「あんず、お前今週の金曜日、英語再試な」
「えっ」
相も変わらずぼんやり顔で担任教師の佐賀美はあんずに残酷なお告げをした。授業が終わって、単純にちょっと来てくれと職員室に呼ばれただけだった。まさか予想外の出来事、あんずは目の前に提示された英語のテスト用紙を慌ててもぎ取った。他者の眼前に晒されるのがなんとも恥ずかしい点数。慌てて点数が見えないように二つ折りにしてしまう。
たしかにあんずは勉強の話はできるだけしたくないタイプの生徒だ。天は二物を与えずとは言うが、この学院には容姿端麗、さらに頭脳明晰といったアイドルが当たり前のように存在している。彼らを目の当たりにすると自分は何も与えられないと思いつつもあまり気にしてはいなかった。そう、今この時までは。
「再試は問題もある程度簡単にするらしいぞ。ま、がんばれよ」
佐賀美はあんずを励ますように肩をぽんと叩き、あくびをしながら椅子から立ち上がって職員室を出ていった。大方根城の保健室で昼寝でもしに行ったのだろう。なんとも呑気で羨ましい。
勢い余ってぐしゃりとしわの寄ってしまった答案用紙を握りながら、職員室を出る。どんより曇天のような重たい気持ちがあんずを襲う。こんな日は仕事も何もかも投げ出してお家のベッドに臥せっていたい。そんな気分だ。
「聞いちゃっタ」
職員室前で立ち止まっていると、ふと人の不幸をあざ笑うかのような愉快犯の声色が耳に飛び込んできた。
驚きのあまり、声の聞こえたほうから距離をとりつつ振り向くと……そこにはあんずのクラスメイトで、欠席常習犯の逆先夏目がにんまり笑顔を浮かべていた。
「なっ、夏目くん、どうしてここに……」
平静を装い、あんずは耳に飛び込んできた言葉を無視して彼に問いかける。
「ボクだって夢ノ咲の生徒なんだかラ、ここにいてもおかしくはないだろウ。それよりも再試だっテ?」
「うっ……」
彼が聞いていたのはやはりあんずが知られたくなかった再試のことで。あんずはバツが悪くなって夏目から顔を背ける。
きっと彼のことだからまた面白いからかいの材料を手に入れたと思っているに違いない。あんずは勝手に夏目の思考を創造して、ひとり表情を曇らせる。
「ボクが教えてあげようカ?」
「へっ」
意外な言葉が飛び出して、あんずは驚きに目を見開いて夏目を見た。あんずは夏目の学力を把握していない。しかし授業の出席率がクラス一低いことは知っている。
授業に出ようとあんずが提案しても、授業なんかでは学べないことが世の中にはたくさんあるとかなんとかでちっとも教室に来やしない夏目が、勉強を教えられるというのか。にわかに信じがたく、あんずは思わず閉口してしまう。
「ン? その顔ハ、ボクに学力が備わっているかどうかいまいち信用できないといった顔ダ。ボクは授業に出ずともわりと優秀な成績を収めてるシ、子猫ちゃんの勉強のお手伝いくらいなら余裕だと思うけド?」
「う、うそ……」
「ウソなんかつかないヨ。出席日数はまァ、足りてないけド、それを成績で補っているというワケ」
教師の弱みを握っていると言っていたこともあったが、成績に小細工をするようには思えない。夏目がアイドルとしても占い師としても真撃に向き合っている姿をあんずは知っている。きっと彼の言うことは本当だ。
まさに天がニ物を与えたを体現しているアイドルが目の前に現れた。眩しくもあり、どこか小憎たらしくもある。勉学に励んでいる姿なんてまったく見たことがない。努力を見せないのがなんとも夏目らしく、あんずは内心羨ましくて、すこし拗ねた。
「さあ、どうすル?」
「で、でも…夏目くんのレッスン時間とか、割いてもらうことになっちゃうし……」
彼らは学生ではあるが学業が本分ではない。あくまでアイドルとして大成することに重きをおいている。そんな夏目のアイドルとして高めていく時間をもらってしまうのは、プロデューサーのあんずとしてはなんともお願いしづらい。
「大丈夫だヨ。近くにライブは控えてないシ」
「うーん……。じゃあ、お願い、します」
「フフ、よくできましタ。じゃあ、さっそく今日の放課後から始めよウ。部屋で待ってるかラ」
