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 逆先夏目があんずの態度と調子がおかしいことに気がついたのは、三日ほど前のことだった。
 さらに肝心のプロデュースの時もどこかうわの空で、視線がやたらと定まらない、必要以上にせわしなく動こうとする、などなど、挙げていけばきりがない。
 プロデューサーとしての仕事を気負いすぎて不安定な状態にでもなっているのかと思ったが、どうやらいつも通りの無茶やヘマをすることはあっても、他のユニットのプロデュース時はいつも通りらしい。
 思い返せば、夏目がこの間の日直を怠けても怒られなかったし、一週間に一度はゲーム研究部の部室を訪れるはずが、ここ最近来ていないことにも気がついた。
 あんずの不定は逆先夏目の周囲で起こっていると特定するにはそう時間はかからなかった。
 だがその原因は分からない。仕事柄、人間の機微に敏感な夏目にも読み取れない、かわいいかわいい子猫への不安感。
「ねえ、子猫ちゃん。僕のステージングはどうだっタ?」
 今日もまたどこかぼうっとしたあんずに、夏目はあえて尋ねる。
 あんずが自分を見ていないことに夏目は気がついている。だがあえて聞くことにっよって、あんずがこの場をどう取り繕おうとするのか試しているのだ。
 関心を抱いていない対象にこんなことはしない。夏目はあんずが気になるからこそ、深層を探ろうとする。
 しかし今日はあるステージのゲネプロだ。プロデューサーにしっかりしてもらわないと、あんずがここに存在する意味がない。
 ゲネプロを終えて、着替えを済ませて帰り支度もそれなりに整えた後の控室。夏目は問う。自分のことをしかとその目で見ていたか、確認する。
「え、あ、……完璧だったよ!」
 あんずはまるで悪いことをしでかしたかのようにぎくりと肩を震わせ、ちらりと左下に視線をやってから夏目の方を向き、平静を装った声色でそう言う。
 なんて分かりやすい子猫なのだろうと夏目はその時点ですべてを察した。彼女は今、あろうことかプロデュース対象を目の前にして嘘をつこうとしている。
 今日の夏目はまったく完璧などではなかった。集中しなければいけない最後の通し稽古のはずなのに、彼女のことが気になって細かなミスを繰り返してしまった。
 彼女のことが心配だったと言えば聞こえはいいが、アイドルとしてあるまじきミスである。夏目は、彼女の杏子色の瞳がこちらを向いていないことに腹を立てていたのだ。
 細かなミスの連発も、本来の彼女であれば気づいただろう。しかし今の彼女は、完璧だった、などと欺瞞を宣う。
 嘯く彼女の胸の内を探ろうとかすかに震える瞳を見つめると、また左下に逸らされた。
「嘘つキ。ボクのこと見てなかったくせに、子猫ちゃんは意地悪だナァ」
 あくまでからかうように、彼女が重く捉えすぎないように。夏目は軽口をたたく。
 彼女に嫌われることは本位ではない。嘘は腹立たしいものであることは確かだが、彼女にもその理由があるのだろう。
「あ…………ご、ごめんなさい。今日はもう、失礼します。ごめんなさい」
 嘘を見抜かれたことに動揺したあんずは真っ青な顔色をして、控室を出ていってしまった。
 彼女をいじめたいわけではない。しかし結果的に彼女を責めてしまっていて、夏目は自分の吐いた言葉に苛立ち、うんざりしたようにため息をつく。
「…………ハア」
「どうしたんですか、夏目くん。らしくな、あいてっ」
「うるさイ。ボクもう帰るかラ」
 一部始終を見ていた青葉つむぎがおそるおそる尋ねると、虫の居所が悪い夏目はつむぎの腕を叩く。完全な八つ当たりだ。
 控室の扉はバタン、と締まる。その音には苛立ちがこもっていた。
「あんずもししょーも変です。ふたりとも真っ青ないろをしてるな~」
「うーん、どうしちゃったんでしょうかねえ」


 珍しく食堂に足を運んだ夏目は、視線の先に子猫を捉える。幾日前に、うやむやな別れ方をしてからそれっきりのプロデューサーだ。
