午後八時、あんずは手持ちの洋服をベッドの上にひろげてかれこれ一時間ほどにらみ合いをしている。去年買ったピンクのブラウス、袖がレースになった白のスウェットシャツ。今年買ったネイビーのマニッシュなパーカー、水族館で買ったお気に入りのTシャツ。いつ買ったのか覚えていないピンクベージュのプリーツスカート、花柄のフレアスカート、スキニージーンズ。それから靴はカバンはどうしようか。時計も靴下も見られるかもしれない。まだお風呂も入っていないのにちっとも決められない。明日は土曜日、午前中から映画を見に行って、その後はランチを共にする。あんずをここまで悩ませているのは、その相手のせいだった。
遡ること一週間前。まるであんずの予定が空いているのを見計らったように映画に誘われた。彼の尊敬する朔間零と日々樹渉が夢ノ咲学院を卒業後、ダブル主演を務めるミステリーだ。あんずも彼らが映画をやることは知っていたし、必ず観に行かなければとは思っていたが、新学期でなんだかんだ忙しく映画館に足を運べずにいた。だから誘われて、喜んで、あんずは深く考えずに快諾した。しかしよくよく思い直してみると、同級生男子とふたりきり、ほとんどプライベートの状態で、映画を見に行く。これを世間一般的にはなんて言うか。あんずひとりでは考えられなくなって、三日前に弟に聞いた。それってデートじゃないの。とごくごく他人事のような返答が返ってきて、あんずは顔を赤くした。自分にもそんな意識があったからそうやって聞いたのだが、やはりこれは「そういうこと」なのか。彼は「そう」とは言っていなかったけれど、彼の喋ることは一年の付き合いだけでは底が知れない。
態度や表情で分かり得ることはあるが、彼の口先だけはどうにも掴めない。だがいつものからかい好きな彼だったら、デートしようなんて誘われ方もあり得ると思う。断られると思ったのだろうか。
「……断るはずないのにね」
服を見下げながらそう呟く。部屋の外からお風呂が空いたという母親の声が聞こえる。あんずはコーディネートをしぼれないまま、部屋を出ていった。
春らしいくすんだラベンダーのとろみあるブラウスにはバックリボンがついている。膝丈の白のスカートの裾にあしらわれたレースがかわいらしい。いつも学校に履いていくパンプスとは違う三センチヒールを履いて、待ち合わせ場所についた。夢ノ咲からすこし離れた街にあるショッピングモールの映画館。結局服装はお風呂から上がった後に慌てておしゃれ好きで一緒に買い物に行ったこともある鳴上嵐を頼った。本当の姉かのように頼りになる嵐はあんずの所持している洋服をてきぱきと見定めてくれた。その時間ものの十五分。あんずが散々悩んでしまうのがばからしくなってしまうくらい、すんなりと決めてもらった服装は今までの格好と雰囲気が異なりすぎて、待ち合わせ場所に立っているだけでそわそわする。
「お待たセ、あんずちゃん」
後方から声をかけられて、あんずは振り向く。黒のキャップに特徴的な赤い髪をすっぽり隠し、メガネとマスクをつけた姿の逆先夏目がにこりとほほ笑んで立っていた。声をかけられなければ待ち合わせの相手だと分からないほど徹底した変装で、あんずは上から下まで一瞥して驚きの声をもらした。キャップに服装を合わせているせいか、いつもより大人くさくないカジュアルな雰囲気だ。
「珍しいね、変装」
「映画を観に来るのは兄さんたちのファンが多いだろうしね」
隣街といえども映画を見にくるのは主演ふたりのファンが多い。となると夢ノ咲のアイドルを見る機会は必然的に多いわけで、夏目を認識している人もそれなりにいるだろう。気軽に映画館で映画を見ようと約束したものの、夏目にはとてもリスクのある話だった。あんずもなんとなく分かってはいたものの、一気に緊張が走る。すっかりデートという気分は消し飛び、あまり注目を集めないようにしようと心の中でひっそり意気込んだ。
飲み物とシェアして食べる小さめのポップコーンを買い、指定席に座る。夏目があらかじめ取ってくれていた席は目立たない壁に近い中段の席で、女性客が多い中でも溶け込めそうだった。しばらく予告が流れて、ブザー音がなって映画の始まりを知らせる。テンポよく進んでいく映画に没頭し、スクリーンを眺めながらあんずがポップコーンを掴もうとすると、ふと手がぶつかった。隣にいる夏目とちょうどポップコーンを食べるタイミングが重なったのだ。
