4.運命への序章



 よく、思い出す光景がある。
 暗くてせまい、ほこり臭いクローゼットに閉じ込められた。
 ――ここにいて、いいって言うまで出てきてはだめよ。
 顔も声も合っているのかわからない、母親が自分にむけて言う。
 母が離れていって、自分はただただ震えている。
 クローゼットの戸が完全にしまっておらず、わずかに見える景色からは目をそらせなかった。
 すき間から母の顔は見えずともからだの一部分が見える。
 母は何者かからの圧力に耐えているようで、何度も聞こえる扉を叩く音の合間に、苦しそうな母の声が自分の耳にもはいる。
 扉を叩く音よりも、母が苦しんでいるその声こそが自分によりいっそうの恐怖を与えた。
 視覚からの情報よりも、ほんのわずかな音のほうが小心を刺激し、からだをびくびくと強張らせる。
 しばらくすると、おどろおどろしい男のうめき声と、母親の悲鳴が耳をつんざく。
 一刻もはやくここから逃げ出したかった。しかし、いま出て行ってしまえば、母のいいつけをやぶることになってしまう。
 目を閉じ、耳を塞ぎ、下唇を噛んでからだを小さくする。現実から逃避した。
 現実を見てしまえば、ここから出て行ってしまいたくなる。約束は守らねばならないと幼心ながらに考えた。
 ただただ耐え忍んだ。視覚と聴覚を閉ざした後のことはもう覚えていない。幼いころの自分の遠い記憶はまるで夢のようにかすんでいる。これが事実なのか、夢なのかすらもわからない。
 再び目を開けた時にはもう既に叔父の家にいて、新しい生活が始まった。
 自分の両親は不慮の事故で亡くなったと聞かされた。
 その時は死というものがなにか理解できなかったが、もう二度と会うことはできないというのがわかった時、自分は涙も流さずただ呆然とした。
 叔父は身寄りのない自分を引き取り、とてもよくしてくれた。
 叔父夫婦には子どもがおらず、自分を我が子のように慈しんでくれた。
 愛する父と母がこつ然と姿を消してしまった自分に与えられた場所は案外暖かく、しばらくは快適に生活できた。
 けれども、そんな生活もすぐに破綻してしまった。

 白い会場にまみれる喪服の参列者。耳に通り過ぎるように流れるお経の声。
 となりに座る叔母は、手に真白いハンカチを握りしめながら、涙を浮かべ、ひとりひとりに頭を下げていた。
 自分もそれにならい、何度も何度も頭をさげた。
 目の前の木棺には、死化粧をほどこされた叔父が眠っていた。
 死人とは思えないほどとてもきれいな顔をしていて、やはり死の実感がまったく湧かなかった。
 火葬場に運ばれて、叔父のからだが灰になってやっと、また自分は置き去りにされてしまったことに気づいた。
 父母が亡くなったと聞かされた時と、おなじような感覚だった。
 涙は出なかった。けれども、叔母の悲痛な顔をみて、心が傷んだのは覚えている。
 叔母とのふたり暮らしになってからも、叔母は自分によくしてくれていた。
 学校も普通に通えた。朝食も夕食も温かいものがでてくる。何不自由ない生活を送れた。
 学校であった出来事を話せば、笑ってくれたし、血のつながりがないのにも関わらず本当の母のように接してくれることが嬉しかった。
 だが、そんな生活にも次第に陰りがさしていく。
 叔父が亡くなって四年が経ったころ、叔母はみしらぬ男を部屋にあげるようになっていた。
 それまであった仏壇は片付けられ、叔父を感じさせるものが家から少しづつ消えていった。
 温かい食事はでてこなくなった。叔母は夜にはどこかへいなくなってしまい、家ではただひとりで過ごす時間が増えた。
 会話のない生活が増えた。そして、ある日突然、みしらぬ男が自分の父になったことを知らされた。
 がく然とした。父となった男はまったく自分と親しくしようとする気はなく、叔母も自分への関心を失っていった。
 次第に叔母の温情は離れていき、自分はふたりからのけ者扱いをされるようになった。
 なんてことないことで叱責され、存在するだけでうとまれる。
 しょせん血のつながってない赤の他人の子なのだから、可愛くないと思われるのは仕方がないことだと思い始めていた。
 それからまもなくして、ほころび始めていた叔母との関係は完全に崩壊した。
 叔母はなんの意味もなしに責めたり、八つ当たりをしてくることは多々あったが、手をあげられたことは今まで一度たりともなかった。
 そんな叔母に初めて頬を平手で叩かれた時があった。驚きのあまり、叩かれたほうの頬をおさえながら叔母を見上げた。
