1.悪魔との邂逅



 陽が沈み始めている公園では、少女がベンチに学校指定のかばんを置いて腰掛けていた。
 目の前のブランコに乗っている子どもは、エプロン姿の母親が迎えにきて、まだ遊んでいたいとぐずりながらも帰っていく。 
 仲睦まじい親と子の姿は、なによりも美しく、平凡な幸福を感じさせる。
 今日の晩御飯は、と問いかける子どもに、秘密、と幸せそうに微笑む母親。どこにでもありふれた風景は少女の胸に突き刺さる。
 さっきまで子どもが遊んでいたブランコはまだ、ぎい、ぎい、と金具同士がこすれ合い、古びた甲高い音で鳴きながら揺れている。
 均等な揺動を見ながら、少女は膝にできた青痣を無意識にさすりつつ、ひとりになった公園で小さく溜め息を吐く。
 ブランコから視線を外してふと見上げると、公園にそびえ立つアナログの時計が目に入る。
 午後五時三十分を過ぎたぐらいで、秒針はゆっくりと着実にすすんでいる。 
 時計から目をそらし、かばんから携帯電話を取り出すと、画面の左上についたライトがちかちかと青色に点滅する。着信履歴が五件、十分刻みに鳴らされていたらしい。
 すべて同じ人物からで、少女はその名前をぼうっと見た後、履歴をすべて消して携帯電話をしまおうとした。
 しかしその瞬間、六回目の着信でバイブレーションが手の中で振動し、少女は慌てたはずみで電話に出るボタンを押してしまう。
 おそるおそるスピーカーに耳を当て、少女は途中途中に小さく返事をする。その声は震えており、明らかに怯えていた。
 そのうち一方的に電話が切れ、耳から携帯電話を離してかばんにしまう。
 誰もいない暗がりの公園に、ひとりの溜め息が溶け込む。現実から目をそらすように両手で顔を覆う。
 このままこうしていたいと、少女は心底思った。自分に危害を加えるものすべてを自分から遠ざけてしまいたかった。
 ――家に帰りたくない。しかしそうは思っても帰らなければ自分は生活できないし、否が応にも明日は訪れる。それに抗うすべは、今のところ持ちあわせてはいない。
 しょせん家庭という鎖に雁字搦めにされるしかない無能で、行動力のないおろかしい自分が、少女は一番きらいだった。
 今にも泣きだしてしまいそうな心境のまま、少女は顔をあげる。
 先ほどまで揺れていたブランコも、もうすっかり止まってしまい、地面には陽すら差し込んでおらず影ばかりが支配する。
 少女はかばんに手をかけ、ゆっくりと立ち上がる。
 立ち上がった瞬間、ごう、と風が吹き抜け、木々を揺らす。葉の触れ合う音が夕闇の不気味さを際立たせている。
 出口へ向かう少女の足取りは重い。ざり、ざり、と砂を引きずるような歩き方からして、よっほど気重なのがわかる。
 ざり、ざり、……ずり、ざり、ざり。
 出口を出た瞬間、砂を引きずって歩く音とは別に、まるで人が無理やり引きずられているような音が混ざって聞こえたことに少女は気がついた。
 思わず立ち止まってしまい、その音に耳を傾けると、目の前の住宅街、真っ直ぐ進めば左右に分かれる路地があり、その方から、ずり……と音が聞こえてきた。
 聞きたくない、気味の悪い音は耳にこびりつき、目を背けたい路地から目が離せない。
 最悪の想像しかできない少女は、路地ちかくの電柱についているカーブミラーに目をやってしまう。
 ……そこに映っていたのは、さきほどの母親が子どもの髪の毛を持って引きずっている姿だった。
 母親は正気ではない。目の玉はひっくり返ったかのように左右とも上のほうをだらりと向いていて、額から流れている血を気に留める様子もない。
 それに引きずられている子どもはぴくりとも動かす、手も足もだらりとただ胴体にぶら下がっている棒のようだった。
 奇怪な音の正体は、子どもの手足が引きずられている音だったのだ。
 おどおどしさのあまり、カーブミラーから目を離せずにいると、鏡越しに母親と目が合った気がした。血液がだらだらと吹きこぼれる口角がにんまりと上がる。
 ひっ、と小さな悲鳴が少女から漏れる。
 わずかな声を聞き取った母親は、ごどりと子どもの頭部を手から放し落とすと、カーブミラーから姿を消して、――路地からぬっ、と顔を覗かせた。