 トレイに定食と水を乗せてぼうっと席を探している彼女が気になって、何でもないような、いつも通りを装ってあんずに話しかけようとした。
 自分の気にしすぎだったのかもしれない。夏目は珍しく自分の考えを改める。なぜなら、寄りつかない子猫ほど悲しいものはないからだ。そう思うことにした。
「おや、子猫ちゃん……」
「……次のライブの書類、書いたら私までください」
 やはりあんずは目を合わせない。突きつけられた書類を呆然としつつ受け取ると、夏目が次の言葉をかける前にあんずは足早に立ち去ってしまう。
 彼女は前のことを気にしているのだろうか。図太くみえるところもあるが、彼女が気にしいなのは夏目も知っている。
 自分がせっかく許そうとしたのに、その好意をないがしろにされた気がして、夏目は押しつけられた書類を少しぐしゃりと握って、口をへの字に曲げた。
 焦燥して胸がざわつき、居心地が悪い。それが面白くなくて、思わず悪態をつく。
「……ちぇっ。なんだよ、あの態度……」
「逆先く~ん、どうしたのじゃ。嬢ちゃんと喧嘩かえ。ん?」
「……零にいさん、今の見てたワケ。まったく、趣味わるいナァ」
 夏目が後ろを振り向くと、食堂の中でも陽の当たらない部分に席をとっている朔間零がひらひらと笑顔で手を振っていた。
 彼がここに居るのは、自分よりも珍しい。よりにもよってあんなみっともない現場をおさえられて、夏目の不快指数はますます上昇。尊敬に値する先輩に皮肉をのたまう。
 そんな後輩の不躾な態度に嫌な顔ひとつせず、零はまあ座れと夏目を向かいの席に座らせる。零のトレイにはトマトジュースと、最近気に入りらしいカツサンドがのっている。
「そんな冷たいこと言わさんな。なにかしてしまったのなら男から謝っておいた方が風波は立たんぞ~」
 零の助言がますます夏目の心を曇らせる。
 自分が悪いことをした覚えはない。確かにちょっと意地悪なことを言ったかもしれないが、あんなのいつも通りだ。
 ……しかしいつも通りではない彼女の心を読めなかったのは自分だ。占いを生業としているくせに、彼女の気持ちが読めなかった。それに苛立って、あんな質問をぶつけた。
 占いをする時は対象者のほんの少しの反応も見逃さない。言葉の一片から、相手が求める言葉を探り当てる。占いは研究にも似ている。
 あんずの心理を探り当てることができなかったのは、自分の研究が足りなかったのでは。普段通り振る舞えていなかったのは、自分も同じではないか。
 そのことに気がついた夏目の胸に突如と湧く靄。八つ当たりのような勢いでサラダにフォークを突き立てる。
「……ボクは何もしてないヨ。ただ、子猫ちゃんがボクをプロデュースする気ないから怒ってるダケ」
 自分の心理状態を見抜かれないように、零の前では平静を装う。
 この偉大な先輩を騙せるとはとても思ってはいないが、核心を突かれる前に核心を逸らす。
 自分があんずに対して平静を保てていないという事実は、とりあえず隠しておきたい。
 あっという間に見抜かれてしまいそうだが、一時凌げればそれでいい。
「ほうほう。まっ、安心するがよい。嬢ちゃんは逆先くんのことをプロデュースする気がないわけではないよ」
「……なんでそんなこと分かるのサ」
 自分よりもあんずのことを知っているかのような口ぶりに思わずむっとなりながら夏目は零の言葉を促す。
「おや、逆先くんは気づいていなかったかのぅ。嬢ちゃんはちゃんとおぬしのことを見ておったよ」
「は……」
「あれはまさに……いや、逆先くんのためにもここは伏せておこうかのう」
「……そうやって、大切なことはいつも隠すんだかラ、にいさんたちハ」
 にたにたと笑う零に、過去の出来事を引き合いに出して夏目は刺々しい言葉を散りばめる。
 そんな末息子のかわいい毒っ気も零は笑って流し、夏目の頭をわしゃわしゃと撫でつける。
「はっはっは。大切なことは自分で気づくものじゃよ」
 いつの時代もそういうものじゃ、と付け足し、零はトマトジュースを飲み干してソファ席から立ち上がった。