 いまいましいものをみるような、そんな顔をしていた。叔母は、自分を憎んでいるのだと直感した。
 叔母の視線から目をそらした瞬間、叔母はぽつりと呟いた。
 ――あんたさえいなければ。
 そう言って叔母はどこかへ行ってしまった。
 それ以来、叔母と自分との間に溝、へだたりが生まれてしまった。
 八つ当たりや叱責の回数が増え、一件以来手をあげることもいとわなくなっていた。
 回数が重なる度に、暴力は苛烈になり、父となった男は見て見ぬふり。自分はただ耐えるしかなかった。
 家庭環境が荒れるとともに、勉学や友人関係もすさんでいった。
 叔母の世間体、もしくは気まぐれで自分は生かされているのではないか、とすら思った。
 世間一般で言う虐待から解放されたのは、皮肉にもディアボロスという別の悪魔に殺されかけた、その後のことだ。


 ……シミひとつない天井を見上げて起きた、江波有希の目覚めは最悪の一言につきた。
 ゆっくりとからだを起こし、ベッド脇の小さい机に置いてある時計に目をやる。
 短針が十を、長針が十二をさしている。
 ゆっくりと長い夢をみている場合ではなかった。
 今日は土曜日だが特殊自衛軍に土日は関係ない。学校は休みでも仕事はある。
 幸いなことに有希が住む軍のマンションは特殊自衛軍東京本部から歩いてわずか五分のところにある。
 急いで身支度を済ませ、一杯の水を飲み、部屋を出る。
 ただでさえ仕事で迷惑をかけているのだから、遅れて行くわけにはいかない。
 走って本部のオフィスに入り、執行手帳をかざせば扉がひらく。
 さまざまな部署のマイスターや、研究員が廊下を歩いている。
 エレベーターに乗って三階にあがると、電子掲示板に人だかりができている。
 電子掲示板には世間で騒がれているニュースが流れているほかに、最近の出動結果が映し出されている。
 描かれている話題に大して興味もなく、急いでいる有希は人だかりの前をただ通りすぎようとした。
「すごいな……春鐘は。黒英を抜かして殲滅率一位じゃないか」
「ほら、半年前に……」
「ああ……無理もないか。まだ若かったのに、可哀想に」
 耳に通る会話が、有希の足取りをとめた。
 電子掲示板には、ディアボロスの殲滅率一位に春鐘蓮利の名前があった。
 殲滅率は出動回数やディアボロスの殲滅数をもとにして割り出され、特殊自衛軍に所属するマイスターらに報告される。
 出動回数はたしかに有希よりも多い。
 しかし、学生という身分でそれまで仕事に没頭し、戦績を積み上げているのはどこか異常性があった。
 電子掲示板の前で会話している男ふたりの会話を聴くかぎり、半年ほど前に殉職した第一班のマイスターが関係しているようだった。
 自分に関係がない話ではない。だが、顔も名前も知らぬ人間の話を鵜呑みにするわけにもいかない。
 気に留めたまま、有希は歩みを再開させる。

「有希ちゃーん、おはよう!」
「あっ……おはようございます」
 部署のなかにはいると、イスに腰掛けている、園崎桐也に笑顔で挨拶をされる。格好からして、今日は非番のようだ。
 向かいのデスクにはパソコンと向き合っている黒英椿姫の姿が見えた。
「黒英さん、おはようございます」
「……ああ」
 黒英椿姫はちらりと有希に一瞬だけ視線を合わせて挨拶を返す。
 最初のころなんて何もしていなくても睨まれてばかりだったので、それから比べれば大きな進歩だと有希は前向きにとらえていた。
 しかし、同班で今日も一緒に出動することになっている春鐘蓮利の姿が見当たらない。
「もしかして、蓮利のこと探してる?」
「いっ、いえ……あの……」
「探しているって顔に書いてあるよ。蓮利なら幕僚長に呼び出されて……たぶんもう少しで戻ってくるだろうけど」
 桐也はそう話しつつ、有希よりも後ろに視線を向けている。
「僕がなにか?」
「ひゃっ!」
 声におどろいて後ろを振り向くと、春鐘蓮利がすぐ後ろに立っていた。
「おはよう、江波さん」
「おっ、おはようございます……すみません」
「今日もがんばろうね」
「は、はい」
 蓮利の顔を見た瞬間、先ほど電子掲示板の前で見聞きした話を思い出す。
 殲滅率が一位ということはそれだけディアボロスを多く殺し、生き残ってきたということだ。
 頼もしいひとであると思うと同時に、すこし恐ろしくも感じた。
 うさわを鵜呑みにしたくはないが、火のないところに煙はたたないとも言う。
 彼をそこまで仕事熱心にさせる理由はなんなのだろうか。