 この世のものとは思えない、目を剥いて笑む人間の形をした奇形の悪魔に少女は恐れおののいて、肩にかけていた革かばんの取っ手をぎゅっと握りしめる。
 自分がいま、何と遭遇しているのかまったく検討もつかない少女は、奇形の悪魔から目をそらさないようにして後ずさる。
 母親だった、人間だった悪魔の口から血液が零れ落ち、ゆっくりと少女を追い詰めるたびに地面を赤い点で汚した。
「……ウ、……ウ、ン……ア、ア゛……ウ……」
 意味があるのかわからない言葉を口走る悪魔は、髪の毛を振り乱し、血肉の詰まった爪で少女を掴もうと必死で手をのばしている。
 少女は今にも錯乱しそうな頭をなんとか落ち着かせながら、後ずさりを止め、後ろを向いて一気に走りだした。
 足の早さに自信はない。持久力にも自信がない。けれどもあの悪魔から逃げ出すにはとにかく走るしかなかった。
 しかし得物が逃げたと判断したのか、悪魔は奇声をあげながら少女の後を追いかけ始める。血に汚れたサンダルは脱げ、脚は両方とも曲がるはずのない方向に折れ曲がっている。
 後ろを振り返って悪魔が追いかけてきたことに少女はなおさら青ざめた顔で走る。肩にかけたかばんが重たい、無理に走ってかかとが靴ずれになり始めている。
 まるで現実だとは思えないような事実に少女は、涙をこぼしながら住宅街に逃げ込む。
 右に曲がり左に曲がりと、なるべく悪魔を翻弄するように走る。自分でも、自分がいまどこにいるのかまったくわからない。
 悪魔は壁にぶち当たり、いくら血を流しても少女を追いかけてくる。無尽蔵の体力があるかのように、疲れている様子はまったくみせない。
 一方の少女は足もふらつき始め、頭に酸素がいかずくらくらと、意識が朦朧とし始める。口は呼吸するのがやっとで、助けを呼ぶ声も出せない。
 そしてついには地面に落ちていた、ただなんてこともない小石に蹴躓いて、勢いよく転んでしまう。
 からだは固いコンクリートに投げ出され、それと同時にかばんの中身も飛び出す。散らばった参考書にペン類、それと、携帯電話。
 ちかちかと携帯電話のランプがまたたき、死に物狂いで手をのばすが、体が動かない。その時にようやっと気づく、足が何者かによって掴まれていると。
 少女が血相を変えて後ろを振り向くと、追いかけてきた悪魔が片手で軽々と脚を持って胴体を引きずっていた。
 ずり、ずり、と引きずられる少女の胴体。膝が、腹が、手が、冷たい地面に引っかかれて熱い痛みに侵される。
 必死で携帯電話に手をのばすが、その掌にはなにも掴めない。
 だんだんと動きが早くなっていく心臓、ごちゃごちゃになる脳内。少女の頭にはもはやまともな考えは浮かばない。
 殺されるのだと思った。さっきの子どものように。
 死を覚悟した時、脳裏に浮かんだのは自身のくだらない人生。映像のように鮮明に浮かんでくる。
 実に中身の無い、空虚で、意味のない日々だった。後悔と未練ばかりが浮かんでくる。
 次に浮かんできたのは、もうこの世にはいない両親の後ろ姿。顔はとっくの昔に忘れてしまった。
 救いのない世の中に、少女はついに救いを求めることをやめてしまった。
(……わたしの人生ってなんだったんだろう……)
 少女が目を瞑り、この世から目を逸らした瞬間だった。
 ドン、ドンッ、と二発。耳に痛い銃声が間近で聞こえて、はっと現実に引き戻される。
 持ち上げられていた脚は地面に落ち、少女は自分の感覚を疑う。
 ひどい耳鳴りのまま少女はおそるおそる目をあけ、上半身を起こすと、脳天を撃ちぬかれた悪魔が少女に覆いかぶさるように倒れこんだ。
 人間の、死体。まだ温かみの残るそれの血液が少女の制服を汚す。
 不可解な声も発さなければ、目も見開いていない。ただの女性、ただの母親の死体は悪魔のような形相などしていなかった。
 あまりにもその女性と悪魔のような姿が一致せず、まるで先ほどまでの奇怪な行動が夢の出来事であったかのようだった。
 少女は事実関係を確認したあと、恐怖から解放された気がして、からだから一気に力が抜け、頭から足の先まで、感じたことのないぐらいの脱力感におそわれる。
