陽に当てられてきらきら輝く小瓶を眺めながら、あんずは似つかわしくないため息をついた。宝石のようなひし形を模した小瓶を揺らすと、中に込められたマリーゴールドのような色の液体がなだらかな波を作る。おそるおそる小瓶の蓋をとると、鮮やかな花を彷彿とさせる芳しい香りが鼻孔をくすぐった。
あんずの質素な部屋に似合わない、可憐な香水の小瓶。ただ漠然といい香りだと思ってぼうっとしていたら店員に話しかけられ、あれよあれよという間にあんずは会計を済ませていた。どこか浮ついた、落ち着きのないまま家に帰ってきて、自室で香水の小瓶を眺めていると、だんだん冷静になってきて、初めての香水にあんずは次第に深刻な顔つきになっていく。自分には香水をつけて出掛ける場所なんてない。学校につけていくのはあまり気が進まないし、だからといって最近は休日も仕事の用事が多いので、あまり浮ついているようにも見られたくない。
それなのに買ってしまったのは、この香りに引き寄せられたからに他ならない。実はこの香水、初めて嗅いだ気がしなかった。どこかで日常的に香っていたような気もするし、それにしては不思議とどきどきしてしまうような雰囲気もある。匂いをかいでは頭を悩ませ、うーんとしばらく唸っていると、ふと香水の入っていた箱に目がいく。……ユニセックス、男女兼用。そしてその下に香水のブランド名。どこかで見た覚えのある文字の羅列。化粧っ気のないあんずですら見たことのあるブランド名なら、仕事の絡みしか考えられない。
仕事の資料をひっくり返して紙をめくっていると、ひとつの企画が目に留まる。雑誌の撮影。香水のマーケティングも兼ねたグラビアだ。その雑誌はすでに発刊されており、あんずは部屋に詰まれた女性ファッション誌を漁って該当のページを発見する。そこに写る彼を見て、あんずは思わず硬直する。自分が買ったばかりの香水とまったく同じ小瓶に頬を寄せ、グラビア慣れした笑みを浮かべたブロンドヘアの彼。隣には何年も前から愛用してます、との見出し。ああそうだ、そういえばこの企画は彼が他の雑誌で愛用のアイテムを紹介するコーナーでこの香水を紹介し、そこから発展して立ち上がった企画だった、とあんずは思い出す。
そして、彼の愛用している香水とまったく同じ物を買ってしまったという事実に顔がみるみるうちに熱くなる。この香りに引き寄せられたのは完全に無意識だった。どこかで嗅いだことのある匂いだと考えている最中に店員に話しかけられ、考えるどころではないまま買ってしまい、冷静になった今ようやく分かって、あんずは再び冷静さを失いそうだ。わけもなく香水の小瓶から距離をとって、じっと見つめる。気がついてしまったら、彼の顔が浮かんで頭の中から消えやしない。
ますます香りをまとうことをためらってしまう。確かに彼は会う度にいい香りを振りまいていた。それは決してきつくもなく、近づいた時にだけ仄かに香るような、そんなささいなもの。ダンスレッスンの後に笑顔でタオルを受け取る彼の香りをあんずは確かに覚えている。そんな汗っぽさの中にも印象的に残る香りの記憶と目の前の香水は完全に一致する。そして周囲から鈍いと言われるあんずですらあっという間に自覚してしまう。うそだと思い込みたくても、香りがそうさせてくれない。誰にも追いつめられてなんかいないのに、逃げ場を封じられたかのように、思考の選択肢はたったひとつだけ。
「どうしよう……"お姉ちゃん"の香りなんて……」
彼はそう、兄というよりは自称の通り姉御肌、という言葉が似合う、異性だけれども気のいい女友だちのようなひとだ。誰にも分け隔てなく優しく、あんずもその優しさに幾度となく助けられた。モデル出身で芸歴もそこそこだが、へたに性格を着飾るようなタイプでもない。しかし時としてミステリアスな瞬間を垣間見ることもあり、あんずは彼をお姉ちゃんと呼び慕いながらも、漠然とこのひとのことを何も知らないと感じることもあった。