ぱっとお互いの顔を見合わせて笑うと、夏目がポップコーンひとかけらを掴んであんずの口元に近づける。まるで食べさせたいようだ。あんずが無言ながら驚いて目を見開くと、夏目はにやりと笑ってあんずに口を開けるよう自分の口を開けてジェスチャーで示す。いつまでもスクリーンから目を逸らしているわけにもいかず、あんずは観念して口を開き、ポップコーンを放り込まれた。味が分からなくなるほど恥ずかしい。油断していたが、からかい癖は外でも健在だ。デートじゃないの、と弟に言われた言葉が脳内でこだまする。
映画本編が終わってスタッフロールが始まる。主演ふたりの名を見送ってからそっと静かに席を立った。館内が明るくなってから出るよりも暗がりのうちに出てしまったほうが夏目の顔が見えづらい。映画館を後にするとすっかり人混みの中に溶け込めたが夏目はそれでも帽子やマスクを外さなかった。お昼は予約している店があるから、と少し前を歩く夏目が呟いた。あまりにもクールな立ちふるまいで、映画になにか納得いかないところでもあったのかとあんずは不安になりながら夏目の背中を追った。
ランチにやってきたのはあんずでは到底入ろうとも思えない洒落た佇まいのイタリアンだった。夏目が予約していた嘘っぱちの名前をウェイターに伝えると店内の奥に通された。小さな個室に低めのテーブルと二人がけのソファがふたつ。向かい合うように座ると、備え付けのグラスにミネラルウォーターが注がれる。メニュー表をさらっと眺めながら料理とドリンクを注文するとウェイターは笑みを浮かべて下がっていった。
完全にドアが閉まって足音が遠ざかったところで夏目はようやっとキャップをとり、ばさりと赤の髪の毛を露呈させる。メガネもマスクもとって、ソファに深く腰かけ、重たいため息をついた。
「窮屈だったでしょ、変装」
「まあ……ネ。でも映画に誘ったのはボクのほうだシ」
グラスに口をつけ、一息つきながら夏目とあんずはぽつぽつと映画の感想を話し始める。俳優の世界では若手である渉と零の門出に相応しくフレッシュな映画の内容だった。性格が正反対のふたりの新人警官が難解な事件を追うという話の作りとしてはありきたりなものだったが、銀幕を演じるふたりの姿はあんずにはとても新鮮に写った。やはり活躍する諸先輩の姿を見ると身が引き締まる。夏目も自身の尊敬する先輩らの活躍が嬉しかったようで、演技の仕事をする気はないみたいだが、やはりいつまでも憧れだと言う。
映画の話をしているとノックの音が部屋に響く。夏目がマスクをつけたのを確認してから返事をするとウェイターが料理を運んできた。おいしそうなシーザーサラダとカルボナーラ、ハーフサイズのマルゲリータがテーブルに並べられる。
「そういえバ、言い忘れていタ」
「ん?」
「今日の子猫ちゃん、かわいいネ」
先ほどまで映画の話しかしていなかったのに、顔色ひとつ変えずに夏目はそう言ってのけた。なんと返すのが夏目にとっての正解か分からず、あんずはサラダを取り分けようとトングを持ったまま固まってしまう。たしかに今日はいつもより服に悩んだしお化粧も頑張った。へたに濃くなっていないか家を出る前に何度も鏡を見た。だが現れた夏目の格好は至ってシンプルそのものだったし、変装をしているからなおさら浮かれて支度をしてきたのは自分だけかもしれないと思った。だからデートかもしれないという気持ちは自分の心にしまっておこうと思ったのに、目の前の青年は慣れた口調であんずを褒めるものだから心臓がばくばくと高鳴る。
「……ありがとう」
「なぁニ、照れてるノ?」
「照れてないよ!」
ばればれな嘘で反論する。顔を合わせられなくなって目を逸らすと、夏目はソファを立ち、あんずの隣に腰をおろす。それからトングを一度おろさせると、あんずの手首を握って自分の心臓に手のひらを当てさせる。どくどくと早い鼓動が手を伝ってあんずの脳内を支配する。静寂な個室のせいでそれは余計にあんずの頭を支配した。
「聞こえル?」
「……聞こえる」
「君も同じ気持ちでショ?」
自信満々に言ってのける。すこし赤らんだ頬が相反してあんずの隣でほほ笑む。あんずは返答にすこし迷ってから、あんずの手首を掴む夏目の手に片方の手を重ねて笑んだ。
「そう……かもね」
デートだと思っていたのは自分だけではないのだとなんだか安心して、あんずは曖昧な返答を返すのだった。
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