の背中を見送って、各々息を吐いた。

 早々と着替え、雑に髪の毛を乾かして和泉守は想い人の部屋へと向かった。いつもならこの時間帯は部屋でくつろいでいるはずだ。思った通り彼女の部屋の明かりは灯されている。和泉守は一呼吸おいてから、障子の外から声をかけた。
「和泉守兼定だ。その……入ってもいいか?」
「……あ、い、和泉守……? ちょ、ちょっと待ってね……」
 神妙な声で彼女に呼びかけて、返ってきた言葉と声音に和泉守は違和感を覚えた。いつも元気な、少なくとも先ほど夕餉の時間まで元気だった彼女の声に覇気がない。それに若干鼻声のようにも思える。彼女の身になにがあったのか、焦燥感に駆られながらも和泉守は彼女が障子を開けてくれるのを待つ。
 何度か物音がして、それから障子は開けられた。出迎えてくれたのは目を赤く腫らした元気のない主の姿だった。いつも通りのにこやかな笑顔もどこか痛々しい。そんな彼女の姿に、声が出なかった。しかし訪ねたのは自分であるのだから、後退するわけにもいかず和泉守は審神者の部屋へと入り、後ろ手で障子を閉める。定位置に座る主に、潜めた声で問いかけた。自分の用事のことなど、すっかり頭から吹き飛んでいた。
「おい、どうしたんだよ」
「ど、どうしたって何が……。そ、それより和泉守はわたしに用があったんでしょ?」
「オレの用事は今はいい。その目……さっきまで泣いてただろ。何があった。オレには話せないようなことか?」
 そうは問いかけるも、審神者に嫌なことは無理強いできない。彼女の視線は俯いたままで、和泉守の顔を見ようとはしない。しばらく待ってみても何も言わないのであれば埒があかない。和泉守が出直そうと片膝を立てたその時、審神者はぽつりと呟いた。
「……付き合ってる人がいるんだって、あの人」
 あの人、とは審神者の想い人のことだろう。和泉守は座り直して審神者の次の言葉を待つ。彼女の声音は涙混じりで震えているが、続きを話そうと声を絞り出す。
「わたし、なにも言えなかった。勝手に振られて、ぜんぶ終わっちゃった……」
 和泉守は審神者がその男をどれほど好きだったか、どれだけ入れ込んでいたかずっと間近で見てきた。だからこそ彼女の心の痛みが自分にも伝わってきて、胸が締めつけられた。気がつけば泣きじゃくる彼女の体を抱きとめ、己の胸を貸していた。自分にできることといえばそれぐらいしかない。ゆっくりと彼女の背中を擦り、彼女の涙を受け止めた。
 やがて審神者は落ち着きを取り戻したのか、和泉守から離れ、涙で顔に張り付いた髪の毛を整え、枯れた目元で力なくほほ笑んだ。
「……ありがとう、ちょっと落ち着いた……」
「そうかよ」
「駄目な主でごめんね……審神者失格だなあ……」
 自嘲気味に審神者は笑うが、やはり元気はない。そんな彼女をどうにかして励ましたいと和泉守は思った。掛ける言葉を必死に探すが、女を慰めたことなど一度もない和泉守には気の利いた言い回しも思い浮かばない。彼女を笑わせるような一言も思いつかない。それなのに気がつけば勝手に口が動いていた。考える間もなく、和泉守の口から発せられた言葉は、彼の本心そのものだった。
「あんたに気づかねえ鈍感な奴も大概だが、あんたも大概だ。目の前にこんな良い男がいるのに、気づかねえなんてよ」
 ぽかんと口を開けた審神者の両肩を力強く掴み、和泉守は勢いのままに続ける。
「オレは、あんたが好きだ」
 しんと静まり返る。最初から音が存在しなかった世界であるかのように。ぬくもりのある灯りだけが頼りのこの部屋で、男女がふたり。沈黙のまま見つめ合っている。
 返答のない審神者に焦った和泉守はあくせくした様子で言葉を続ける。
「何か言えよ! ……恥ずかしいだろうが」
「えっ、あ、ご、ごめん……!」
 羞恥のあまり八つ当たりだ。和泉守がしまったと思ったのは、彼女への慰めと告白を言い切った後だ。どっと嫌な汗が吹き出た。風呂から上がったばかりなのにこれでは意味がないではないか。しかも傷心中の彼女に対してこの言葉が正しいのか逆効果なのかまったくわからない。審神者はただただ驚いている様子で、目をまんまるに見開いている。