なのに、これではどうだろう。まるで彼に恋をしているようではないか。匂いを無意識的に覚え、好きだと感じ、挙げ句の果てには手元にある。光に反射してきらきらと瞬く香水瓶をまともに見ることができない。お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだから、と自分自身に言い聞かせても、試しに香らせてみた香水のせいで頭も胸もは彼のことでいっぱいになってしまう。
開きっぱなしになったファッション誌をちらり、もう一度見やると、やっぱり香水は同じものだ。爽やかなのに甘い花の香りを侍らせる、いつでも優しい大好きなお姉ちゃん。だが姉のように思いつつも、男のひととして意識するようになってしまった自分がいることに、あんずはとうとう気づいてしまった。認めたくない好きの二文字が頭の中で反響する。
やけになってベッドの上に香水を振りかけ、勢いよく飛び込む。空気中の香りに包まれて、まるであの暖かな腕の中にいるよう。いつもはすぐに瞳が微睡むベッドの上。今日は香りに目が冴えて、まったく眠気がやってこなかった。
香水を買ってから二週間が経った。実際、香りをまとったのは買ったあの日、自分の部屋でだけだった。小瓶は部屋のオブジェと化しており、きらきら輝くマリーゴールドの色があんずの心を奪う。
だが香水をつけるわけにはいかない。学校には彼がいる。クラスは違うが、教室は近く、廊下ですれ違うことも珍しくない。レッスンの日は一緒に練習室まで行くことも多々ある。つまり会わない日はない。
今日だって、彼の所属するユニットのダンスレッスンが今まさに行われている。汗でしっとりとした肌、見られていることに気づくと恥ずかしいと苦笑いする真剣な眼差し、リズムを刻む体の微細な動き、一挙一動すべてに目を奪われてしまいそうになる。……なんて、まるで恋する乙女。香水を買ってからの自覚することの多さに、あんずは己のことながらほとほと呆れる。またそれと同時に自覚しないほうが幸せだったのでは、とすら思う。プロデューサーとして持て余す恋心。行く宛のない感情はどう処理したらいいのだろう。
深刻に考えると暗い気持ちになるからやめようと頭の中の雑念を取り払っていると、急に、悪霊が取り憑いたかのように左肩がずしりと重たくなった。
「あんず~、疲れた」
「……凛月くん、サボってたら後から来る瀬名先輩に怒られるよ?」
朔間凛月はあんずの肩に顔を埋めて休憩するかのように静かに呼吸をする。とはいっても、口でいうほど疲れているようには思えず、あんずは振り返って凛月の力の抜けたからだを起こそうとする。
それが面白くなかったのか、凛月は気怠い声で口先を尖らせる。
「え~あんずだってサボってるじゃん」
「え?」
「ナッちゃんばっかり見てさぁ、そういうのよくないな~」
どうしてそこで彼の名前が出てくるのか。あんずは思わず動揺してしゃきりと背筋を正す。なんとも分かりやすいあんずの反応を見て、凛月はにやにやとゆるんだ頬を隠そうともせず年下をからかう。つい忘れがちだが、凛月はあんずよりもひとつ年上で、少し大人びた考え方をすることもあれば、心境を見透かされることもある。
ナッちゃん、と凛月が呼んだのはあんずが惹かれる香りの彼。Knightsの鳴上嵐。全身鏡の前で音楽に合わせて振り付けの細部まで調整しているその横顔に声がうわずりながらも、あんずは小声で否定する。彼を見ていたのは事実だが、あらぬ誤解を受けるわけにはいかない。
