審神者が急に思い立って蔵の整理をしたいと言い出したのはとある日の正午前であった。
非番であった近侍の歌仙兼定は彼女の思いつきに半ば呆れつつも共に蔵の片付けをすることにした。
なんせ蔵には書物や備品のほかにも重たいものや危険なものが山のように置かれている。いつ崩れるかもわからないし、ひとりで整理するには危険な場所であった。
ひんやりと石のような冷たさの蔵は薄暗く、燭台を灯して蔵の入り口を開けたままにしておいてもまだまだ薄暗い。
やけに明るい調子の審神者は年代物の書物を発見してろくに整理もせずにばらばらとななめ読みをしている。これではまったくなんのために来たのかわからないではないか。
さては仕事を休む口実として蔵の整理をしたいと言い出したのではと歌仙は思ったが、いまはそこまで仕事が溜まっているわけでもない。休暇がほしいのならこんなまどろっこしいことはしなくてよいはずだ。
そもそも蔵はある程度整頓されており、審神者が片付けをするほど荒れているわけでもなかった。ますますなにがしたいのか歌仙には審神者の心理が読みかねた。
薄灯りに照らされて書物をめくる彼女の顔を眺めながら一言物申そうと咳払いをする。
暇を持て余しているのなら歌仙はもっと別のことがしたい。街をただ歩くだけでもいい。縁側に腰掛けてお茶を飲むでも、すこし手間をかけた料理をするでもいい。ゆったりとした時間を主と過ごすのもたまには悪くない。
「ねえ歌仙」
主、と歌仙が呼びかけるよりも審神者が先に歌仙を呼びかけた。
出鼻をくじかれた歌仙はすこし言葉を詰まらせながらも主の呼びかけに応える。
薄灯りのなか、審神者はどこか寂しそう柳眉を下げてほほ笑む。目はどこか潤んでいて、その涙は薄灯りに照らされる。
歌仙はその表情に息を呑む。あまりにも美しく、そして儚い。なんて顔をするのだとすら思ってしまった。
歌仙が自分のほうを向いたことを確認して、審神者は視線を下げ、口角を上げた薄い唇でぽつりと声を零す。
「わたし結婚するの」
嘘か真かわからないその言葉に一瞬、はたりと心臓の音が止まった気がした。
茫然自失という言葉がまさに相応。審神者の元気な声に歌仙はなんとも反応ができなかった。
彼女が結婚なんて。だれと、いつ、どうして。問うことは山程あるのにすべてが言葉としてでてこない。あまりの驚きにからだの力が抜ける。
歌仙は常に審神者の傍らに居た。刀剣たちを率いる将としての姿、女性として素朴で無垢な姿……彼女のすべてを見てきた。
そうして、歌仙はいつの間にか人間としての色彩が豊かで魅力的な彼女をひっそりと愛していた。
ひっそりとは言っても、ふたりはすでに口で伝えずとも分かり合える仲になっていた。審神者は歌仙の気持ちをわかっていたし、歌仙も審神者の気持ちを理解していた。
甘んじていたのだ。現状に歌仙は満足していたし、審神者もそうだろうと思っていた。この時はどちらかの命が尽き果てるまで恒久に続くのだとさも当たり前のように決めつけていたのだ。
だがそれは大きな間違いだった。永遠などという愚かな幻想は歌仙が愛する審神者の言葉によって打ち砕かれた。しずやかに愛を育む時間は終わりを迎えたのだ。
彼女を縛りつけるものなどなにもない。曖昧で、ぼんやりとした相思相愛は灯火を消されてしまった。
審神者はぱらぱらと本をめくるのを止めて蔵の奥へと入っていく。その姿はまるで彼女が自分の知らないところへ行ってしまうように歌仙の目には映った。
いいや事実そうなのだ。彼女は自分の手の届かないところへと行ってしまう。肉体的にそうでなくとも、精神的に。そのことの恐ろしさに心根がざわざわと蠢く。
後ろを向いたまま審神者は独り言のようにことの経緯を漏らしていく。彼女が蔵に来た理由が分かった気がしたが、そんなことはもうどうでも良かった。
「もうね、いい年なんだからこっちに戻ってきて結婚しろって親が言うの。もうびっくりしちゃった」
――わたし、まだそんな年じゃないのにね。晩婚化の時代だっていうのに。そう続けて審神者は虚空な笑いを落とす。
入り口付近に置かれた灯りから遠ざかっていく彼女がこのままいなくなってしまうような気がして歌仙はざり、と固い地面を引きずるように一歩足を進める。
しかし一歩足を動かすのがやっとで言葉がなにもでてこない。正確に言えば言葉を投げかけるのが怖かった。君はどうしたいんだと聞くことすら彼女を傷つけてしまうのではないかと思ってしまってできやしない。
思ったことをすぐ口にできる性格であったならどれほど楽であっただろうか。自分の心情を素直に吐露できる性質であったならどれほど苦しまずに済んだだろうか。
唯一無二の大切な存在が他人のものになってしまうというのに自分はなんて臆病なのだろう。失いたくなどないはずなのに、こんなにも自分は億劫であったのかと歌仙は自嘲する。
僕の手を取ってくれと、伝えられたらどれだけ幸せだっただろうか。愛しいひとへの本音を飲み込み、伸ばしかけた手に薄暗い沈黙を掴んで彼女の幸せを願うのだった。
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