 顔が燃えるように熱い。愛を伝えるというのはこんなにも精神を消耗するのだと初めて思った。ずっと掴んでいた審神者の両肩から手を離し、赤らんだ顔を隠すように横を向いて彼女の様子を伺う。
 彼女は少々困っているようだが、その頬は和泉守と同様赤く染まっている。呆然としていた彼女は和泉守の視線に気づいたのか、はっとしてぎこちなく笑った。
「あの……和泉守がそんな風にわたしのことを思ってくれてるなんて思わなくて……正直すごくびっくりしてる。でもやっぱり頭が混乱してて、その……返事は、今は考えられない……」
「……返事なんざいつでも良い。今日はとにかくゆっくり休め」
 和泉守が頭を軽く撫でると、審神者は無言でただ首を縦に振る。それ以外に特に掛ける言葉も見当たらず、和泉守はおとなしく自室へと戻った。自室には風呂から上がって寛いでいる加州と大和守、堀川がいる。三振りとは同室であるため、あまり心休まる場所ではないがここに戻ってくる他ないのだ。何も言わず既に敷いてあった布団に雪崩込むと、三振りは興味津々に和泉守へ近寄ってくる。
「か、兼さん、大丈夫?」
「振られた? 振られた?」
「こら安定」
 和泉守は枕に顔を埋めたまま深くため息を吐く。三振りの声を聞いていると今まで張っていた気持ちが一気に緩んだ。うるさくもあるが落ち着きもする。
「なんかよく分からねえ……断られたわけじゃねえけど」
「でもちゃんと言えたんだね。偉いよ、兼さん!」
「そーそ、ちゃんと言えただけいいじゃん」
「頑張った、頑張った」
 三振りは各々和泉守を励ますような言葉を投げかける。からかいもせず、思ったよりも暖かい仲間たちの言葉に胸が熱くなる。そしてなんだか顔をあげることが恥ずかしくなってしまって、くぐもった声で寝る、とだけ三振りに伝えた。それから照明が消えると、やけに頭が回る。寝ると言ったはいいものの、眠くなる気配が一切なく、瞳はおかしいぐらいに冴えている。夜戦帰りに眠れないことはよくあるが、それとはどうも種類が違う。
 思い起こすのは、彼女のぬくもりと表情。それが体に、脳裏に染みついて忘れられない。あんな姿は今まで見たことがなかった。戦で刀剣たちが怪我を負っても泣かず、気丈に労をねぎらうあの彼女がたったひとりの男のことであんなにも涙を流すのだ。ああいう弱いところもある。あれが女なのだと思い知らされた。しかしそんなところも含めて好きになったのだ。ますます彼女のことが愛おしいと思えた。彼女のことを考えれば考えるほど、目が冴えてくる。寝返りをうつと、今度は月の輝きが気になって眠れやしない。和泉守にとって最も長い夜となりそうであった。


 和泉守が恋心を告げてからはや二週間が経とうしていた。返事はまだ貰えず、和泉守は胸にわだかまりを抱えたままむず痒い日々を過ごしていた。
 審神者と話はしている。他愛のない日常の話はあの日以前となんら変わりない。自分は変わらず彼女の傍に居て良いのだと安心したが、それと同時にもしやあの話は彼女の中ではなかったことにされているのではないかとの不安もよぎった。彼女が他者の思いを無下にするような性格でないことは分かっているが、こう二週間も返事を放っておかれると色んな意味で胸が痛い。おかげであの日からなかなか寝付けなくなってしまった。夜になるとどうも彼女のあの日の表情を思い出してしまうのだ。
 だがもし彼女が悩んでいるのだとすればそれを急かしたくはない。やはり黙って待つしかないのだ。男には忍耐も必要だ。そう言い聞かせながら和泉守は不変の日々を過ごしていた。
 そんな和泉守の気分を転換させるのはやはり刀としての自分を全うすることであった。刀を握っている時、敵と対峙している時は少しだけ彼女のことを忘れることができる。しかし毎日戦場に赴くことは適わないため、もっぱら本丸に隣接された道場で多くの刀剣と手合わせで鬱蒼とした気分を紛らわせていた。そうすることでごちゃごちゃとした気持ちが汗と共に流れていくような気がするのだ。今日も、そうしていた。
 しかし必ずしも毎日が同じとは限らない。今日は、手合わせを終えた和泉守の元に審神者がやってきたのだ。いつも通りの、あの涙を感じさせないはつらつとした表情で、和泉守に笑いかける。