 まるで夏目が何かを見落としているかのようなアドバイスに、夏目はぐしゃぐしゃにされた頭を直しながら記憶を辿る。
 だがたどってもたどっても分からない。記憶力は問題ないはずなのに。
 零に分かって自分には分からないなんていうのがかつて奇人と呼ばれた後輩だてらに面白くなくて、眉間に皺を寄せて考える。
 あっという間に昼休みの時間が終わりそうだが、夏目にはそんなもの、関係なかった。


 あの日、あんずに突きつけられた書類は外部のステージに出るための参加要項のまとめられた申請書類だった。
 提出期限まであと二日に差し迫っているそれを見て、夏目はらしくない淀んだため息をつく。
 Switchは校外活動を主としているので外部に出ることが今更億劫になったわけではもちろんない。夏目を気だるい気分させるのは、あんずの存在だ。このステージにはあんずも関わっている。
 そもそもこれはあんずのプロデューサーとしての気概を聞きつけた人間が持ちかけたものらしく、表の主役はアイドルたちでも、裏の主役はあんずと言っても過言ではないだろう。
 あんずは校外でのステージングに慣れており、また今回のコンセプトも最も合っているという理由でSwitchに話を持ちかけてきた。
 夏目は宙がやりたがっていたこともあり、快諾した。それはまだ、あんずが自分を見なくなる前の話。
 飄々とした夏目といえども、このままではやりにくいったらありゃしない。ふたりの間に生まれた溝というべきか蟠りというべきか……それは未だ一向に解決していない。もう二週間は経つだろうか。
 彼女に書類を渡すため、宙におつかいを頼もうとしたり、つむぎを扱き使おうとしたが、不思議とふたりとも夏目の思い通りには動いてくれず、このざまだ。
 自分が近づいたら逃げられるのは分かっているので、彼女の行方を知っていそうな人間に行方を尋ねた。まるで追いかけっこでもしているかのようだ。
 校舎内をうろうろしていると、廊下の角からあんずの顔が覗いた。逃げられるのことは分かっていたはずなのに、喜びと驚きで一際大きく、あ、と声を発してしまった。
 久しぶりに一瞬、目があった。ばつの悪そうな表情。揺れる瞳。強張るからだ。夏目にとってはどれもこれも面白くない。
 このままだと逃げられてしまうと思って、夏目はらしくないと思いながらもあんずとの距離をすぐに縮めた。ふだん逃げているのは夏目の方ばかりだから、新鮮な感覚だった。
「やぁ、子猫ちゃん。お久しぶリ。この間の書類、持ってきたんだけド」
「あ、ありがとう」
 あんずは後ずさりしながら書類を受け取り、器用にも夏目を注視したまま書類をかばんの中にしまう。
 目を離せばなにをされるのか分からない。あんずはそう踏んでいるのだろう。そんな危機を感じているような目が、夏目は気に入らなくて、じりじりと距離を詰める。
「……それじゃあ、私急いで……っ!」
「待ッテ」
 案の定逃げるように立ち去ろうとしたあんずを夏目が黙って逃すはずもなく。彼女の手首を掴み、自分の懐に引き寄せた。
 足元のぐらついてしまったあんずはすっぽりと夏目の胸元におさまりつつも、身じろぎをして逃れようと抵抗してみせる。
 大人しくさせるため、閑散とした廊下の壁にあんずを追いやった。か細い手首を握る掌に思わず力が入ってしまう。
 本当はこんな乱暴をしたいわけではない。あんずの痛ましそうな表情に見て見ぬふりをして、夏目は問いただす。
「最近、ボクのことを妙に避けてル。間違ってないでショ?」
「…………」
「理由も分からずに避けられるのは面白くないからネ。何か言ったらどうだイ?」
 たかだかひとりのプロデューサーに、少女に、こんなに必死なってしまうのはなぜか。無駄な自問自答を頭の中でかき消して、夏目は俯くあんずを見下ろす。
 あんずが口を割ろうとしないので、思わず早口でまくし立ててしまう。自分らしくないのは分かっている。それなのに、夏目は冷静でいられなかった。
「……っ、なつめくんのっ……」
 震える唇が、名を紡ぐ。泣きそうなあんずの顔を見、思わず手の力が少し抜けそうになる。