「そ、そんなことないから…!」
あんずが否定しても、凛月は面白いおもちゃを見つけた悪童のようににやけた表情をやめない。口をつぐむあんずに対して嘘はよくないだとか、おれに隠し事するのかだとか、もっともらしいことを言ってあんずの口を割ろうとする。
そんなまるで普通の高校生のような小競り合いをしていると、急にぶつん、と音楽が止まって、靴音があんずたちの方に近づき、影をおろす。
「んもう、ふたりで何コソコソ話してるのよぉ! まじめに練習してるアタシがばかみたいじゃなぁい?」
男にしては甲高い声が耳をつく。爽やかな香りの中に溶け込む仄かな汗の匂いにはっとして、そして固まる。嵐の到来にすぐには反応できず、あんずがおぼついている間に凛月はさらにだらけるようにあんずの腰に抱きつく。
「え~? せっかくナッちゃんの話してたのに」
「えっ、ちょ、凛月くん…!」
あんずは思わず慌ててしまった。拙ったと思い、平静の表情を作り上げるも感情が追いつかず、抱きついている凛月の背中を軽く叩き、反抗した。だが凛月は微動だにせず、あんずを無視して嵐の出方を伺っているというふうだ。
「まぁ! アタシがかわいいって話ならもっと大きな声で話してくれてもいいのよ? ほら、しのごの言わずに立ち上がってちょうだい」
慌てふためくあんずを気にすることなく、嵐はいつもの調子で受け答えをする。ただそれは、やけにあんずのことを構わないようにしているようにも思えた。
ふたり、とは言うが嵐の視線は凛月に向いている。嵐の視界にはきっとあんずは入っていない。目線の違和感に気づいてしまったあんずは何も言うことができず、黙り込んでしまう。
次のライブも近い。本来ならプロデューサーの自分が諌めなければいけない立場なのに。嵐はそのことに怒っているのだろうか。彼はあんずよりも感覚的にずっと大人びている。自分の思っていることは伝えつつも、怒りを感情の起伏が激しいままぶつけたりするようなことはしない。
だからふたりに話しかけているように見せかけて、あんずの方を見ないのは嵐なりに怒っているということなのだろうか。自分なりに考えて、なんだか気まずい結論に至ってしまったあんずは嵐に目を向けることができないまま凛月を引き剥がそうとする。
「ふぁ~い。ナッちゃんが怒ったらセッちゃんより怖いし、やるかぁ」
凛月は立ち上がり、レッスンへと戻っていく。それから用事があって少し遅れてきた司と、レオを捕まえて引っ張ってきた泉が合流して、あっという間にレッスンの時間は過ぎていった。
あんずは先ほど凛月から指摘されたことを繰り返さないよう、嵐から目を背けた。無意識でいると嵐を見続けてしまいそうになる。あの香りに気がつかなければ、こんな思いには気づかなかったのに。やり場のないもやもやを抱えながら、あんずはいつも通りの自分を演じ続けた。
「そういえばナルくん、明日雑誌の撮影だよね?」
「そうなのよ~! この間の特集の反応がよかったみたいなの。まあ、放課後には戻ってくるから大丈夫よ」
レッスン終了後、泉は汗拭きながら嵐に話を振る。聞き耳を立てていたわけではないが、あんずもしっかりと話を聞いていた。明日、嵐は雑誌の取材で休むらしい。この学院ではもちろんよくあることで、教室の席に穴があることは頻繁に目にする風景だ。
聞く限りでは放課後には戻ってくるようだが、明日はKnightsのプロデュースが入っていないため、あんずには直接関係のない。なんとなく記憶しておこう、そんな程度だった。
