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 がたんっとなにか落下する音が聞こえたのは陽が沈みかけている薄暮の頃だった。
 台所とすぐつながっている広間で今月の予算の割当を考えていた審神者の耳にはひどくその音が物騒に聞こえ、血相を変えて台所へと顔を出す。
 床には刃こぼれのした包丁。その近くに呆然と立ち尽くしていたのは料理上手で通っているはずの近侍であった。
 まさか彼が包丁を落としただなんて考えられず審神者の目は思わず包丁と近侍を行ったり来たりする。
 よく見れば近侍の指先からはなかなかの量の血液がたらりと腕を伝っていた。そのことに気がついた審神者は慌てて駆け寄り、包丁を拾い上げる。
 近侍はというとどちらかと怒りで顔が歪んでいて、自身の指先を見て下唇をいやに噛む。
「歌仙、だいじょうぶ?」
 彼のことだからきっと刃物で怪我をした自分が許せないのだろう。顔を見ていればなんとなく考えていることがわかってしまう。
 苛立ちを隠そうともしない彼の背中を優しくなでつけると、その感触から審神者の姿に気がつき、今度はうんざりした顔で深いため息を吐く。
「……君か」
「どうしたの。なんか考えごとでもしてた?」
 刀剣が怪我をすることはもうすっかり慣れたもので審神者も多少の出血なんかでは驚かなくなってしまっていた。
 しかし流血の原因が歌仙兼定にしてはとても珍しく、なにかわけでもあるのだろうかと審神者は伺いを立てる。
 だがそこには触れてほしくなかったのか歌仙は眉間に縦皺を刻みながらふいっと顔を逸らし、刃こぼれしてしまった包丁を破棄するために新聞紙に包んでしまう。
 その間も出血したままで、歌仙の血液がまな板に染みをつくる。じんわりと滲んた赤は奥まで染み込んで簡単にとれそうにもない。
「止血しよう」
「放っておいてくれ」
 審神者が手当てを促しても歌仙は食い気味にそれを拒む。
 冷静になりきれないのか深呼吸のようなため息がしめやかな台所に響く。
 ふだんから料理をするくせに手元がくるって指を切ってしまうなんて。歌仙はそのことが恥ずかしくて仕方がなかった。
 しかもその現場をよりにもよって親愛なる主人に見られてしまうだなんて。料理のすべてを投げ出して部屋に引きこもってしまいたい気分に陥った。
 苛立ちと恥ずかしさから歌仙は審神者のほうを見ることができない。彼女は怒っているのか悲しんでいるのか、それとも笑っているのかすらわからない。
 歌仙から目を逸らされ続けている審神者は歌仙の態度にこそ苛んでおり、彼の心情を察しているくせにまったくお構いなしに着物の裾を引っ張り台所から連れだそうとする。
「ほら、絆創膏貼ろう」
「いやだ」
 まるで子どもをあやすような言い方だ。それが気に食わなくて歌仙もますますムキになってしまう。
 歌仙のほうが圧倒的に肢体がでかいせいで、しょせんただの女性であるか弱い審神者が引っ張っても一寸足りとも動く気配はない。
 なぜこんな時に駄々をこねるのか。審神者は一旦むりに引っ張ることをやめて思案する。……そうしてひとつの可能性にたどり着き、審神者は慎重に言葉を並べる。
「……心配しなくてもだれにも言わないよ」
 歌仙が包丁で指を切っていること自体に恥じていることがやっと理解できた審神者がそう声をかけると歌仙は少しだけ顔をあげる。
 おそらくもうひと押し。審神者は歌仙に向けてはにかみ、怪我している手にそっと触れる。
「包丁とまな板も新しいの買ってあげるから」
 きっと自分が粗相をしたという痕跡を消さねば納得しないのだろう。
 少々痛い出費ではあるが毎日美味しい食事を作ってくれる愛しい近侍のためだ。致し方ないと審神者は予算の組み直しを心に決めた。
 新しいものを買うという審神者の譲歩にすこしだけ気をよくしたのか、歌仙は尖らせていた唇を平たくしてわずかに口角をあげる。
 まさか包丁とまな板を新調したいがための作戦であったのかと審神者はうっすら考えたが、言ってしまったものは仕方がないのでそれ以上言及するのはやめた。
「よしじゃあ絆創膏貼ろう」
「それはいやだ」
 ああそうだった、痕跡を残したくはないのだった。
 なんて頑固なのだろうと今度は審神者が唇を尖らせていると、その唇にふに、と血液の滴る指先が当てられる。
「君が舐めたら治る」
 つまり舐めて治せと。難しいことではないが簡単なことでもない。
 しかしさあ舐めろと言わんばかりに指先を押し当てられ、審神者は自分に拒否権がないことを悟った。
 一体どこでそんな知識を植えつけたのかと彼の知識に審神者は頭が痛くなったが、おそらくこの日の本には唾を付けておけば治るという根拠も理屈もない文化が太古より根づいていただろう。
 歌仙の旧主がそんなことをしていたかどうかはさておき、知っていてもなんらおかしいことではない。
 審神者は観念して歌仙の指先を咥えて傷口に舌を這わせる。
 鉄分の濃い血液の味が口いっぱいに広がる。望まれているからしているだけで、血の味とにおいなんてまったくよいものだとは思えない。
 ゆっくりと傷口を舐めていると、とつぜん指を口から抜かれて銀糸が舌と指先をつなぐ。てらてらと唾液のせいで指が光って見え、審神者にとっては恥ずかしくて仕方がない。
 だが傷口は不可思議なことにしっかりと塞がっており、歌仙は満足気に笑んで出血していた部分を審神者に見せつける。
「ほら直ったろう」
 歌仙が人の気も知らずほほ笑んでいることが妙に悔しくて、審神者は赤面のまま顔を俯かせる。
 恥ずかしいことをしている意識なんてまるでない歌仙は、暢気に明日にでも包丁とまな板を買いに行こうと彼女に提案しながら料理を再開させる。
 舌先にじんわりと赤く残る秘密の味を忘れることができないまま、審神者はただ黙って頷くしかなかった。


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歌さに版深夜の60分一本勝負様 @kas_sen_1h
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