「そういう、っ……意地悪な、ところ、きらいっ……!」
 手首の拘束を振り切って、あんずは夏目の胸ぐらを突き飛ばし、廊下を走って逃げってしまった。
 ひとり取り残された夏目の心にはあんずの言葉がじんわりと染みていく。
 夏目は言葉のおそろしさを人一倍知っている。だからこそ、あんずの言葉が胸に反響する。
 嫌われるのは、石を投げられるのは慣れていたはずだった。だが、彼女の言葉は痛い。
 気づかぬうちに嫌われることをしてしまっただろうか。彼女にはそれなりに優しくしていたはずだったのに。ああ、皮肉屋な自分が恨めしい。
 先ほどまで彼女の手首を掴んでいた掌をぐっと握りしめ、八つ当たりに壁を殴りつける。
 彼女の言葉がどうか嘘でありますように。無意識のうちにあんずに嫌われたくないと願っている自分がいることに気がつく。
 この感情に思い当たる言葉はただひとつ。
「…………これは、堪えるナァ」
 あんずを追いかける気にもならず、壁を殴りつけたこぶしがずるずると下がっていく。
 ため息をこらえて、俯き顔のまま深呼吸をする。冷めやまない、脳裏から消えない、あんずへの気持ちが、明確な言葉となって形成される。
 口に出してしまえばもっと現実味を帯びてしまいそうで、臆病にもそれがなんだか怖くて、今はまだ声に出すことができなかった。


 ステージ当日となった。率先して声をかけたSwitchのほかにもいくつかのユニットが参加しており、あんずはいつも通りを心がけて本番前の細かい準備や打ち合わせを行っていた。
 それほど大きなステージではないものの、外部からプロデューサーとしての手腕を見込まれて声がけしてもらった仕事だ。責任感もあり、また緊張もする。
 今のところ、滞りなく動いてはいるものの、あんずにはひとつの不安要素があった。それは自分自身についてだ。
 あんずはとある彼に、他のアイドルとは違った感情を抱いている。いつからだとか、どういうきっかけで、というのはまったく思い出せない。
 これに気がついてから、自分の感情から欺き続ける日々が始まった。誰にも知られてはならない、なぜなら自分はみんなに平等に接するプロデューサーだから。
 勘の良い彼らたちに気づかれるようなことはあってはならない。みんなの前でも、彼の前でも、いつも通りのプロデューサーでいることを心がけた。
 しかしある時、その騙し騙しの生活にも終止符が打たれた。それは不幸にも彼の言葉がきっかけだった。
 先日行われた、別ステージのゲネプロが終わった後、彼に意見を求められた。
 おろかにもそのステージから目を逸らすことで湧き上がる感情からどうにか意識を逸していたあんずはその問いに答えることができず、つい適当な物言いをしてしまった。
 あんずの曖昧な回答に気分を害したのか、彼は嘘つき、と責めた。彼にとってはほんのからかいだったのかもしれない。いたずらっぽい言い方だったのを覚えている。
 それに対してあんずはなにも言い返せなかった。なぜなら彼の言うとおり、あんずは嘘つきだったからだ。自分の気持ちに嘯き、背けている。
 嘘つきの烙印をきっかけに、あんずは彼を避けるようになった。彼ならば、いつしか本当の気持ちを見透かされてしまいそうで怖かったのだ。
 自分のどんな感情もプロデュースには関係ない。己の感情など封じ込めることが正しきである。あんずはそう信じてい疑わなかった。

 時間を気にして動いていたつもりであったが、気がつくともうあと五分で開始というところ。緊張からか、じっとしているのも落ち着かず、あんずは周囲を見渡す。
 上手側の舞台袖に控えるSwitchの姿が見えた。その様子はなにやらいつも通りには見えない。あんずは彼らに近づこうと、歩を進める。
 どくりと高鳴る心臓を押さえつけながら彼らに近づく。やはり自分に嘘をつくことは難しい。
 Switchのリーダー、逆先夏目の姿が目に入る。奇をてらった赤と白の髪に、鋭くもどこか優しいまなざし、女のあんずでもどこか親しみやすい比較的小柄な体格。アイドル、占い師の両方で完璧を目指す高潔な向上心。飄々としているようで時折真撃なことを言ってくれる、そんな彼に恋い焦がれていても、プロデューサーでいなければならない。