「和泉守、その……ちょっといいかな?」
「お、おう」
 照れくさそうに笑う審神者の後を付いていくと、縁側に座っているようにと言われた。審神者の自室前の庭では桜の木が植えられている。風にそよいで散る花びらがまるで自分の恋心であるかのようにも思えて、和泉守は内心自嘲気味に笑った。こんな風流人のようなことを思うのはきっと旧主の影響だろう。
 急須と湯呑を持ってきた審神者は和泉守の隣に腰をおろし、湯呑みにお茶を注いで和泉守に差し出す。喉の渇いていた手合わせ終わりには丁度良い。しかし呼び出されたのには理由があるはずだ。和泉守にはそちらの方が気になって仕方がない。お茶を一息に飲み、審神者の方へ顔を向ける。話し出す気配はなく、硬い面持ちで湯呑みを傾けている彼女を急かすことは出来ない。
「…………あの、この間のことなんだけど」
 桜を眺めて審神者が口を開くのを待っていると、突然小さな声でぽつりと呟いた。和泉守は動揺を隠すように呼応すると、審神者はどこかぎこちないまま言葉を連ねていく。
「あの人のことを忘れられるわけじゃないんだけど、でもいつまでも後ろ向きでいるわけにはいかないと思う。前を向かなきゃっていうのも分かってる」
「……」
 悩んでいるのだろう、と和泉守は思った。好いた男のことは未だ忘れられてはいないが、目の前に自分のことを好きだという男が現れて心が揺れているといったところか。自分の行いのせいで審神者を余計に悩ませている気もしたが、審神者の気持ちがかなりこちらに向いているのだと分かって正直なところ安堵していた。
「前の男なんかオレで忘れちまえ。オレに惚れてくれんのは、後で良い」
 どこの誰とも知らぬ男のことを思って泣く彼女よりも、笑う彼女が見たい。和泉守は審神者の両手をとり、こちらに振り向かせて宣言する。真摯な眼差しに、審神者は合った目を逸し、顔を赤らめながら下唇を噛む。
「そういうこと言われると和泉守に甘えちゃうからだめなの……」
「甘えりゃいいじゃねえか。好いた女に甘えられるのは嫌なことじゃねえ。むしろ好ましい」
「でも……」
 飄々とした態度でそう口説かれると、審神者は目に涙を溜めてなにか思うところがあるような、迷っているような陰りのある表情を見せる。ふたりの男の間で揺れる審神者の心の中でまだなにか引っかかっていることがあるように思える。
 恐らく、これは和泉守の勘でもあるが、すぐ別の男になびく自分というのに審神者は抵抗があり、受け入れがたいのだろう。すぐと言ってももう二週間経つ。自身に好意を向けている者のことが気になるのは至極当然のことで、懊悩するほど和泉守が気になっている。そんな健気で思慮深い考え方をする彼女のことがますます愛おしくなるが、その気持ちをおさえて彼女に掛ける言葉を模索する。
「あんたは何も気にしなくていい。黙ってオレに愛されときゃいいんだよ」
 そう言うと和泉守は彼女の手を放し、飛び込んで来いと言わんばかりに大手を広げる。審神者が抱きしめられに来た場合に限り、和泉守の恋は成就したことになる。しかしそれを拒まれた場合は和泉守は潔く散るしかない。
 お互い見つめ合ってしばらく黙り込んでいると、審神者は一筋の涙をこぼし、「ありがとう」とたどたどしく、そして曇りのない笑顔でほほ笑み、和泉守の懐に飛び込んできた。彼女の香りが、柔らかさが、直に感じられる。和泉守は胸をなでおろして彼女を支えるよう背中に手を回し、頭を優しくなでつける。
「オレに惚れて離れられないようにしてやるから、覚悟しておけよ?」
「うん……覚悟しておくね」
 抱きしめられたまま和泉守の口説き文句にへにゃりと笑う彼女が愛らしくて、和泉守はますます彼女に惚れ込んでしまう。自分ばかり好きになるのがなんだか悔しくて、審神者を強く抱きしめると、けらけらと明るい笑い声が返ってくる。やはり惚れた女には勝てないと色んな感情の入り混じったため息を吐いてから、審神者と一緒になって笑う。ふたりの恋はまだまだ始まったばかりだ。

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