すべての作業を終えて家に帰り、食事をして、お風呂に入って、やっと寝るというところで、月の光にあてられた香水の小瓶が目にはいってしまった。……学校に嵐がいないのなら香水をつけてもバレないのではないか。ふと脳裏の浮かぶ邪な考え。自分は一体なにを考えてしまっているのだろう。どうしてこんなに浮かれた気持ちになってしまっているのか分からず、ベッドにもぐる。どくどくとせわしない心臓の音がやむことなくうるさい。
寝転がったまま、ベッドから手の届く距離にある香水の小瓶を手にとる。ユニセックスでありながらかわいらしさが勝る瓶の装飾、彼が選ぶのも頷ける。チープでも子どもっぽくない、かといって大人くさくもなく、澄み切った清廉な香り。静やかな部屋に一吹きすると、ふわりと香りが舞った。まるで彼そのものが今在るかのようで、やはりどうにかなってしまいそうな気にすらさせられる。
深呼吸をして、自分の気持ちを落ち着かせる。このぐらいの距離感がちょうどいい。彼の馨香にひとり酔って、深閑な恋にひとり没頭する。外に出てしまえばプロデューサーとしてしっかりしなければならないが、この空間ではどこにでもいる、ひとりの少女になったって誰にも気づかれない。
そのまま眠ってしまって次の日。あんずはやはり香水をつけて外に出ることはできなかった。あの香りは、自分だけの秘密に留めておこう。夢ノ咲学院唯一のプロデュース科生徒であるあんずであるためには、個人の少女性を持ち込んではならない。
……とはいえそんな簡単に踏ん切りがつくわけではなく、頭の中ではきっぱり割り切りたい自分と、ふたつの気持ちを大事にしたい自分が格闘している。平静を装っても心境はぐちゃぐちゃだ。気づいてしまった自分が悪い。無意識に香水に手をのばした自分がいけなかった。あの香水さえなければ、恋する気持ちをこんなに拒絶しなくとも済んだかもしれないのに。
まとまらない思考を張り巡らせていると、あっという間に陽が傾いて、もう放課後。今日は針仕事の日と決めていたが、どうにも進まない。きっと考えごとをしているせいだろう。だが針をおいて休むわけにもいかず、手縫いが必要な細部に糸を通していく。
「……っ! いった……」
集中していないとこうなることは分かっていたのに。布に針を通さなければいけないところ、あんずは自分の指に針を刺してしまった。玉のような血液が指先で膨らむ。
布に血が垂れないように気をつけながら、ゆっくりと針を指から抜き取り、怪我をしていない反対側の手でカバンの中から絆創膏を探す。色んなものを雑多に放り込んでいるせいか、なかなか絆創膏の入ったポーチが見つからない。痛みとは目で捉えた途端痛くなるもので、じわじわとこみ上げる緩やかな痛みがあんずを焦らせる。
「はぁ……どこに入れたんだろう……」
「あら、ちょうどよかったわ。あんずちゃん」
「あ、……お姉ちゃん…?!」
教室の入口を方を向くと、鳴上嵐がそこにはいた。仕事が終わったから学院に来たのだろうか。私服姿の嵐はあんずに駆け寄り、指を見た瞬間に血相を変えて短い悲鳴をあげる。
「大変! 絆創膏は持ってるの?!」
「あ、うん……入ってるはずなんだけど……見つからなくて」
「それならアタシのをあげるわ。ちょっと待って」
嵐は肩にかけていたカバンの中を探り、かわいらしいハート柄の絆創膏を取り出す。テキパキとフィルムを剥がすと、あんずの指にそっと絆創膏を巻きつける。
「ありがとう、お姉ちゃん」
やはり彼は優しい。だがそれは万人に向けられるものだと知っているから、あんずの心は針を刺したように痛む。
「もう~アタシが立ち寄ってよかったわぁ! あんずちゃんが針仕事で怪我なんて珍しいじゃない。なにか考えごとでもしていたのかしら?」
「う、うん……ちょっと……」
