遠く海の向こうにいた恋人のような人は帰ってきて間もなく一緒に住もうと一方的に家も家具もなにもかも用意してわたしを引きずり込んだ。元いたアパートを引き払い、越してきたマンションには何から何まで二人分が用意されていて、これでもしわたしが断るようなことがあったとしたら彼はどうしていたのだろうかと身もふたもないことを考えた。そんなことは、彼の気が変わらなければありえないのだが。
彼が卒業する三日前に告白をした。神経質で、傲慢。けれども優しく、繊細で、放っておけない人だ。彼とわたししかいない部室、擦り切れた声で告白をしたのを今でも覚えている。わたしの言葉に本当に驚いた顔をしていた彼の顔も。その顔があまりにも見たことのない顔で、わたしは思わず笑ってしまった。自分がそんなにも好かれているとは思っていなかったらしい彼は、壊れ物にでも触れるかのようにわたしを抱きしめてくれた。それから間もなく彼は海を渡った。
この恋はわたしから始めたものだ。留学中はろくすっぽ電話もつながらなくて、たまにエアメールが送られてくる程度の付き合いだった。だから帰ってくるまでは、恋人のような人、というぼんやりとした扱いをしていた。それでもわたしから縁を切ることはなかった。遠く離れても彼のことが好きだったから。
そんな人が急に帰ってきたと思えば家を用意してあるだなんてプロポーズのような言葉を言って、嬉しくないはずがない。家に帰れば彼がいる。急激に縮まった距離感に最初は落ち着かなかったが、それも最初の一か月だけだった。わたしが高校生の時と変わらない調子でいると、最初はぎこちなくいた彼もだんだんとよく知っている調子を取り戻した。何年も離れていたせいですこし人見知りしていたというのはあとから知って、わたしはまた笑った。
一緒に暮らして何か月かして、転機があった。あったというよりはむしろわたしが起こしたというべきか。いつだったかテレビで洋画の放映をしていた。三人がけサイズのソファにふたりで並んで見ていたけれど、特に気になっていたとか、放送を心待ちにしていたというわけではなかった、ただ何もない時間にただ流れていただけの映画。
ミステリーでありながら大胆なラブシーンが多くて、わたしより彼のほうが緊張した面持ちをしていたのを鮮明に覚えている。焦燥と苛立ちを孕んだ横顔がなんだかたまらなくなって、わたしは彼の唇に自分の唇を重ねた。映画に触発されたのかもしれない。彼は驚いた顔をしていたけれど、わたしを受け入れてくれた。
最初はソファの上で唇を重ねて、舌をねぶった。互いに顔を真っ赤にして無我夢中で貪っていると、テレビから一段と激しいベッドシーンの音声が流れる。それに彼の背中がびくりとはねて、寝室に行こうと促された。
寝室に行くと、現に酔ったような顔をした彼がわたしに覆いかぶさってきた。わたしから始めたことだから、すべてがわたし主導のまま終わったらどうしようかとすこしだけ心配していたが、そんなことは杞憂に終わった。口を重ねている間に服は脱がされ、下着だけを身にまとったわたしの体を彼は熱い指先でなぞった。まるでビスクドールの肌を確かめるようにひとしきり撫でた後、彼は不安げなか細いで「本当に僕でいいのかね」と言った。
自信家なのに、弱々しいのは彼のもっとも彼らしい部分だ。住まいまで用意しておいて何を今更と思ったが、これが彼の性分なのは分かっていた。そんなところも含めて好きになったのに、引き下がってなんかやるものか。彼の目を見て、彼の体を触って撫でて、胸に頭をあずけて「宗さんがいいんです」と告げると、彼は納得したのか、より深く口づけを交わした。
彼は初めてだったし、わたしも初めてだった。何も言わずとも避妊具が出てきて、おどろいたのを覚えている。すこし苦戦はしたものの、おおむねうまくいったように思う。切り揃えられた指の愛撫は心地よく、異物を取り込みたくないと日頃から言っている彼の口にわたしの胸や恥部が収まっていたのがいまだに信じられない。