 理由が気にならないといえばうそになる。けれども、有希はひとのことを詮索できるほど神経の図太い人間ではない。
 彼もきっと自分が殲滅率一位だということは知っているだろう。だが、彼の表情にはなにもかわりはない。
「終わった」
「おっ、んじゃあ行くか」
 そういうと椿姫と桐也は席を立つ。
「椿姫……また君は報告書の提出を忘れてたんだね」
「こんなの、遅れたところでなにも影響しないだろ」
 呆れたように言い放つ蓮利に対して、椿姫は蓮利に睨みつけながらそう吐き捨てる。
 班長には一週間に一度報告書を部長に提出するという責務がある。
 蓮利の口ぶりからすると、班長である椿姫はどうやら期日までに報告書を提出することは少ないことが伺えた。
「そういう問題じゃ……」
「蓮利ー、説教はまた今度にしてくれ! こいつ部長にも叱られて機嫌わるいからよ。じゃあな、おつかれ!」
 椿姫と蓮利の間に桐也が割ってはいり、ふたりの仲を取り持ち、椿姫の手を引っ張って部署を出て行ってしまった。
「まったく。……ああ、ごめんね、江波さん。見苦しいところを」
「いいえ」
「――B区、千早三丁目周辺にて悪魔化発生。繰り返す、B区千早三丁目周辺にて悪魔化発生。警戒レベルツー。ただちに現場に急行してください」
 警報音とともに出動要請のアナウンスが流れる。
「春鐘、江波。出動できるか?」
「はい」
「あっ……はい!」


 *


 現場に降り立った有希と蓮利は、一瞬でその場の異様な雰囲気を感じ取った。
 先に入っていた第二課の人間らはバリケードをつくり、三丁目一帯を封鎖し始めている。
 レベルツーは他の事件、事故から連鎖して起きた案件であることが多く、大半の場合が早く鎮圧することができる。
 区間封鎖など、民間人に対する規制は行わず、速やかにディアボロスへの対処、駆逐を行うのが原則とされている。
 だがしかし、他のマイスターの様子からして今回の現場はすでにレベルツーの領域を超えていることは現場経験の浅い有希にですら容易に想像できた。
「現場は、どのような状況ですか」
「発生当初はレベルツーだったが、この地帯にあった養護施設で悪魔化が発生したらしい。レベルスリーの案件だ」
 蓮利が話を伺った中年の男性はまいったと言いたげにそう答える。
 レベルスリーは寄生が団体生活を営む場所で発生した際に使われる。有希が最初に挑んだ仕事もレベルスリーだった。
 話を聞くと、今回は範囲が広いだけに、レベルフォーになる可能性も十二分に有り得るとのことだった。
 今まで有希が経験してきた現場のなかで、もっとも危険なにおいがした。
 思わず身震いをしてしまう。常に死と隣り合わせなのは理解しているが、こんな状況ではいつどこで襲われるかわかったものではない。
 不安にかられて、ちらりと蓮利の顔を覗く。彼はいつもと変わらず真剣な眼差しをしており、有希も身が引き締まった。
 彼には、黒英椿姫とは異なる頼もしさがある。
 他人に対する温情や思いやりも持ちあわせており、包容力がある。
「拡大が広がる前に早く鎮圧しないとね……。江波さん、行こう」
「はっ、はい」
 バリケードを超え、有希たちは戦線を進んでいく。
 地図の通りに進んでいけば養護施設にたどり着くが、道のりももはやただの道ではない。
 いつどこからディアボロスが襲ってくるかは予測できない。
「次の路地を右に」
「はい」
 拳銃を構えながら路地を曲がる。
 両脇に高い塀の一軒家が見える。
 風の吹かない中、葉がそよいだのを蓮利は見逃さなかった。
 蓮利のもつ拳銃から銃弾が発射され、草葉の影に隠れていた物体に命中する。どさりと倒れこむ音がして、有希は確認のため近づく。
 老年の男性が胸から血を流し、倒れている。瞳孔が開いたままの目は白くにごっており、白内障を彷彿させた。
 筋肉が収縮しているのか、脚がびくびくと動いている。
 おそらくはもうこのまま、起き上がることはないだろうが、用心して有希も死体に銃口を向け、眉間のあたりに撃ち込む。
 とどめをさしたと思い込み、ディアボロスに背を向けたところを襲われたマイスターは何人もいた。
 有希も、初めてひとりで応戦した際にとどめを刺しきれずに襲われた。一度犯した過ちは二度としてはならない。
 しばらく道なりに進むと、養護施設とおぼしき敷地が見えてきた。人影も見える。それも、ひとりやふたりどころではない。
 身なり体型からしておそらく十代後半から三十代の範囲。若年のディアボロスには常人の何倍もの力があり、うかつに近づけば攻撃をうけてしまう。