まさかそういう当の本人のことを考えていたとはとても言えず、あんずは指先をさすりながら言葉をにごす。自分の気持ちを探られるわけにはいかない。それなのにあからさまな態度をとってしまって、分かりやすいにもほどがある。あんずは己の態度を悔いながら、怪我の言い訳を考える。普段は沈黙など生まれないぐらいスムーズに会話が進むから、沈黙が異様に不自然で、長く感じてしまう。
嵐は話し好きで、あんずもそんな嵐の前だと口数が増える。喋る時はお互い、顔と目を見て話せたはずなのに。今のあんずにはそれができそうにない。外から聞こえてくる、部活動に励む青年たちの声がやけに大きく聞こえた。
あんずのぱっとしない態度を不安に思ったのか、嵐はいつもの調子であんずの顔を覗き込み、いたって心配そうな顔で、眉根を寄せる。
「あ、そう! そういえば、お姉ちゃんさっき、ちょうどよかったって……」
「え? ああ、そうね。あんずちゃんの怪我に驚いて忘れちゃっていたわぁ」
なんとか話題をそらすことに成功しただろうか。あんずは嵐の顔色を伺い、動向を探る。彼はひとの機微に敏感だから、完全にごまかせたとは思えない。だが彼は優しいひとだから、隠しごとに遠慮なく踏み込みはしない。
嵐は自分の用事を思い出して再びカバンの中から何かを探し、あんずの目の前にある机に置いた。それはあんずにとってよく見たことのある、マリーゴールドの色した液体が封じ込められている小瓶。まだケースに入ったままのそれにはきれいにリボンまでつけられていて……まるでプレゼントのような、嵐の香りがする香水。
「あんずちゃんにプレゼントよ。取材の時に使ったの」
穏やかにほほ笑む嵐とは対象に、あんずの頭は血の気が引いていった。嬉しい、ありがとうと言えればどれほど楽だっただろう。言葉が喉元でつかえて出てこない。あんずが驚いた眼でいると、嵐はリボンをほどいて香水を手にとる。
「せっかくだから、つけてもいい?」
「えっ、あ…ちょ、ちょっと待って…! それ、お姉ちゃんと一緒の香水じゃ……」
反射的にからだをそらしてしまう。まるで拒絶しているようで、これはバツが悪い。あんずがしまったと思い、おそるおそる嵐を見上げてみると、笑顔にもかかわらずどこか圧力のあるような、ふだんは感じられない緊張感がそこにはあった。いつもの穏やかできれいな笑顔と違う冷え切った表情。
心が逃げたがっている。嵐の香りをかいでしまえば、彼に片思いをしているただひとりの少女になってしまう。彼の前ではプロデューサーでいなければならないという葛藤があんずを襲う。
そんなあんずのためらいを知らぬ嵐は、あんずの目の前の机に手をおき、見下ろすようにして距離を詰める。
「あら、そんなにアタシと一緒の香りはイヤかしら」
「そ、そうじゃなくて」
「……他の男のにおいは気にならないのに、アタシのことは拒むのね」
いつもよりワントーン落ちた、どこかさみしげな声色。嵐の儚げな表情に、教室に差し込む夕日が陰をさす。こんなにも物憂い気な顔をする嵐は今までに見たことがなく、あんずはますます動揺する。アイドルに似つかわしくない、陰るアメジスト。嵐を悲しませたいわけではなかった。だがあんずは自分のプロデューサーという立場を守るために嵐を拒んでしまった。傷つく嵐の姿を目の当たりにして、あんずは胸が締めつけられる。
そして、彼のこんな傷ついた姿を見るぐらいなら……もう自分が玉砕してしまったほうがすっきりするのではないか、そう考えついた。
「……お姉ちゃんのことは大好きだよ。でも、私の好きは、お姉ちゃんが私のことを好きでいてくれる気持ちとは違うから……。だから、その香水はつけられないの……。プロデューサーであることを、忘れちゃう。おかしくなっちゃうから……」