夏目はご満悦、にっこりとほほ笑み、アイドルらしくウインクまで決めてから教室がある場所とは逆方向に廊下を歩いていく。あと何分かすれば最後の始業ベルが鳴るだろうにきっとまた欠席なのだろう。
にわかに信じがたい気持ちを抱えながらあんずは教室に戻ろうと踵を返した。その瞬間、手元から答案用紙がなくなっていることに気がついて、血の気がさぁ、と引く。さっきまで手にしていたはずなのに、気配もなく指先から抜きとられていた。
思い当たる略奪犯は彼しかいない。答案用紙は人質ということだろうか。もう見えなくなってしまった彼の姿を追いかけることはできず、あんずはやむなく教室へと戻るのだった。
終わりのベルがなって、放課後。あんずは夏目に言われたとおり秘密の部屋を訪れていた。ドアに向かってノックをすると、どうぞと機嫌のよさそうな彼の声が聞こえる。
イスから立ち上がった夏目はさぞ嬉しそうに出迎える。彼の手元にはやはりと言うべきか、あんずの答案用紙が当たり前のように置かれている。
「やぁ、いらっしゃイ」
「おじゃまします…」
夏目は紅茶の茶葉が入った缶を取り出し、ティーポットにそれをセットする。トレイには水色と白を基調としたカップとソーラー、手作りらしきクッキーが乗せられる。
あんずが手伝おうと手を出したら、夏目は座ってていいヨとイスに座るように促された。自分が勉強を教えてもらう身であるにも関わらずなんだか申し訳ないと思いながらあんずは黙ってイスに座り、カバンを下ろす。そのすきに答案用紙を回収した。
すこしするとマスカットと茶葉の交わったような香りがテーブルに運ばれてきて、夏目も再び腰掛ける。彼は微笑を絶やさないが、あんずは勉強すると思うと気が重い。
「このクッキー、ソラがくれたんだよネ。子猫ちゃんと勉強するって言ったラ、甘いもの食べて元気だしてください~ッテ」
「えっ、宙くんに言ったの?!」
「大丈夫、再試のことは言ってないヨ」
ふだんかわいがっている後輩に再試のことを知られるのは恥ずかしい。言葉の真偽はさておき、クッキーは猫やうさぎなどのかわいい動物の型で抜かれていて、チョコレートで顔まで描かれている。春川宙は甘味好きらしい葵ひなたと仲がよく、最近は一緒にお菓子作りをするのだと言っていたことをぼんやり思い出した。微笑ましくて、なんだか食べるのが勿体ない。
「じゃあ、始めようカ」
「あっ、ちょっと待って。……夏目くん、この勉強ってなんか、対価とか、発生するんでしょうか」
あんずには引っ掛かっていたことがあった。それは夏目へのお願いにはほとんどの場合で対価が発生するということ。見返りなくして目の前の彼が勉強を教えてくれるようには、あんずにはとても思えない。
「子猫ちゃんって、ボクのコトなんだと思ってるワケ」
「だってよくほかのひとに言ってるし」
夏目は少々呆れた顔をしながらカップに紅茶を注いでいく。爽やかで甘い芳香が部屋に広がる。紅茶を注ぎ終えてティーポットをテーブルに置くと、夏目はなにか考え込むような顔つきで上を向いた。
もしかすると対価など考えていなかったのかもしれない。墓穴を掘ってしまったあんずはひやひやしながら夏目の次の言葉を待つ。
「……じゃあ、そうだネ。……子猫ちゃんが再試をクリアしたら、ボクとテレビゲームをして遊ぼウ。子猫ちゃんはいつも見てばっかりだかラ、たまには遊んでくれてもいいよネ?」
片側の長い髪の毛をくるくると指に巻きつけながらすこし考え込んで、夏目は対価を要求した。
思いのほかかわいい対価であんずはほっとしていた。むしろその程度でいいのだろうかと思ったぐらいだ。だがその程度で、と言えばさらに墓穴を掘ってしまいそうな気がしたので、本音はぐっと飲み込む。
「うん、いいよ」
「フフ、じゃあがんばってお勉強しようカ」
教科書とノートを開いて、夏目とあんずふたりきりの居残り授業が始まった。
夏目の教え方はいつもの占いのようにまわりくどい言い方ではなく、実に分かりやすかった。よく考えれば彼はアイドルの道を志してこの学院に入ったわけではないが、ダンスや歌の飲み込みが早いことを思い出した。きっと覚えるということが得意なのだろう。それに、占い師であるためには様々なことを覚える必要があるに違いない。