 そして、世界がひっくり返るような感覚に陥って、少女はふたたび地面に倒れこんでしまう。

 耳を抑えながら悪魔に弾丸を撃ちこんだ少女は、拳銃をおろして太ももにつけたホルダーにしまうと、庇護対象の一般人少女から、悪魔の死体を退かす。
 頭を打つようにして倒れこんだ少女の首元に手を当て、脈拍を確認し、溜め息をつきながら少女は携帯電話を手にして、どこかへ電話をかける。
「……こちら、黒英。北上二丁目の交通事故によるディアボロスの被害鎮圧完了。……生存者一名。応援を要求する。以上」
 端的にそれだけ述べると、少女は倒れた少女の荷物を拾い集める。
 近くの学校の、真新しい参考書、ペンや携帯電話などをかばんの中へ無造作に詰め込む。
 すこしだけ遠くに投げ出された生徒手帳。少女は生徒手帳を見つめ、すぐに目をそらしてそれもかばんへ投げ込んだ。
 荷物を集め終わってすぐ、車の排気音が近くで聞こえた。自身が呼んだ応援だとわかった少女は、かばんを応援の人間にさっさと預けてしまう。後始末はすべて任せるつもりらしい。

 ――うっすらと意識の残っていた少女は、自分を助けてくれた少女の後ろ姿を目で追う。なにかを話しているようだったが、少女の耳はうまく機能しておらず、聞き取ることは困難だった。
 言葉を発する気力すらない。意識が遠のいていく。その不安定な間隔のゆらぎに身を任せ、少女は意識を失った。
 自分を助けてくれた少女の、後ろ姿だけを覚えて。


 *


 次に少女が目を開けた時、そこはまったくしらない場所であった。
 目をあけると視界がぼやけた。見覚えのない天井に理解は追いつかない。
 鈍痛がずきずきと後頭部を苛み、少女の思考の邪魔をした。
 なんとか状況を把握しようと少女が顔だけをわずかに横へ向けると、ベッドサイドモニタと薄汚れた自分のかばんが目に入る。
 モニタからは落ち着いたぴ、ぴ、という音が等間隔に流れている。黒背景に緑色の大きく描かれた数字と、緑色と赤色の波形。おそらくこれは心拍などを計る機械だ。ここが病室であるということがなんとなく認識できる。
「気がついたかしら」
「……!」
 うしろを振り返ると、妙齢の女性がそこに立っていた。身なりからして看護師や医師の類いではなさそうなその女性は、少女の額の汗をそっと拭いてほほえんだ。
 女性は少女の寝ているベッドの隣においてあったパイプ椅子に腰掛けると、続けて口をひらく。
「わたくしは松原蘭。あなたは――江波有希さん、でよろしいですか?」
「は、はい……」
 有希がベッドから上半身を起こそうとすると、電動リクライニングが動いてむりなく体が起き上がった。
 松原蘭と名乗る女性は有希に手を差し出し、かるく握手をし、話を続けた。
「あなたの身柄は我々、防衛省特殊自衛軍東京本部に保護されています。『ディアボロス』と遭遇した被害者として」
「でぃ……ディア、ボロス……?」
 松原の口からとびだした聞きなじみのない言葉に、有希は困惑したようすで聞き返してしまう。
 松原は神妙な面持ちで有希の問いに答える。
「ディアボロスとは、ギリシャ語で悪魔という意味なのですが、神話などでいう悪魔という意味ではございません。私たちのいうディアボロスとは、人間の脳を喰らう寄生虫のことです。彼らは人間の脳を喰らい、人体を操ります。そして仲間を増やすために人間を傷つけ、脳に入り込みやすい人間を増やすのです」
 有希はへたすれば自分のあの女性のようになっていたのではとぞっとした。
 しかし、にわかに信じがたいという気持ちもあり、うまく話に反応することができないでいた。それがあまりにも有希の知る現実からかけ離れていて、空想やフィクション小説のような話だったからだ。
「で、でも……そんな話いままで一回も聞いたこと……」
「政府が言論統制をしていますから、この話が公にでることはありません。私たちは国民の皆様が知らないところで秘密裏にディアボロスの研究をし、対策を練り、殲滅する日々を送っています」
「…………」
 有希は、自らの命にも関わってくるようなことが政府によって隠ぺいされていたという事実に唖然とした。