わたしは幸せだった。彼もわたしの中で果てて、そのあと強く私を抱きしめた。まぎれもなく人生の中でもっとも幸福な一夜だった。
それからもう一か月が経つ。二回目がいつまで経っても訪れない。寝室は別々。仕事が忙しくてふたりでゆっくり過ごせる日も少ない。彼がオフの日があったとしても家で芸術に勤しんでいるものだからあまり声をかけられない。
彼は平気そうだ。わたしはちっとも平気じゃない。一度あの感覚を味わってしまったら、どうしてもよくばりな感情が顔を覗かせる。軽薄な女だと蔑まれるだろうか。嫌われることが怖くて自分からは言えない。一度目は大丈夫だったけれども、ここ最近はああいう雰囲気にすらならない。むしろ、彼がああいう雰囲気になることを避けているようにも思えた。リビングにいても早く部屋に戻ってしまうし、妙に距離を空けられる。
明後日は久しぶりにどちらも休みだ。この状況を打破したいと燻るわたしに、お風呂から上がったばかりの彼が声をかけてきた。
「明後日、君は予定が入っているかね」
「宗さんと久々に休みが合ったので、なにも予定は入れていませんよ」
共用のカレンダーには明後日の日付に青とピンクのペンで丸印がつけられている。どちらも休みということはしばらく前から分かっていた。彼は、宗さんはわたしから目を逸らしたまま話を続ける。
「僕が衣装デザインを手伝った劇団からチケットを貰ってね。二枚あるから、君も来るといい」
「それってデートのお誘いですか?」
「……まあ、そうなる」
宗さんの頬が赤い。お風呂に入ったからかもしれないけれど、いつまでもこういう不器用なところが愛おしい。もちろん二つ返事で良い返事をした。
別に二回目がなくてもデートだけで十分幸せじゃないか。浮足立って共用のカレンダーにデートの文字を書き入れる。他の誰が見るわけでもないのに「恥ずかしいからやめたまえ」と言う宗さんの言葉を無視してハートマークまで付け足す。俗物のすることだと怒るだろうか。彼の顔を見ると、照れた様子で黙りこくってしまった。ああ、わたしはこの人に愛されているのだ。訪れない二回目の夜のことなど気にならない。今日はぐっすりと眠りに落ちた。
待ちに待った明後日。開演時刻よりもだいぶ前に家を出ることになった。洋服が決まらず鏡の前であれでもないこれでもないと悩んでいると、宗さんがささっと組み合わせを決めてくれた。一分もかからずテキパキと要領よく選択された服を着て、彼の隣を歩く。家に居たら隣にいることはあるけれど、外で隣を歩くのは久しぶりだった。
人混みが嫌いな彼だから無理はしないでほしいと伝えるが、なんだかんだでわたしの買い物に付き合ってくれる。前から気になっていたハンドメイドのレザー製品を扱うお店でキャメル色の革にワックス加工を施した名刺入れを買ってもらった。わたしはアンゴラベロア素材のくすんだピンクの名刺入れをプレゼントした。わたしがプレゼントすると言うと彼の小難しそうな顔が一瞬、穏やかな笑みを口元で浮かべたので、きっとまんざらでもないはずだ。形は私が買ってもらったものと同じだから、すこしだけお揃いだ。すこしだけくらいがわたしたちにはちょうどいい。
宗さんはデザインした衣装を事前に教えてはくれなかった。当ててみろということらしく、なんだか試されているような気がして緊張したが、出てきただけですぐに分かった。サファイアブルーの布地が大胆にあしらわれたスレンダーなドレス。気品溢れる中にもフリルのかわいらしさが華やいでいてなんとも宗さんらしい作品だった。鑑賞し終わった後で答えてみるとやはり合っていたようで、宗さんは当然だというような満足げな顔をしていた。
評判がよかったらしく、次の公演の衣装もすでに頼まれているらしい。宗さんに衣装を発注した劇作家の方がえらく衣装を褒めていて、わたしまで嬉しかった。宗さんはというと、わりかし高校生の時と変わらずいつもの調子で自身のセンスを自画自賛しながらも劇の内容に事細かく感想を述べていた。