 誰にも言えない秘密をひとりで抱えながらのプロデュース業は苦しみでしかない。それでも必要最低限を演じるために、彼に近づく。本当は離れていた方が楽なことは分かっている。
 春川宙が落ち着きなく逆先夏目の周囲をうろついている。その夏目は虫の居所が悪そうに顔を顰めている。
「ししょ~体調悪い? ずっと青いもやもやが見えるな~」
「ウウン、大丈夫だよ。ありがとう、ソラ」
「Switchの皆さん、出番二分前です」
「ハイハイ」
 夏目は心配そうに見つめる宙の頭をよしよしと撫でる。それでも宙は夏目のことを疑っているようで、じい、と夏目を見つめている。
 が、その視線の奥にあんずの姿を発見したようで、一目散に駆け寄り、抱きつく。あまりの勢いにあんずは少しふらつくものの、しっかりと受け止める。
「あんず~、今日のソラはししょーの分までがんばります!」
 宙から夏目の話題を振られ、あんずは戸惑いながらも夏目に視線を向ける。
 目が合って、心配している傍らあんずの方から逸らすわけにもいかず、夏目の様子を伺う。
 その瞳に宙をあやしていたような優しさはなく、妖しげな流し目でじろりと眺められてから、逸らされる。
 目線を逸らされて、よかったような、悪かったような。あんずは自分の気持ちすらよく分からぬまま胸を撫で下ろして、夏目に声をかける。あくまでプロデューサーとして。
「え、夏目くん……どうかしたの? 大丈夫?」
「君に心配されなくても、ボクは大丈夫だヨ」
 冷たい。あんずには比較的優しいはずの夏目の、突き放すような冷え切った言葉にたらりと冷や汗が背中を伝うような感覚を味わった。
 でもこれでいいはずなのだ。女子高生のあんずは死に、プロデューサーのあんずが生きる。きっとそれでいいとあんずは自分に言い聞かせる。
 そのために彼に嘘を言った。本当はすこし意地悪なところも、なにもかも含めて好いているのに。
「そ、そっか……無理、しないでね」
「中途半端に優しくされるト、痛いナァ」
 夏目のへらりとした、いつも通りの飄々とした笑みは、一瞬だけ苦しそうにくしゃりと歪んだ。
「え……」
 だがそれはまるで見間違いのように、すぐにいつもの逆先夏目の顔に戻った。
 今まで見たことのないような表情と、怒りや苛立ち、それから悲しみを含んだような声色に、あんずの思考は真っ白になる。
「じゃあ、行ってくるかラ」
 力ない声の後、彼はいつも通りアイドルとしてステージに駆けていく。
 湧き上がる歓声、世界観を彩る演奏が始まる。輝かしい表舞台に立つことこそ相応しい夏目の姿が、あんずにはひどく遠いものに思えた。
 やはり彼は人々に夢を与え、愛を享受するアイドルなのだ。遠くて、とても眩しい。
 あんずはその姿から片時も目を離すことができなかった。これがきっと、恋する少女としての最後の眼差しだと己の誓って。


「今日はこれで終了です。各自解散してください。おつかれさまでした」
 すべての演目が終了し、今回のステージは無事成功をおさめた。
 あんずはプロデューサーとして挨拶を終え、後片付けのため演者のアイドルたちが帰った後も会場に居残っていた。
 今回のステージは終演後に観覧アンケートに協力してもらう形をとっており、回収されたアンケートを束ねてファイルにしまい込む。
 いくつか目を通してみると、かねがね好評だったようで、ふだんから演者の近くに居るあんずも心の底から嬉しかった。
「……アンケートの集計、ライブの報告書……週明けで大丈夫かな……」
 自分の思考をまとめるように独り言を呟いていると、きい、とドアの開く音が小さく鳴った。
 ちゃんと閉じていなかったドアが風かなにかで開いたのかと思い、あんずは気の抜けた表情でドアのある方を振り向く。
 ……そこには帰宅したはずの夏目の姿があった。