「この人数……後援が到着するのを待ったほうがいいね。おそらく、建物内にはもっとディアボロスがいる」
 蓮利はふたりで応戦するのは無茶だと判断し、他のマイスターを待つことにした。


 後援が到着し、いよいよ敷地内に足を踏み入れる。先陣を切るのは若手である有希と蓮利だ。
 庭は小規模の公園のようになっている。どうやら児童養護施設のようだ。
 まず建物外にいるディアボロスを駆除し、中へと歩みを進める。
 進むに連れて、低い唸り声が聞こる。
 拳銃を構えて奥の扉を開けると、ぐちゃり、ぐちゃり、とフォークで幼子の喉元の傷口を何度もえぐっている成人女性の姿があった。
 その異様な立ち振舞。間違いなくディアボロスによって侵されていた。
 肉と肉の間を掻き分け、かき混ぜる音がしん、とした部屋にひびき、いやでも耳にこびりつく。
 蓮利は悪魔化してしまった女性に拳銃を向け、なんの迷いもなく発砲する。
 ダン、ダン、と二発の銃弾は女性の頭部に命中し、女性はテーブルの脚にもたれかかるように倒れこむ。
 有希も女性が弄んでいた女児に近づき、苦虫を噛んだような顔でやむをえず発砲する。
 もっと自分たちが早く到着していれば、と苦心が残る。しかし、こうなっては助けることはできない。中途半端な死体を残しておけば、新たな火種になりかねない。
 小さな食堂のような場所では食べかけの食事や食器が床や机に散乱しており、ところどころに血液が付着している家具も確認できる。
 血液のついた足でそのまま移動したらしい足あともいくつか床に残っている。
 施設はわりと大きく、いくつもの部屋、個室にわかれているようである。
「各組、個室を探索しろ。回復見込みのある生存者は発見次第保護しろ。それ以外は掃討だ」
「はい」
 年長者の号令により、マイスターはわかれて行動を始める。
 有希らも捜索を始める。
 先ほどの女児といい、あまたの逃げ遅れた子どもがディアボロスの餌食になっていることが容易に想像でき、有希は気落ちしてしまう。
 いくらディアボロスに寄生されているからといえども、やはり子どもを撃つのはつらい。
 だが、ディアボロスに侵された人間をもとに戻す方法は存在しない。
 マイスターにできるのは、人間として黄泉に還すことだけだ。

 一室の前に辿り着き、拳銃を構えつつ壁にはりつく。
 蓮利がドアノブをひねるが、鍵がかかっているのか、開く気配はない。
 しかし全部の部屋を捜索しなければ危険は取り除かれたとはいえない。蓮利は鍵穴に拳銃を向け、発砲する。
 ドアノブは破壊され、その反動でぎいーっ、と古びた木製のドアが開く。
 どうもこの部屋は子ども部屋らしい。相部屋なのか、二段ベッドが奥に配置されている。カーテンは締め切られており、暗がりだ。
 小さな丸テーブルには小学二年生レベルの問題集、カーペットの上には消しゴムが落ちており、――その消しゴムの隣には女性がうつぶせの状態で倒れていた。
 蓮利は拳銃を女性に向けたまま、女性の生存確認を行う。
 回復見込みのある一般人は保護しなければならない。しかし、重傷を負っている場合は悪魔化するリスクが高く、そのままとどめをさしてしまう場合もある。
 女性には出血もなく、心音もかなりゆっくりだがある。
「江波さん、この人は救護班に引き渡そう。まだ助かる見込がある」
「はい」
 いくら女性とはいえども、気を失った人間を運ぶのはかなり力が必要だ。
 女性を抱きかかえようとする蓮利に対し、有希は蓮利が前方後方から襲われても対処できるように蓮利の背後にまわり、二段ベッドのほうに背を向ける。
 ふと横をみると、開けられていないクローゼットがあることに気づき、戻ってくる暇もおしいので、今確認したほうがいいと判断した有希は、取っ手に手をかけた。
 クローゼットの扉をひらくと、小さな少年が膝を抱えて頭を突っ伏していた。
「春鐘さん! 男の子が……」
「様態は……」
「だっ、大丈夫……? わたしたちは助けに……」
「あ……」
 有希たちが普通の人間だとわかったのか、少年は顔をあげる。
 頬には涙の跡がついており、唇は青紫色になって震えている。よっぽど怖い思いをしたに違いない。
 有希が少年を抱きかかえようとした、その一瞬の、隙だった。
「っ!」
 何者かに足首を掴まれ、視界が落下する。
 うつ伏せに倒れてしまい、拳銃も投げ出されてしまう。