これまで頭脳明晰という印象はなかったが、改めるべきだとあんずは思った。かつて五奇人という学院の特異点としてただならぬ存在であったということは分かっていたが、彼自身あまりにもミステリアスなものだから、季節を巡っても知らない彼のことの一面が増え続ける。
教科書を開けば眠くなってしまうあんずも、アイドルの時間を割いてもらって教えてもらうからには真面目に勉学に励まなければならない。授業中、先生が話すよりも真剣に聞き入る。夏目の声は相変わらず不確定な声色で、それが耳に入り込みやすい要素にもなっているのだろう。
問題を解けば幼子のように褒められ、時折休憩をはさんでかわいい後輩から貰ったお菓子を食べて、それからまた勉強を再開、勉強が終わったら下校時間まで秘密の部屋で裁縫の練習をして。そんな忘れていたような、至って普通の高校生らしい日常が不思議と身に沁み、そしてあっという間に過ぎ去っていった。
「なんか普通の高校生みたいだね」
再試前日の帰り道、あんずはぽつりと呟いた。アイドルの同級生に勉強を教えてもらっているという構図は傍から見れば充分非日常的なのだが、あんずにとってはありうることだったし、今こうして現実となっている。
普通の高校生に憧れる気持ちがないとは言い切れないが、少なくとも現状に不満はない。ある意味特別視されたり、周囲に対して普通以上に気を配らなければいけなかったり、大変な立場ではあるが今のところ飲み込めている。
だから漠然と普通とは言ったものの、普通に帰りたいとは思わない。
あんずの横を歩く夏目はちらりとあんずの顔を見やり、目を細めて緩くほほ笑む。普通から最も遠い存在のはずなのに、知ったふうに見えるのは夏目だからだろう。
「そうだネ。でも君とボクが普通の高校生として出会うことハ、きっと無かったと思うヨ」
「確かに。普通の高校生で夏目くんに遭遇するところが想像できない」
夏目はアイドルでなくとも占い師。それも超がつくほど有名な占い師を母とする折り紙つきだ。きっとあんずが夢ノ咲に入学しなければ、住む世界が違っただろう。
「……だからボクは普通じゃなくてよかったと思ってるケド」
夏目がぽつりと呟いた言葉は雑踏に混じり、あんずの耳に届くことはなかった。もう一度言ってと言いたげに首を傾げるあんずに夏目が同じことを二回言うはずもなく、ほほ笑み返す。
「さっきなんて言ったの?」
「なんでもなイ、独り言だヨ。それより…明日の再試ちゃんと合格してよネ」
話題をそらし、言葉尻やや強めに念押しすると、あんずは渋い顔をして口を尖らせる。あまり表情豊かなほうではなかったが、今ではずいぶんと感情と表情が合致するようになってきた。
「うっ、せっかくちょっと忘れてたのに」
「ボクの教えた通りに解けば大丈夫サ」
「うん、がんばる。ありがとう、夏目くん」
純粋、にこやかに笑むあんずの表情は明るい。
「フフ、お礼は合格したあとでたっぷりもらうからネ」
再試に合格したら一緒にゲームで遊ぼう、夏目はそう言っていた。ゲーム研究部らしいといえばらしい。たしかにあんずはゲームを見ているもの好きなので、積極的にあれやりたいこれやりたいと騒ぎ立てることはしない。
もちろん誘われれば一緒に遊んだりはする。だからこそ、わざわざ対価として要求するほどのものではないとあんずは知っている。対価にしてはあんずに優位すぎるのだ。
「……夏目くん、本当はなにを対価にしようとしたの?」
夏目が最初に対価を口にした時、何秒か考え込んだのをあんずは思い出した。普段なら台本のある演劇のようにすらすら言葉を並べる夏目が言葉に詰まるのは珍しい。
問われた夏目はあんずの目を見ぬまま夕焼け空を遠目で眺めて一、二歩先を歩き始める。横並びだと都合が悪いのだろうか。
「ンー…………内緒」
「内緒ってことはやっぱり別に考えてたこともあるんだ」
「さてネ」