 私服に着替えた彼はいつもと同じ妖しさを潜めた目元に、薄く弧を描く唇で、あんずの背後に立っていた。ドアの閉まる音がする。
「子猫ちゃん」
 いつもと同じように夏目はあんずを呼ぶ。あんずの表情はこわばり、後退りをしてテーブルにからだを軽くぶつける。
 ふたりきりになると思い出してしまう。自分が自分と決別するために彼に突きつけたひどい言葉を。
「夏目、くん……帰ったんじゃ……」
「君と話したいことがあってネ、こうしてふたりになれるまで待たせてもらったヨ」
「…………」
 夏目は距離を詰めぬまま、口火を切る。
「今日ハ、ボクのこと見ててくれたよネ」
 今日は、を強調して夏目は笑いかける。
 前回のゲネプロ時にあんずがぼうっとして夏目のステージングを見ていなかったことを覚えていてのことだろう。
 確かに今日のあんずは夏目がステージに出ている間、ずっと夏目のことを見ていた。
 が、まさかそれを気づかれているとは思わず、あんずの肩がびくりと震える。それから視線を下に落として、黙りこくってしまう。
 あんずのあからさまに動揺した態度を無視して、夏目は話し続ける。
「んー、子猫ちゃんのお口は固いナァ」
「……」
「ボクは君の素直な気持ちが知りたイ。君も、ずっと嘘つきのままでいるつもりカイ?」
 じろりと気持ちを見透かされてしまいそうな黄金色の瞳が居心地悪く輝く。
 嘘つきという言葉があんずの頭の中に響く。そう思われても仕方がない行動をとっている自分がいるのも分かっている。
 しかし、夏目に嘘をついている罪悪感と自分の気持ちに嘘をつく息苦しさに声が震えた。
 本意ではないが必要な嘘ほど心が痛むものもない。
「私は……嘘なんか……」
 これも嘘。自分の嘘が明確に反響して罪の意識に苛む。
 いっそのこと嘘をついている意識などなければいいのに。そう思うほど、あんずは自分の嘘を記憶している。
 アンケート用紙の入ったファイルを抱きしめる手が汗ばむ。
 あんずの背後にはテーブルがあり、後ずさることができないと分かっていても彼から距離をとるため、無意識に足が動く。
 それが面白くなかったのか、夏目はへの字に口を曲げた顔つきであんずとの距離を詰める。
 ずい、と互いの呼吸すらも感じ取られてしまいそうなほどに近づけられた顔。
「ついてル。ねぇ、子猫ちゃんはボクのこと好きでショ」
「……好き、なんかじゃ、ない」
「へえ、ソウ。ボクは好きだけどネ、子猫ちゃんのコト」
 あんずが最もひた隠しにしていたこと。彼を好きだと思う気持ち。それがよりにもよって彼に核心を突かれ、冗談か区別のつかない言葉が繰り出される。
 夏目の本音がどこにあるのか分からないあんずは、彼の言うことをそのまま信じられなかった。彼は皮肉と冗談を好む。
 同じ時間を過ごして、彼が本当に思っていることを言っているとき、また冗談を言っているときの見分けはそれなりにつくようになったつもりだったが、肝心の今、分からない。
「っ、軽々しく言わないで…!」
「……軽くなんかないサ。確かにこの感情に気がついたのはついこの間だけれド、君への気持ちは本物ダ」
「……っ、なつめ、くん……」
 同じようにふたりきりになったあの日、嫌いという言葉を受けて初めて気がついた自分の感情。
 夏目にとって自分の気持ちを自覚し、正直になるということは勇気のいることだ。
 今にも泣いてしまいそうな潤んだあんずの瞳を見つめながら紡ぐ言葉を選ぶ。
 この告白が女の子とプロデューサーの間で揺れるあんずを苦しめていることを夏目は分かっている。だが自分に正直になりたい。あんずにも正直になってもらいたい。
 夏目は急く気持ちをおさえて、一旦あんずから距離をとり、ドアに腰かける。
「……私は、みんなのプロデューサーだから」
 潤む瞳から、ついに涙が溢れ落ちた。あんずは俯き、建前を吐露する。
 弱々しい声音で呟くあんずを受け止めるように、夏目は一度頷き、でも、と前置きする。
「その前に君はひとりの女の子ダ」
「誰かのひとりになる私はいないの、だってそうなったら、おかしくなっちゃう……」