 知っていればどうなったのかと言われれば口をつぐむしかないのだが、じっさい有希は生きるか死ぬかの危機に瀕していたのだ。隠匿されていた真実に、怒りのような感情がこみ上げる。
 しかし、有希は怒りの感情を表に出すことが下手で、黙っていることしかできない。
 そういえば、物心がついた時から不自然な死の話は多かった気がした。それがあまりにも日常的すぎて、有希はその原因をふかく勘ぐったりしたことはなかった。
「……まったくの絵空事に聞こえるでしょう。ですから、無理に信じていただかなくても構いません」
「はあ……」
「幕僚長」
 横開きのドアが少し開いて、有希と同じ年頃ぐらいの少年が顔を覗かせた。
 有希が少年のほうを見ると、すこしだけ目があったが、恥ずかしくなって有希はすぐに目をそらしてしまう。
「あら、蓮利さん」
 蓮利と呼ばれた少年は松原の隣にきて、有希に会釈をする。
「目が覚めたんだね、よかった」
「あ、ありがとうございます……」
「こちらは春鐘蓮利さん。ここで働いているのよ」
 自分と同い年ぐらいの少年が働いている、ということに有希は疑問を持つが、それに対して聞くことはできなかった。
「ところで幕僚長、検査結果がでました」
「ありがとう」
 松原は蓮利から数枚の書類を受け取ると、それを黙視する。
 その顔からは先ほどのようなにこやかな表情は消え、眉間にしわが刻まれ、鋭い顔つきになる。
 目線が下まで落ちた後、その書類を自身の膝に伏せると、有希のほうを見た。
「とくに異常はないようですね。気を失っていたので念のため検査をさせていただきました」
「そ、そうですか」
「……あなたの、そのからだ中の傷は今回の事件でついた傷ではありませんね」
 松原のその言葉に、有希の顔は青くなる。
 七分袖の病衣からのぞくいくつになっても消えない痣。有希はとっさにそれを隠してしまう。
 しかしその行動が逆に、松原の不信感を煽った。
「ち、ちがうんです……これは、あの、その……わたしが……」
「ごめんなさいね。初対面の人間には触れられたくのないことでしょう。でもわたくしはどうしても、あなたのからだを見て、黙っていることはできませんでした」
 有希は必死で弁明しとうとするが言葉が出てこない。なぜならは弁明は嘯きであるから。
 少女のからだには数え切れないほどの傷がある。それはすべて虐待痕で、小学生ぐらいの時につけられた古い傷や、人の目のつかないところには最近の傷もある。
 しかし有希はその傷をつけた人間をかばおうとした。虐待被害者は加害者をかばう行動は、よくある被害者の麻痺した意識である。
 松原は有希の手をとると、真剣な眼差しを有希に向ける。
「そうですわ! よろしければ有希さん。あなた、この特殊自衛軍で働きませんか?」
「幕僚長! それは……」
「今回のあなたのように、ディアボロスに襲われている人々を助けるのが我々の仕事です。きびしい仕事ですが、お給料はもちろんでますし、衣食住、学校のことは今後、我々が面倒をみさせていただきます」
「で、でも……あんな、人間と戦うなんて……」
「もちろん、訓練期間を経て軍のほうに配属させていただきます。つらければ途中でやめても構いません」
 家に帰る恐怖が取り除かれる。けれども、それにはまたべつの恐怖に耐えなければならない。
 迫られた二択に、有希は混乱し、悩んでいた。
 このまま虐げられ、なんの娯楽も、救いもない、虫のように生きる日々を再開するのか。
 それとも、現状の苦難から逃れ、人を救い、人を殺める新しい恐怖と戦う生活を始めるのか。
 天秤にかけられた過酷なふたつの人生。どちらを選んでも、天国ではない。
「…………やります」
 思ったよりも、有希の選択は早かった。
 それほどに有希のからだに刻まれた傷はふかく、重たいものだった。とりあえず今の状況から逃げたい。その思いでいっぱいだった。
 有希の言葉に、松原は笑みを浮かべて、二度目の握手を交わす。
「その言葉を待っていたわ、江波有希さん。ようこそ、こちらの世界へ」
 かくして、少女は新たな世界に足を踏み入れた。
 この選択が幸いを生むのか、それとも……。