あからさまにシラを切られ、あんずは問うのをやめた。ここでなんだどうだと聞けば、なんだか夏目の素知らぬ物言いに踊らせれているような気がするからだ。
それから他愛のなく短い話題でぽつりぽつりと会話を続けながら歩き、あんずと夏目はいつもの場所で別れた。
対価の話をしてからの夏目は心なしか口数が減っているような気がした。もしや機嫌を損ねてしまっただろうかと思うとあんずもなんだか心持ちが悪い。
だが別れ際はいつものように手をひらひらと振っていた。夏目の性格上、機嫌が悪い時は言動のすべてが素っ気なく、とげとげしくなるはずだ。
多分、そんなに気にするようなことではない。駅のホームにやってきた電車に乗って、座席に腰掛ける。目的の駅に着くまですこしでも勉強しようと、カバンから教本を取り出す。
再試は明日に迫っている。合格してしまえばあんずは勉強から解放されて自由になれる。それなのにどうだろう、今はすこし寂しい気もした。
放課後はあっという間に訪れる。もはや今日は再試を受けるために学院へ来たと言っても過言ではないほど、あんずの心は気概に満ちていた。
なにせこの試験に落ちてしまえばさらなる絶望があんずを待ち受けているはずだ。あくまで想像ではあるものの、表舞台に出る立場でないあんずの仕事制限などいとも簡単だろう。仮定でしかないが、不合格だけはなんとしてでも避けたい。
それにこの再試で落ちてしまえば夏目にも申し訳がたたない。せっかく時間を割いてもらったのだ。彼のためにもと言えばなんだか本来の目的から変わっている気もするが、可能なら笑顔で彼に結果を伝えたい。
終礼が終わって、クラスメイトは教室から出ていく。再試まで、あと数分。
……採点された答案用紙をカバンに入れて、チャックも閉めぬまま駆けていく。学院の廊下を走るのはご法度ではあるが、今は一刻も早く伝えたかった。
ゲーム研究部の部室、扉の前にたどり着く。慌てたせいですこし乱れた呼吸を整えて、ノックを三回。しかし返事はない。不安に思ってもう一度だけノックをするが、しーんと静まり返っている。
「……夏目くん、いるよね? 開けるよ…?」
鍵はかかっておらず、ドアノブは回る。おそるおそるドアを引いて、隙間から部屋の様子を伺う。
「わっ!」
あんずの眼前でパン、と発砲音がしたかと思うと、なにか軽いものがふわりと髪の毛にかかる。
うっすら目を開けると、頭に螺旋を描いたテープやらカラフルな紙片が落ちてきた。視界の先にはクラッカーを構えてにっこりほほ笑む夏目の姿。
「オメデトウ、子猫ちゃん」
「……びっ、びっくりした……」
「アハハ、ごめんネ。聞こえてくる足取りが軽かったかラ、合格したんだろうと思ッテ」
さすが占い師と言うべきか、それともあんずが分かりやすいのか。
夏目はクラッカーのテープをくるくると巻き取り、あんずを部屋に招き入れる。
「本当に夏目くんのおかげだよ。ありがとう」
「フフ、どういたしましテ。さア…ボクもご褒美をもらうとするカナ」
ゲーム研究部の部室には様々な種類のゲームが置かれている。夏目は無趣味と言いつつもゲームは部名に恥じぬほどには嗜んでおり、その腕前も人並み以上だ。あんずも過去に何度か遊んだことがあるが、どんなジャンルであれ対戦ゲームの類いははまったく歯が立たなかったことを覚えている。あんずもゲームをまったくやらないというわけではないのだが、運に任せたゲームでも勝てたことはない。
テレビの前に座っているように指示され、あんずは大人しく腰をおろす。チャックの開いたカバンの中からビニール袋に入ったチョコレートのマフィンを取り出す。今日は調理実習でお菓子を作ったのだが、無論夏目の姿はなく。それならば今日の放課後のおやつにしようと食べずにとっておいたものだ。
「今日、調理実習でマフィン作ったんだよ。夏目くんも参加したらよかったのに」
「おヤ、美味しそうだネ。調理実習には興味ないけド、子猫ちゃんの作ったものには興味あるヨ」
授業に出てほしいというあんずの意見をさらりとかわして、夏目は慣れた手つきで紅茶を用意し、あんずの隣に腰をおろす。
「さテ、今日はとことん付き合ってもらうヨ」