 有希の足を掴む手は、ベッドの下にある。暗がりでよく見えなかったが、ディアボロスがベッドの下に隠れていたのだ。
 カーペットに爪をかけて立ち上がろうとするが、足を掴む力が強く、起き上がれない。
 のびた鋭い爪が、有希の足首に食い込み、血肉を圧迫する。
「江波さん!」
 蓮利は有希の異変に気づくが、蓮利も一般女性を抱えており、両手が使えない状況だ。
 有希の額に脂汗がにじむ。この状況、自分ひとりでなんとかしなくてはならない。
「おっ、おねえちゃ……」
「……っ、君は向こうのお兄さんのところに行って!」
 少年に被害がおよぶ前に自分から遠ざける。
 足首を掴んでいる手が這い上がってくる感触がぞわぞわと脚を犯す。
 ベッドの下などまったくの誤算だった。強い力で有希のからだはベッドに引きずり込まれる。
 どうにかして拳銃は手にしたが、うつ伏せのこの状態で、ベッドの下、見えないところにある手を剥がさなければならない。
 有希の脳裏には闇雲に銃弾を放ち、脚を犠牲にする方法しか考えつかなかった。
「江波さん、動かないで」
 蓮利は冷静な声で有希にそう声をかけると、いったん女性を床におろし、片手で二段ベッド越しにディアボロスがいるであろう床に発砲した。
 木の割れる音と同時に、布団の綿が舞い上がる。
 その瞬間、有希の足を掴んでいた手の力が抜け、脱出することに成功した。
 蓮利は有希が脱出したのを見て、ふたたびベッド越しのディアボロスに発砲する。
 おびただしい量の血液がベッド下から染み出る。蓮利は動きがないことを確認すると、ベッドの下から死体を引きずりだした。
 有希は先ほどの少年を抱きかかえ、死体が見えないように目を隠す。
 目が開いた女性の遺体には、頭部に銃痕があり、口も半開きで、髪の毛を血脂で濡らしていた。
 女性の姿を見た瞬間、有希の脳内がぐらり、と揺れた。視界が、真っ白になり、頭から血の気がひく。

 ――クローゼットに隠れたまま、ぐずぐずと泣いている自分がいる。
 何者かにクローゼットの戸が開けられ、自分は顔をあげた。
 黒色の、自分が今着ている特殊自衛軍のジャケットとよく似た服に身を包んだ女性が幼い自分を抱きかかえた。
 自分は喜んで顔をあげた、だが、その時目にしてしまった、――母親の無残な死体を。
 腕は曲がるはずのない方向に曲がっており、手は潰されていた。顔には髪が血でべったりとはりついており、唇は縦に裂けていた。
 その髪の毛からのぞく、黒い目と、目が合う。
 自分が見つめられているような気がした。恐ろしいはずなのに目を逸らすことができない。まるで引き込まれているようで、まばたきすらできない。
 じいっとそれを見つめていると、自分の目はなにか布のようなもので覆い隠されてしまい、視界は奪われた。
 今まで閉ざされていたこの記憶は……間違いなく夢の続きであった。

「頭の働くディアボロスはやっかいだね。ベッドの下にいるとは……」
 蓮利はふたたび気を失ったままの女性を抱え、そうつぶやく。
「…………」
「江波さん?」
「………………」
「江波さん!」
「わっ! あ、あぁ……す、すみませんでした……。あ、あの……わたしがちゃんとみてれば……」
 大きな声で呼びかけられた有希は肩をふるわせて返事をする。
 有希は、自分が過去にディアボロスによる事件に巻き込まれていたと確信した。
 なぜ記憶がなかったかも、被害者の記憶を意図的に喪失させている特殊自衛軍の方針のことを考えれば、納得できる。
 自分の母親の遺体を思い出したことで、放心してしまった。
 思い出してよかったのか、わるかったのか、心のなかの整理がつかない。
 気持ちを切り替えようと有希は頭を振り、蓮利に無用な心配をかけさせないように振る舞う。
「江波さんのせいじゃないさ。無事でよかった。とにかくいったん外に出よう」
 施設の外に出ると、すでに第三課の人間が待機しており、有希たちは被害者を受け渡す。
 有希が抱えていた少年は、有希の手からはなれると、よりいっそう不安をおびた表情をする。
(……わたしもこんな感じだったのかな)
 少年のおかれている立場と自分がかつておかれていた立場が重なってみえた。
 きっと人間が悪魔に成り果てる姿も、殺されるところも見てしまっただろう。
 はやく記憶が消えることを願い、有希は少年の前から立ち去った。
 こんなつらい思い出は忘れてしまったほうがいい。思い出さないほうがいいのだ。
「江波さん」
「あっ、すみません……戻りますよね」
