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「……以上ですね。分かりました」
 審神者の執務室で次の戦の戦略を練り終え、部隊長の宗三左文字は立ち上がる。障子に手をかけて出ていこうとする宗三を見送ろうと審神者も連れ立つ。振り向きざま、宗三は審神者のほうを振り返って額にかかった前髪を避ける。なにも分からないまま宗三の顔を見上げると、出陣前にしては穏やかな笑みが近づいて、額に柔らかくて生温かい唇がほんの数秒、触れた。
 宗三はごくまれにこうして脈絡もなく審神者をからかう。ふたりは恋仲だから、この行為自体には違和感はない。しかし宗三は午前中だろうが昼間だろうが夜だろうが関係なくこういうことをしてくるのだ。誰も見ていないところでしかやらないからまだ審神者も許容しているが、案外いたずら好きというか、そんな言葉で誤魔化していいものか分からないが……とにかく審神者より一枚も二枚も上手でないと気が済まないらしい。
「では、行ってきます」
 数秒して離れたあと、ご満悦らしい微笑を浮かべた宗三は挨拶を残して審神者の執務室を去っていった。振り向かずに去っていく宗三の後ろ姿を眺め終えて、審神者は執務室へと戻る。障子を静かに閉めて、その場にがくりと腰を落とした。付き合ってしばらく経つが、突拍子もない恋人の行為には未だに頭が真っ白になってしまう。さすがに都度赤面することはなくなったが、またやられたと謎の敗北感を味わう。
 審神者はいつもやられっぱなしだ。宗三を照れさせたことは今まで一度たりともない。いつも審神者がからかわれるほう。悔しいがそれだけ宗三に惚れ込んでしまっているということでもある。しかしたまには宗三を驚かしたり赤面させたりしてみたい。すこし困った顔が見たいと思うのは恋人としても出すぎたわがままだろうか。だが毎度やられっぱなしなのだから、一度くらい勝ってみたい。
「……よーし」
 戦から戻れば、報告書を携えた部隊長の宗三が執務室をまた訪れるだろう。気の強い審神者はやると一度決めたらやる。恋仲といえどもやられっぱなしは趣味ではない。


 戦帰りの宗三は一度自身の部屋に戻り、此度の戦の成果を書き連ねた報告書を手に審神者のいる執務室へと向かう。大した傷は負っていないので手入れは不要だ。足取りは軽い。人に寄り付く気などまったくなかった宗三だが、今世ではこうして主である審神者にほだされている。彼女と共にあることで今の自分になった。それこそ、深く愛してしまうほどに。
 執務室の前までたどり着き、閉め切られた障子戸を前に、宗三は名乗り、主の返答を待つ。恋人といえども主であるから、審神者の応答があるまでは部屋に立ち入らないことにしている。一応自分の中で主と臣下、恋人の線引きはしている。
 しかしいくら待てども審神者の声が返ってこない。いつもなら、すぐに入室許可が下りるはずだ。
「……主?」
 違和感を覚えてふたたび呼びかけるが、されども返事はない。不審に感じて、宗三はおそるおそる障子戸に手をかけた。何事もなく開く障子、部屋の中を覗くように視線を遠くへやると、瞬間、腰周りを何者かに羽交い締めにされ、宗三は体勢を崩しそうになる。なんとか受け止めることができて目線を真下へおろすと、審神者が宗三の胸にすっぽり収まるように抱きついていたのが分かった。
 普段はこんないたずら地味たことはしない彼女がどうしてこんな真似を。しかもまるで一大決心をしたように真っ赤な顔をして。抱きしめ返したい衝動を飲み込んで、宗三は審神者を引き剥がす。その顔は平静を装う。あくまで彼女の前では、落ち着き払った理性的な自分でありたい。
「なにやってるんですか」
「あっ、えーっと……宗三を、驚かせようと思って……」
 大人しく引き剥がされた審神者はしどろもどろと言い訳を始める。なぜ驚かせようと思ったのかは分からないが、慣れないことをしたせいで照れ、目を合わせようとしない審神者がどうしようもなく愛らしい。抱きしめ返せばそれだけでは済まなくなってしまいそうだ。だが今は昼間。事に及ぼうとすれば宗三は間違いなく審神者から非難されるに違いない。
 宗三は障子を閉め、いたって冷静な声色で審神者の手を引いて元の位置、文机の前に座らせる。体の表面に残る彼女の柔らかい感触がもどかしく、むず痒い。それを耐えるために宗三はいつもより眉を釣り上げ、すこし厳しい表情で話を始める。
「先の戦の報告です」
「あ、うん……」
 審神者は大人しく正座して宗三の戦績報告を黙って聞く。宗三も一切無駄話はしないまま戦績報告を終えた。
「それでは、僕はこれで」
「……はーい」
 出陣前と異なり、審神者が見送ろうと立ち上がることもない。宗三は報告書を持ったまま執務室を出て、足早に自室へと戻ることにした。すこし抱き締められただけなのに彼女の香りが移ったみたいで、ふわりと甘く芳しい香りが宗三につきまとう。締め付けられ高まる心臓を抑えつけるように胸元を握るが、心臓の高鳴りが収まるはずもなく、まるで意味をなさない。
 最後まで彼女の前では平静な自分でいられただろうか。頬など緩まなかったか。宗三は自分でも思いの外、審神者に抱きしめられたことが効いていた。好き同士だから体を重ねることも多々ある。それでもやはり、自分の想定にないことにはまるで弱い。
 一刻も早く部屋に戻りたい一心から歩みは早歩きに、そして力強くなる。早く落ち着きを取り戻せる場所がほしい。どすどすと他の刀が聞いたら宗三らしかぬ足音だと言うだろうほどに踏み鳴らした。