観劇後は宗さんが予約してくれていたレストランで食事をした。それを前もって言ってくれれば洋服選びも悩まなかったのに、なんて思いながらも宗さんがわたしと来るためにレストランを予約してくれていた事実が嬉しく、席についても顔が緩みっぱなしだった。向かい合って食事をするのは家に居る時ならいつものことだけれど、外で食事をする宗さんは雰囲気が洗練されている。留学しているとそういう経験も達者になるのだろうか。
所作振る舞いは完璧、食べている姿も美しい。わたしが家で作った料理を食べている時よりもなんだか美しく見えるのは、わたしがただ彼を好きすぎるせいなのだろうか。コース料理だったけれど、どれがおいしかったかまともに覚えていない。美しいものしか摂取したくないなんて偏屈な食事傾向を持っている宗さんにせっかく連れてきてもらったのに申し訳ないけれど、目の前の彼が美しかったからしかたがない。
生活には慣れたけれど、彼にはまだちっとも慣れていないことを思い知らされた。誘う時はとびきり拙いのに、外を歩くと夢みたいに素敵で、好きになったばかりの頃を思い出す。命をすり減らすようなパフォーマンスも一点に集中して裁縫をしている姿もなにもかも好きで好きでたまらなかった。最初は気難しい孤高の天才というイメージが強かったが、彼をよく知れば他人のことを考えられる人で、それ故に人あたりが厳しくなってしまう性質なのだと理解した。それからはすっかり彼に懐いてしまった。彼はことあるごとにわたしを訝しんで言うのだ、おかしな小娘だと。そう言う彼の表情が次第に柔らかくなっていったのを鮮明に覚えている。
だから言ってしまった、彼を惑わす愛の詰まった言葉を。告げずにはいられなかったのだ。あとは前段に語った通り。待ったけれど、確かに幸せであった。今も幸せだ。けれども彼が身近にいるせいか欲深くなっている自分がいる。欲を隠すことが正解とも思えない。彼の好きなところを見て、感じて、思い返して、なかったことにしていたはずの欲がよみがえった。もっと彼を愛したいなんて、本人には言えない感情。そして未だ訪れない二夜目に対する劣等感。
宗さんが人混み酔いしそうだということで自宅までタクシーで帰ってきた。今日も手は繋がない腕も組まない腰も抱かない、そんな物足りない距離感で帰宅した。切なさになんだか胸が痛む。
「あの、宗さん」
このまま一日が終わってしまいそうなのが名残惜しくて、考えもなしに呼びかけてしまった。ジャケットをクローゼットに片しながら、宗さんはこちらを見ずに返事をする。
「なにかね」
「え、えーっとですね……」
「…………」
「その…………」
口ごもれば口ごもるほど恥ずかしくなってきた。いきなり今夜いかがですか、なんて言えるキャラクターでもない。わたしがまごついていると、待ちくたびれた宗さんは呆れた顔でため息をついてわたしの横を通り過ぎる。
「話は寝る前でも構わないね? 僕はシャワーを浴びてくる」
「は、はい……」
通り過ぎた宗さんの背中を見送って、返事をするしかなかった。宗さんのシャワーが終わった後にわたしもお風呂に入った。湯船に浸かりながら自分の欲求不満をどう伝えようか悩んでいたらあっという間に時間が過ぎ去ってしまいそうだ。待たせるのもよくないと思い、わたしは念入りに体を洗って、お気に入りのボディミルクで体を潤す。下着も桃色のふわふわした半透明のレースがふんだんにあしらわれたお気に入りに手足を通し、鏡の前で何度もおかしなところがないか確認した。
無意識のうちに戦闘体勢。今日を逃せば次のチャンスはいつか分からない。つまり言い淀んでいる暇も及び腰になっている暇もないのだ。髪の毛を乾かして脱衣所からリビングへ移動すると、そこに宗さんの姿はなかった。宗さんの寝室の方へ目をやると扉のすき間から光が漏れていたので、きっとここにいるのだろうと思い、わたしはリビングの照明を消してから宗さんの寝室のドアをノックした。