「いいや、掃討は終了したらしい。いったん本部に戻ろうか」


 *


 有希は本部に戻った後、仕事用のノートパソコンでとある調べ物をしていた。
 専用のソフトウェアで、サーバに保管されている情報が管理されており、マイスターは自由に情報を得ることができる。
 もちろん、何年も前のディアボロスによる事件を調べることも可能だ。
 自分の年齢から逆算し、とある年、そしてとある場所で起こった事件を検索する。
 検索結果はあまりにも膨大だった。
 むかしは今ほどディアボロスへの体制がとれておらず、掃討もかなり苦戦していたときいていた有希もその量には思わず目が眩んだ。
 これをひとつずつ虱潰しに見ていくとなると、あっという間に夜が明けてしまうだろう。いくらなんでもその探し方は無謀すぎる。
 諦めが勝りつつあったが、有希はふと思いつき、検索条件のフリーワードに、とある言葉を入力し、検索を実行する。
「……あった」
 何秒かして、検索結果にはひとつの事件名が表示される。
 有希がそれを選択すると、事件の詳細が出てくる。
 ――J区鷺宮三丁目強盗及び悪魔掃討事件。
 この事件は、強盗が目的とみられる被疑者がこの家に住む、夫の江波シキミの正当防衛によって重体に陥り、悪魔化したことが発端とされている。
 被疑者が倒れた直後とみられる午後三時二十八分に妻の江波カヤからJ区警察署に連絡が入り事件が発覚した。
 当初は強盗事件として受理、一般警察官が現場へ向かうが、連絡をとり続けていた夫婦の様子が一変し、軍の介入が必要と判断され、出動に至る。
 現場介入時、悪魔化は被疑者と江波シキミの二名。妻の江波カヤは暴行により重体、現場マイスターの判断により危険性を考慮してその場で射殺とした。
 生存者は一名。夫婦の娘である江波有希、六歳。事件のショックから記憶が欠落しているため、記憶の改ざん措置は不要と判断する。
 現場周辺への影響はなし。表向きでは強盗殺人として処理とする。
 報告者、東京本部第一課第三班班長、古舘アザミ。

 やはり、とも言うべき事実に目を見開いて液晶を見つめる。
 どくどくと、鼓動の音が身体中にひびく。胸が痛く、そして苦しい。だが目を逸らすことはできない。
 隠されていた、いや、知らされていなかった真実と、夢に見ていた遠い記憶は完全に一致した。
 知ってよかったのか、知らないほうがよかったのか、もう有希の頭では考えられないでいた。
 強盗に入った被疑者が恨めしいのか、それを重体まで追い込んだ父が悪いのか、母を殺したマイスターが憎いのか。
 ――それとも、のうのうと生き残っている自分がみじめなのか。
 周囲にいるすべての自分と同じ立場の人間が、急に恐ろしく感じる。
 毎日だれかの命を屠り、周囲の者を悲しませ、人の人生に空白を与えている。
 そうすることで不特定多数の人間が救われていることは、だれも知らない。
 自分たちは不幸の連鎖を終わらせる人間ではなく、不幸を別の不幸に置き換えるだけの処刑人なのだ。
 なにが正しくて、なにがおかしいのか、考えても結論がみえない。
 額ににじむ脂汗、手に握る安価のマウスはみしみしときしんでいる。
「江波さん」
「…………」
「江波さん?」
 突然、液晶の奥に春鐘蓮利が現れて、有希は驚きのあまり飛び跳ねてイスから落ちてしまいそうになる。
 有希は慌ててノートパソコンを閉じて液晶画面を隠す。
「すっ、すみません!」
「大丈夫? 今日はずいぶんぼーっとしてることが多いみたいだけど。なにかあった?」
 蓮利は本当に心の底から心配しているようで、目をそらす有希の顔を不安そうに見つめる。
 だが自分の身の上話を人にする勇ましさを有希は持ちあわせてはいない。
「いいえ……大丈夫、なんで……」
 話している最中に、ぐう、とタイミングよくお腹が鳴ってしまう。有希は慌ててお腹を抑えるものの、もう遅い。
 恥ずかしさのあまり有希は言葉につまってしまう。そして今更、朝からなにも摂っていないことに気づいた。
 いまはもう午後〇時で、昼食をとってもなんら違和感ない時間ではあるのだが、異性の前で思い切り腹の音がなってしまったことに肩が震える。
 顔を赤くして俯く有希に対し、蓮利はなにも気にしていないような顔で有希の手をとった。
「江波さん、よければ食事でもいかないかい?」
「わっ、わたしと、ですか……?」
「嫌、かな?」
 蓮利はすこし悲しそうな顔をしながら首をかしげ、有希に問いかける。
 こんなことをされては断れるはずがないし、有希はそもそも誘われたことが嬉しかった。