 すぱんっと勢いよく障子を開け放ち、自室に入った。同室の打刀、蜂須賀虎徹と陸奥守吉行がいるのも気にせず、宗三は叫ぶ。
「なんっ、なんなんですかあのひと!」
「そんなに慌ててなしたがか」
「主のことかな」
 宗三に驚きつつも穏やかに反応してみせる陸奥守と宗三のたった一言から審神者関連だと察知する蜂須賀。ふたりは非番で読書の最中だったようだが、血相を変えて部屋に戻ってきた宗三を見て、読んでいた本を閉じる。二振りは優しいので、宗三がまったく脈絡もなく騒ごうともこうして自分の手を止めて向き合ってくれる。
 宗三はこの部屋ではわりと素の自分を見せている。だからと言って他の刀の前では猫を被っているというわけでもないのだが。同室のよしみで審神者への悩みや惚気や愚痴を聞いてもらう機会が純粋に多いから、自動的に素を見せることになる。
「先ほどあのひとの部屋へ報告書をお持ちしたのですが」
「手に持ってるそれか」
「そうですこれ…………あ、」
 本来であれば審神者へ渡すはずの報告書は右手に握られたまま。混乱のあまり持って返って来てしまったことに宗三は言われてようやっと気づいた。
「置いてくるの忘れたんだね」
 蜂須賀の微笑ましいものを見るような視線がつらい。この本丸の初期刀である蜂須賀にとって審神者は兄妹のようであり、種や性別を超えた友人のようでもある。そんな審神者と、仲間である宗三の恋を当初から暖かく見守ってきたため、ふたりの間で起こる物事すべてが楽しくて仕方がないのだろう。
「あのひとのせいです……あのひとが、突然抱きついてきたりなんかするから!」
 動揺で引き起こした失敗は審神者のせいにした。口を開けば開くほど、先ほどまで抑えていた感情が溢れ出し、顔に熱が灯る。あの場面で平静を装えた自分が信じられないほどだ。
 審神者には絶対に見せられないような赤を帯びた頬を着物の袖で隠しながら話をしていると、気持ちの昂ぶりや喜びを示す桜の花びらがひらひらと舞い始める。しかも先ほどまで我慢していた分、いつもより多い。
「なんじゃいつもの惚気か。おんしゃあまっこと素直やないのう」
「いつも惚気ているような言い方はやめてください。誤解を生むでしょう」
「いや、いつも惚気てるよ」
「ほうじゃほうじゃ」
 二振りに惚気ていると指摘され、宗三は悔しそうに口をつぐむしかない。こうして三振りがやんややんやと騒いでいる時、足音が近づいていることに気が付かなかった。
「宗三いるー?」
 呼びかけてすぐ、遠慮なしに障子を開けたのは話題にのぼっていた審神者だった。自身を探す声に反射的に振り向いた宗三だったが、しまったと言わんばかりに口元を歪ませて審神者から顔を背ける。この蕩けた顔を見せるわけにはいかない。
「おお、主」
「ごめんね、なんか楽しそうに話しているところ」
「いや、大丈夫だよ」
「報告書回収しにきたんだけど。宗三が持って行っちゃったから」
「ああ、はい。これですね、はい」
 慌てるあまり、口調もあやふやになる。顔を背けながら右手で報告書を差し出すが、伸ばした右腕は強い力で押しのけられてしまう。怖いもの知らずにずい、と懐に侵入してきた審神者は宗三の顎と頬を鷲掴みにし、わりと力づくに振り向かせた。こんなことをしてくるとは夢にも思わず、ばっちりと目が合って動かせられない。果てには左目にかかっている前髪までどかされて、顔全体を凝視される。
「宗三……」
「っ、なんですか」
「……なんか顔赤いけど、ぶつけた? 宗三もドジなところあるんだね」
 からかうような笑い声。ついでに様子を見守る二振りのほうからも堪えきれなかったらしい笑い声が聞こえる。あまりにも素っ頓狂な言葉に、宗三の右手に力が入った。ぐしゃりと握り潰れ悲鳴をあげる報告書に、審神者は驚いて用紙を取り上げた。
 赤面の理由が自分のせいだとは一辺たりとも思っていないらしい審神者に、宗三もいよいよなんで自分ばかりと腹が立つ。してやられてばかり、わなわなと震える宗三は負けじと審神者の両頬を引っ掴み、羞恥の滲んだ剣幕を審神者に向ける。
 この様子を間近で見せられている陸奥守と蜂須賀は、今にも痴話喧嘩が始まりそうな気配を察知し、ふたりに背を向けひっそりこっそり避難を開始する。無事に部屋を出た後で聞こえたのは、素直になれない仲間の叫び。これを聞かされるのもある種の惚気だと笑いながら、二振りは和やかに避難場所を探すのであった。

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