「おかしくならないよう二、ボクが支えよウ」
 禁忌的だと夏目も思う。アイドルとプロデューサーなんて。
 高校を卒業して大人になったら、そしてもっとその先のことを考えたら。この選択が正しいのかなんて分からない。
 だが夏目は、あんずとどこまでも一緒にいたいと思ってしまった。その選択が、間違いだなんて思いたくなかった。
「やめて! 私は、私は夏目くんのことなんてっ……!」
 自分の気持ちを切り離そうとするように、あんずは叫ぶ。
「……あんずちゃん、もう一度言うヨ。ボクは君のことが好きダ。……嘘つきを終わりにするなら、ボクの胸に飛び込んでおいデ」
 名を呼び、夏目は腕を広げ、あんずを待つ。
 あんずの今までの言動なんてきれいさっぱり忘れようとしてくれている夏目の行動に、あんずは分かりやすくうろたえる。
 好きな彼を見ないようにした。近づかないように避けた。嫌いとまで言ってしまった。それはすべてプロデューサーとして在るためにだった。
 夏目の感情をないがしろにしようとしていたのに、抱きとめようとしてくれている。許そうとしてくれている。
 自然に、あんずのからだは倒れ込むように一歩前に出た。

「…………っ、なつめくんっ……!」
 あんずは許されたかった。許されたくて、夏目の胸に飛び込んだ。
 ふたりの香りが混じり合って、固く抱きとめられる。
 泣きじゃくるあんずの背中をさする掌がとても大きく感じた。
「あぁ、やっと素直になってくれタ」
 抱かれて涙を溢すあんずのぬくもりと心臓の音を感じながら、夏目もほっと胸を撫で下ろす。
 しばらくして泣き止んだあんずは夏目の胸元から顔を離し、泣きはらし、ぼうっとした顔つきで夏目の顔を見上げる。
 それから正気を取り戻したのか、急にはっとした顔でスカートのポケットを漁ってハンカチを取り出す。
「ああ、もう……ごめんなさい……! 涙が、夏目くんの服が……」
「ン、気にすることはないヨ。むしろ嬉しいくらいだからネ」
 あんずはハンカチで夏目の服を拭こうとするが、かえって夏目にハンカチを奪われ、目元を拭われる。
 世話を焼かれることに戸惑いながらも、あんずは夏目にされるがままに目を伏せた。
 その無意識さにすこしだけやきもきしながら、夏目はハンカチを返して時計を見やる。
「……さて、もうこんな時間ダ。家まで送ってくヨ」
 夏目があんずを家まで送ってくれるのは今までもわりとよくあることだ。いわばいつもと変わらないことだ。
「ありがとう……わっ…!」
 突然右手をぎゅ、と握られる感触にあんずは驚き、目を白黒させて夏目を見る。
 一緒に帰ることはいつもと変わらないことだが、からだが触れ合うことはなかった。
 それが突然触れ合って、そういう関係になったのだと思い知らされてからだが熱くなる。
 指先まで火照ってしまっているのが夏目に伝わってしまいそうであんずは夏目の顔が見られない。
「ヒドイなァ、そんな反応するなんテ。あんなに熱い抱擁を交わしたのニ」
 すっかりいつもの調子に戻った夏目はあんずをからかうように指を絡ませ、指の感触を楽しむように何度も握り返す。
「だ、だって……夏目くんが急に触るからっ…!」
「せっかく恋人同士になったんだかラ、いいじゃなイ」
「もうっ……夏目くんの、意地悪……!」
「でモ、そういうところも好きなんでショ?」
 さすがアイドル、恥ずかしげもなく好きを突きつけてきて、女子高校生としてのあんずの頭はもうすでにキャパシティオーバーを迎えそうだ。
 だがいつまでも言い負かされているわけにもいかず、あんずは夏目の顔を見上げて口をぱくぱくとさせる。
 そんなあんずを面白そうに眺めながら、夏目は返事を待つ。余裕のある彼があんずはひたすらにずるく思えた。
 初めの一言はどうしても緊張する。だが言わなければ始まらない気がした。
「…………好きだよ。夏目くん」
 やっと伝えられた、本当の自分。ひとつの恋が、ようやく始まる。

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