 ただ、どういう反応をするのが正解なのかわからないのだ。江波有希は他人と食事をするという経験があまりない。
「も、もちろん、行きます!」
「よかった! じゃあ、行こう」
 蓮利にひっぱられ、部署を出ようとする。
 すると反対側からドアが開いて、女性が現れる。
「古舘部長」
「ああ、春鐘、江波。さきの仕事ではご苦労だった」
「ありがとうございます。報告書は机の上に置いてありますので」
「わかった。目を通しておこう」
 蓮利が頭を下げるのにならって、有希も古舘に向けて頭を下げる。
 古舘、古舘アザミ。有希の父母が亡くなった事件の報告書は彼女の名前で提出されていた。
 有希はそれを見逃さなかった。だからといって、今更何も言うことはないのだが。
 ……ただ、自分が見ていない物事を知っているのならば、教えてもらいたい。そう思うだけだった。

 部署を出ると、外で食べようと提案され、東京本部近くのカフェや服飾関係の店が立ち並ぶ通りに出る。
 仕事でほぼ毎日来ているのにも関わらず、東京本部の周辺を歩いたことがない有希にとっては新鮮な街並みだった。
 あまり気分がよくなかったが、外に出て目新しいものを見ていると気分が少し晴れる気がした。
 目当てのカフェまで歩いていると、街路の露店に置かれていた、ひときわ光る石に不思議と目を奪われた。
 タグをみると、石はアマゾナイトというらしい。まるで空のような色をしていて、そこに並んでいるどの石よりも綺麗にみえた。
 アマゾナイトは細長く加工されており、シルバーのチェーンに繋がれている。あまり目立たないような大きさだ。
 有希はあまり装飾品や洋服に気をかけない性格だ。気にかける余裕が今までなかったとも言えるが。
「きれいなネックレスだね」
「あ、はい……」
 立ち止まっていた有希に気づいた蓮利はネックレスを一緒に覗きこむ。
 その顔は笑顔だが、どこか物憂げにもみえる。
 ふたりに気づいた店員の女性は、ネックレスを手にとり、話しかけてくる。
「アマゾナイトは別名、ホープストーンとも呼ばれているんです。とてもエネルギーのある石なんですよ。彼女さんのプレゼントにどうですか?」
「かっ……?!」
「じゃあ、頂こうかな」
 店員の勘違いに有希は思わず動揺する、が蓮利はというと否定も肯定もせずネックレスを購入してしまっている。
 有希は蓮利の言動に振り回される。
「えっ、ちょ、ちょっと……春鐘さんっ?!」
 買ってもらうなんてとんでもないことだ。
 有希は必死に蓮利の行動を止めるが、蓮利はさっさと会計まで済ませ、ネックレスの入った小さな平袋を有希に差し出す。
 店員は笑顔でありがとうございました、と。取引が完了して笑みを浮かべている。返品しがたい笑顔だ。
 有希はネックレスのはいった紙袋を受け取りはしたものの、突然の出来事に動揺して言葉が上手くでてこない。
 行こうか、と蓮利は露店を後にし、さっさと前を歩き始めてしまう。それに有希は小走りでついていく。
「お、お金……あとで返します」
「いいって、いいって。一応僕は君の先輩なんだから」
 仕事の上でも年齢でもひとつ上の蓮利は気にしないで、と有希に笑いかける。
「で、でも……」
「江波さんの眼の色とそっくりだよね、その石。だから、いいお守りになると思ったんだよ」
 有希の目も、アマゾナイトと同じく透き通るような白群色だ。蓮利は有希の目をのぞき込んで微笑む。
 じいっと目を見られて、有希は思わず視線を逸らす。あんなきれいな石と、自分の眼の色が似ているだなんておこがましいと思った。
「わたしにネックレスなんて……」
「似合うよ。だって、江波さん、肌もきれいだし」
 この人は天然のたらしだと鈍感な有希でも確信した。
 話しながらすこし歩くと、目当てのカフェに辿り着いた。
 窓際の席へ案内され、腰をおろす。
 メニューをみると、やはり特殊自衛軍の食堂とはちがってバラエティに富んだ料理が多い。
 特殊自衛軍に入る前から外食することは多かった有希だが、いつもチェーン店での食事だったため、入ったことのないお店のメニューに思わず目移りする。
「決まったかい?」
「あっ、はい!」
 実際はまだ悩んでいる最中だったが、蓮利にきかれて思わず頷いてしまう。
 蓮利がテーブルにおいてあった呼び鈴を押すと、店員がすぐに席まで来てしまう。
「ビーフストロガノフ、ライスで。あと、アイスコーヒー。……江波さんは?」