「宗さん、入っても大丈夫ですか?」
「……ああ」
静かにドアを開けると、間接照明のついた部屋、ベッドに腰掛ける宗さんの面持ちは、シャワーを浴びる前とは明らかに異なっていた。すこし緊張したような、気まずそうにも思えるぱっとしない表情。らしくなく下がった眉が気になりながらも隣に腰をおろす。こうなったらまたわたしから誘うしかない。初めての時も仕掛けたのはわたしからだった。本音としては最初のうちくらい、一から十まで彼にリードしてもらいたいけれど望んでばかりではなにも得られないことは分かっている。彼がほしいのなら、黙っているだけではだめだ。緊張で表情筋がうまいこと動いているか不安なまま、沈黙を破る。
「宗さん、あのわたし……」
「あんず」
口を開いた途端、唇にそっと人差し指が押し当てられ、言葉が制止される。そしてわたしの名前を呼ぶ彼の声が聞こえたかと思えば、やわらかいものが唇にそっと触れた。なにが起こったのか分からず、目の前の思慮深い眼差しを見つめ返すしかできない。
「君が求めているのは、こういうことで違いないか」
「ど、どうして分かったん、ですか……」
まさか色事に鈍そうな宗さんに自分の感情がだだ漏れになっていたとはまるで考えておらず、焦りで口の端が歪む。これではあまりにも恥ずかしすぎるではないか。おどろくわたしの手に宗さんのわたしより一回り大きな手が重ねられる。絡められた指がぎこちなくて、彼もわたしと同じように緊張しているのだと知れた。わたしが問いかけると、宗さんは目を逸らして俯いてしまうが、その視線を追いかける。
「……あんな目で見ていたら僕だって分かる」
じっと目が合ったまま、ふたたび口づけが交わされた。そのまま呼吸が苦しくなるほど舌を吸われ、息も絶え絶えな体はあっという間にベッドに押し倒された。わたしの上にのしかかる宗さんは張り詰めた表情をしていたが、それでもわたしが背中に手を回して撫でると、体の力がすこし抜けたようで、また口づけが再開された。
最初は身動きがとれないほど両腕をがっちりと掴まれていたが、次第に彼の手がパジャマの下に潜り込んできて、ひとしきり肌を撫でたあとにボタンを取り外しにかかった。静まり返る寝室に、ぷちぷちとボタンを外す小さな音だけが聞こえる。その作業に集中している宗さんはまるでとても不器用なひとみたいで、思わず愛おしくなって額やら頭やらに口づけを落とした。その行為に恥ずかしそうに顔をしかめる宗さんはいつもの照れ隠しに咳払いをしながらボタンを外し終わる。開かれた素肌を前に、宗さんの喉がこくりと動く。彼の中の情欲が垣間見えた気がして、嬉しかった。
「宗さんは、こういうことするの嫌いじゃないですか?」
本能が嫌いじゃないと教えてくれている。だけどわたしはわがままだから、確固たる答えがほしかった。心の安寧を求める問いに、宗さんは困った顔できつくわたしを抱いた。
「……嫌いではないよ。ただ、自分ばかりがそう…なるのは…」
初めての夜、事が終わった後は互いに疲れてすぐに寝てしまったから言葉をかわす余裕などなかった。今改めて聞いてみると彼としては気持ちよかったようだ。だが破瓜したわたしがあまりにも痛そうだったから、女性にとっては苦痛なのではと遠慮をしていたらしい。つまりはわたしの体を気遣って自主的に禁欲していただけで、したい気持ちはあったのだと。
その優しい気持ちに心臓がぎゅうと締めつけられ、腹部が疼いた。そしてほっとした。自分に魅力がなかったとか、彼が淡白であるとかそういうことではなかったのだ。
「大丈夫ですよ。この間はわたしも、ちゃんと気持ちよかったですから」
安心してもらうためにそう耳元でささやくと、わたしを抱きしめていた彼の左手がすう、と下へおりて腹を撫でる。それからの一夜は一か月のしこりなどまるでなかったかのように、あっという間に過ぎていった。
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