口角を上げて笑む夏目はやけに嬉しそうで、あんずはつられて嬉しくなると同時になにか嫌な予感がした。この顔は、企んでいるときの顔だ。
「ハイ、今日のゲームはコレ」
「そ、それって……」
あんずの嫌な予感は的中する。夏目が見せたゲームソフトのパッケージは、心霊もの。青白い肌の女性におどろおどろしいタイトル。思わず顔が引き攣る。そしてその強張った表情を夏目が見逃すはずもなく。
「まさか子猫ちゃん、逃げるなんて言わなイ…よネ?」
わざとらしく顔を覗き込んで、煽るような台詞をのたまう。逃げの選択肢を断ち、追い込むのはなんとも夏目らしいやり口だ。もちろんあんずは逃げられるはずもなく、こくりと首を縦に振るほかなかった。
「楽しかった……! けど、なんかすっごい疲れた…………」
「充実した時間を過ごせて楽しかったヨ」
夕焼けと夜空の境目、絵の具を混ぜたような空の下、あんずと夏目は帰路についていた。怖いと言いながらもやけに没頭しやすい世界観のせいで、あんずはすっかりゲームにのめり込んでしまった。本当ならすこしだけ仕事をしてから帰ろうなんて思っていたのだが、結局下校時刻ぎりぎりまでゲームに勤しんでいた。
勉強を教えてもらったうえにゲームで遊ばせてもらって、本当にこれが対価なのかと何度でも疑いたくなってしまう。夏目のことを疑っているわけではないが、あまりにも欲がない。もっと、らしいことを言ってきてもいいはず。だがなにも言ってこないということは、あんずの思い違いなのだろうか。
隣でいつも通り余裕を含んだ笑みを浮かべる夏目の思惑をあんずは読めない。かんたんに思考を読ませてもらえるような相手ではないことは分かっているし、あんず自身の洞察力がないことも分かっている。ならば、直接尋ねるしかない。
「夏目くん、やっぱり気になるんだけど」
「なにガ?」
「内緒の対価」
再試前日の帰り道、つまりは昨日の話。夏目はあんずの本当の対価はという問いに対して内緒とだけ答えた。完全な否定ではなく、含みをもたせた肯定とも受け取れる。
夏目はあんずの言葉に歩を止め、すこし後ろを歩いていたあんずのほうへと振り返る。その顔は余裕ぶった笑顔とは違う、なにかジレンマを抱えているかのような困った焦り顔。ややへの字に曲がった口元が、あんずに一発で正解を当てられていじけているときの顔にも似ていた。
「一緒にいられるだけで楽しかったシ、それこそ皆んなに嫉妬されるくらいのご褒美は貰ったヨ」
「質問の答えになってないよ」
「……あんずちゃんッテ、けっこういじわるになってきたよねネ。誰の影響カナ」
目の前のあなたの真似ですなんてことは言えず、あんずは夏目の言葉を促すようにじっと眼を見つめる。だが猫のように視線はつらっとそらされる。それからすこしだけ考えた様子で、夏目は対して右の手のひらを差し出す。
「…………ハイ」
「……はい?」
差し出された手の意味が分からずあんずが首を傾げていると、夏目は焦燥の色がみえる顔のままあんずの左手をその右手で掴み、指一本ずつを絡ませるようにして握る。
じわりと伝わる手のひらの温かさ、そらされたままの赤らんだ顔、この状況に対してうまく思考のまとまらないあんずは、夏目の顔を凝視し続ける。そのうち夏目のほうが観念して、長いため息をついた。
「ずっト、一緒に帰る間、こうしていたかっタ。それだケ」
それだけ、と言いつつもすらすらと言葉が出てこず、夏目の顔はまるで冬の寒さにあてられたように頬が赤く染まる。
夏目の本当の対価が知れたところで心がすきっと明るくなり、あんずは夏目の顔を見ながら短く笑い、手を握り返す。手のひらの体温が融けるように混ざって、どちらのものか分からなくなる。
「夏目くんってけっこう体温高いんだね。知らなかった」
「……アツアツのカップルだからネ」
いつもの冗談をそうだね、なんて適当に流し、あんずと夏目は再び帰路につく。
内緒の対価が思ったよりも彼らしくなく、かわいい対価だったことはあんずの胸の内に秘めておくことにした。
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