「え、えっっと……チーズオムライスと……ダージリンティーを……」
「かしこまりました。失礼致します」
 愛想のいい笑顔を浮かべた店員は頭をさげて席を立ち去っていく。
 食堂でもオムライスを食べることが多いのに、また同じになってしまったと有希は頼んだあとで少し後悔した。
「江波さん。蒸し返すようでわるいけど……今日、なにかあったかい? 僕には君が万全の状態には見えなかったんだけど」
 何度も何度もそう聞かれるのは仕方のないことだった。
 この仕事に限ったことではないが、仕事に集中できなければ過失を生む。それがゆくゆくは大きな損失となる。
 蓮利としては、有希の心に根を張る不安や悩みはすこしでも取り除きたい。
 それが自分の役目だとも思っているし、当然のことだと優しい彼は思っている。
 真剣な蓮利の眼差しに、この人になら話してもよいのではないかと有希は思った。
 いままで、誰ひとりとして自分の記憶のことを話したことはない。
 自分の記憶はいままで曖昧で、現実味に欠けていた。
 ……けれどもそれは揺るぎない事実であり真実であった。記憶の断片は結びつき、ひとつの形を完成させた。
 有希は手のなかにある携帯電話をかたく握りながら口をひらく。
「……いいえ、なんでもないんです。大したことじゃないんです……」
 大したことではないと、有希は虚勢を張った。
 蓮利は有希に目をそらされると、それ以上は聞き込もうとせず、テーブルに運ばれていたコップに口をつける。
「無理にとは言わないけど、つらい時は言っちゃったほうが楽になるよ。……僕もそういう時は椿姫や桐也に助けられたんだ」
「えっ……?」
 蓮利の口から出てきたふたりの名前に、有希は驚きの声をあげる。
 園崎桐也はともかく、黒英椿姫が人を慰めたり励ましたりするようには到底思えない。
 有希が驚いた理由を察したのか、蓮利は声をあげて笑う。
「はははっ、椿姫は感情表現が下手なだけで気使いなんだよ。人のことはよくわかってくれてる」
 黒英椿姫は仕事に厳しく、必要最低限のことしか話さない。私生活で会話したことなど一度もない有希にはにわかに信じがたいことだった。
 だが自分より付き合いの長い蓮利がそういうのだから間違いないのだろうと有希は思う。
「僕も姉を亡くしてね。仕事が出来ないぐらい塞ぎこんでたけど、ふたりとも僕を支えてくれたよ。ふたりには……本当に感謝しているんだ」
 姉を亡くした。――その話に有希ははっとする。
 有希が第一班に補員されたのは半年ほど前だ。その時に亡くなったマイスターというのはもしかして春鐘蓮利の姉のことではないのか。
 もしその考えが正しいのであれば、朝、電子掲示板の前で聞いた話も納得がいく。
 ディアボロスに姉を殺された蓮利は、その仇討ちのために殲滅率一位を獲得するほど仕事にのめり込んでいる、と有希でも察しがついた。
 仕事熱心というよりかは、なにかもっと別な感情を感じてしまう。
 突然の蓮利の告白に有希が言葉を返せずにいると、蓮利と目が合う。
 蓮利は悲しそうな表情など一切見せず、落ち着いた顔でまたコップに口をつける。
「ああ、ごめんね。辛気臭い話しちゃって。でも……苦しい時は誰かに言ったほうがいいよ。その感情に飲み込まれないうちに」
「それって……」
「お待たせいたしました。ビーフストロガノフ、ライスにアイスコーヒー。チーズオムライスとダージリンティーになります」
 店員が料理を運んできて、有希の言葉は遮られてしまう。
 蓮利が最後に言った言葉は一体どういう意味なのか。
 それを問いただしたかったが、どうにもタイミングが悪い。
 蓮利ももう食べ始めているので、有希は仕方なしにスプーンをとり、チーズオムライスを掬う。
 特別少食だとかそういうわけではないが、チーズオムライスはなかなかのボリュームだ。
 黙々と食べていると、蓮利がなにやら窓の外をじっと凝視している。
 その視線が気になって有希もそちらへ目をやると、私服姿の黒英椿姫と園崎桐也の姿が見えた。
「ふたりに気づいた?」
「はっ、はい。……あの、ふたりはいつも一緒なんですか?」
「そうだね。まあ、それを椿姫に言ったら怒るんだけど」
「それでも、黒英さんは一緒にいるんですね」
 怒っている椿姫の姿は有希にでも容易に想像がつく。
 指摘されれば怒るが、それでも一緒にいるあたり、相当仲がいいのが有希にもわかった。
「ふたりは幼なじみだからね」
 ふたりがじっと窓の外の椿姫と桐也を見ていると、桐也のほうがこちらに気づいたようだ。