嵐の顔をしっかりと見ながら、ありったけの思いを一息に吐き出した。途中涙混じりになった声をごまかすように飲み込んで、陰鬱な自分の気持ちを跳ね飛ばすようにあんずはにこりとほほ笑む。
「ごめんね、変なこと言って」
香水はお姉ちゃんが使ってね、と付け加えてあんずは嵐の傍から離れようとイスから立ち上がる。自分勝手にたった今完結した恋心に涙が溢れてしまいそうだ。絆創膏を巻いた指先が、心境と連動してやけに痛むような気がした。
「待って」
「っ、ごめん……」
「あんずちゃん!」
目の前から去ろうとするあんずの手首を咄嗟に力強く掴んだ。いくら淑やかな振る舞いをしようとも、嵐は男で、あんずでは到底振りほどけないほどの腕力がある。大好きだと言ってくれるひとりきりの恋心を、自分のことを思って潤む瞳を、嵐が見逃すはずなかった。
手首を掴んだまま、香りを抱き込んだ胸板にあんずの小さなからだをすっぽりと半ば強引に引き寄せ、きつく抱きしめる。
「そんなこと聞いて、逃してあげられるはずないじゃない」
「お姉ちゃん……」
嵐の声がいつもの優しい調子に戻った。それはまるで安堵しているようでもあって、あんずは逃れられない胸の中で黙って嵐の言葉を聞く。
「アタシもあなたと同じ気持ちよ。でもね、アタシはあなたから他の子のにおいがするのが許せなくて……だからこの香水をあなたにつけてほしかったのよ」
言わばそれは嫉妬の感情。嵐自身も自分らしくないと思うのだろうか、調子が狂ったと言わんばかりに俯いてしまう。
「……私、そんなに他のひとのにおいしてた?」
「してたわよぉ……」
「ご、ごめんなさい」
悪気がなくとも、なんとなく謝ってしまう。さっきまでまともに見れなかった嵐の顔を覗き込むと、若干頬の赤らんだ嵐に、さっきよりもきつく抱きしめられる。頭まで抱えられ、視界を遮断されてしまい、嵐の表情もすぐに見えなくなってしまった。
彼の服から、肌から、強く彼の香りを感じる。香水と彼本来のぬくもりが混じった甘い馨香にどきどきと心臓が高鳴り、いてもたってもいられない。
「ひゃっ……!」
「ごめんなさいねぇ。ちょっと、緩んだ顔は見せられないわ」
香りが移ってしまいそうなほど長く抱きしめられていると、嵐の腰ポケットの辺りからけたたましく着信音が鳴る。あんずを抱きしめたまま器用にポケットから携帯を出し、画面見つめる。
「あらやだ、泉ちゃんからだわ」
思わぬ名前の登場に、あんずは嵐から離れる。嵐はすっかりいつもの穏やかで整った顔立ちに戻り、いたって冷静に電話に出た。
「……名残惜しいけど、レッスンに顔出さなきゃ」
「う、うん。早く行ったほうがいいと思う……」
電話でまだ来ないのかと怒鳴っていた泉の声はあんずにも聞こえるほどだった。嵐は肩からおろしていたカバンを再び背負い、それから机に置かれたままの香水をあんずに手渡す。
「受け取ってくれる?」
「……うん。ありがとう、お姉ちゃん」
「ウフフ、お姉ちゃん呼びは卒業しなきゃね。レッスンが終わったら一緒に帰りましょう。それまでに、嵐って呼ぶ練習しているのよ?」
「えっ、あ、いきなりそれは難しいよ…!」
あんずの慌てた顔にいたずらっぽく笑み、嵐は踵を返す。
夕日にあたってきらめく香水の小瓶はあんずの手のひらにおさまる。同じだけれど、まったく違う香水が部屋に並ぶと思うと今から落ち着かない。
飾るように小瓶を机の角に置き、再び腰をおろす。その瞬間、ふわりと彼の香りが舞ったような気がして気恥ずかしい、けれども心の底から嬉しい。そう思える幸せの香りに、あんずの胸はいっぱいだった。
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