1.Fimbulvetr



 高塔柏真は膝から崩れ落ちた。彼の体の全神経に伝う雷の音は徐々に弱くなってゆく。それと相反するように、心臓の音はうるさくわめきだす。頭の中に響く心音は、柏真の精神力を大きくけずる。息があがって不規則な呼吸がつづく。それが止むことはなく、ついには地面に手までついてしまった。手から伝わる地面の温度は低い。まるで冷凍庫に入れられているような、底冷えする寒さが柏真を襲った。心の休まる場所はどこにもない。ここは、目の前に君臨する少女の領域だった。彼女の目はまるで蛇のように、氷のように冷ややかだった。その眼差しが、柏真を残念そうに見下ろす。彼女がどんなことを思ってそんな表情をしているのかは、彼女にしかわからない。高塔柏真には、彼女の顔をまじまじとみる余裕すらない。心臓の辺りを自身の手でおさえ、どうにかして心音を落ち着かそうとゆっくりと息をする。彼女は隙だらけの柏真をただじっと見ているだけで、なんの表情も浮かべないし、なんの言葉も発さない。
 荒く息をしながら、柏真はなんとか立ち上がるが、一度崩れ落ちた膝はそう持ちそうにもない。立っているのがやっとといった様子で、彼が帯びている雷は相変わらず力弱い。
 立ち上がるのならばまだ戦闘意思があると判断した少女は、鞭のような剣で地を叩き唸らせると、数メートル離れた柏真の元へ走る。ひとつに見える剣の刃は細かく分かれ、それらが一目散に柏真を襲う。もはや悲鳴にもならない声が空中に消える。口からは血液が吐き出され、地面に飛び散って付着する。その血液を踏みつけ、少女は柏真の眼前に立つ。相変わらずの眼差しはもはや人間を見ている意識があるのかあやしいぐらいには冷えきったものだった。
「もう辞めにしよう」
 少女が指をぱちん、と鳴らすと、氷の世界は消えるようにして現在の姿へと戻った。少女が手にしている刀剣も、足元の血液も、柏真の身体に流れていた雷もすべてがまるで幻だったかのように消え去る。過去を蘇生させる世界から現在へと戻るが、柏真の身体にはしる鈍い痛みはちっともかわらない。立ち上がれずにいる柏真がその場でうずくまっていると、少女は銀色で模様の施された、白い封筒を柏真の顔の前に投げて寄こした。
「理事長からの手紙だ。読め」
 少女は柏真に命令するかのようにそう告げる。柏真もしぶしぶ、身体の痛むところをおさえながら上体を起こし、封を開けた。そこに入れられていたのは一通の便箋だった。達筆な手書き文字を柏真はゆっくりと読み上げる。
「『あなたを騎士団『Rains』に選抜致しました。これからも励むように』……」
「そう。このわたしと、おまえは! 『Rains』に選ばれたのだ!」
 柏真の言葉を遮り、偉そうでやや下品とも言える笑みを浮かべる少女は、柏真が受け取った便箋と同じタイプのものを目の前で広げてみせる。そこには間違いなく彼女の名前、「泡良妃央」と「Rains」に選ばれたことを伝える旨の内容が書かれていた。柏真は状況がまったく飲み込めずぽかんとした顔でそれを眺めて、自分のと見比べてを繰り返す。間違いなく、お互いがこの学校の生徒にとって名誉のある騎士団「Rains」に選ばれていた。
 柏真たちが通っているこの私立天翔学校は規律正しく、そして由緒ある騎士の名門校だった。幼等部から高等部まであるこの学校では、「ラグナロク」とよばれる騎士同士の戦争で「デウス」になりうる者を育成する学校だった。そしてこの私立天翔学校では、その「ラグナロク」が行われる年に学校中の選抜騎士を揃えた騎士団「Rains」を結成させ、「ラグナロク」に参戦させる。
 そのたいへん名誉なものに選ばれたのにかかわらず、高塔柏真はぐしゃりと手紙を握りつぶして、悦に浸りながらべらべらと言葉を並べている泡良妃央に睨みあげる。手紙の握られる音を聞いて、妃央は柏真のほうをまた、冷ややかな視線で見た。視線が合う。お互いに逸らす気はまったくなく、睨み合いが続いた最中、妃央は口を開く。
「なんだ。言いたいことがあるのならば言うがよい」
「お前と一緒にこの『Rains』に選ばれたのが残念だよ、泡良妃央」
 妃央に促されて柏真は喧嘩をふっかけるような台詞をぶつける。先ほどずたずたにされたのに、性懲りがないといえばそうだが、柏真は妃央に対してはいつからかいつもこんな様子であった。顔を合わせば睨み合いがはじまり、目を逸らしたほうが負けで、争わずにはいられない。上っ面よりももっと奥深い精神的などこかで嫌っているのだ。対して泡良妃央はというと柏真のがきくさい威嚇のような言葉をかるく鼻で笑い、柏真の顔面へずいっと近寄ってみせる。
「おまえが残念がるのならばわたしは喜ぼう、高塔柏真」
 それだけ言うと、振り返って高笑い。妃央の嫌味に意味があるのかないのかなど、柏真にとってはどうでもよかった。ただ、底知れぬ不快感と嫌悪感が身体中からこみ上げ、いまこの場ですべてを吐き出してしまいたい感情に襲われた。
 それをぐっと堪え、先のことを考えればますます頭を抱える事態に陥った。これから長い間、蛇のような目、悪女の微笑みをもった不祥の存在と共にいなければならないことに心底気が滅入った。しかしそれと同時に、どうしてもこの蛇女に勝つことができない自分に対しても苛立ちを覚えた。
 細めで後ろ姿を睨む。泡良妃央はごく一般女性よりやや細く、華奢である。とくべつ怪力なわけでもないし、とくべつ知識量があるわけでもない。妃央には生まれ持っての才能と精神力、そして栄光を渇望する強い気持ちがある。自身にはそれがないからいつも負け続けていると柏真は常に考えていた。それでも妃央と敵対するのは、憎む気持ちを持つのは、その気持ちをいまさら変えることができないからかもしれない。人間そう簡単には変われないし、昨日あったことがなかったことになるのなら誰もが苦労しない。
「あ、妃央ちゃん、と柏真はもうここにいたんだな」
 室内にもかかわらず薄い色のサングラスをかけた青年が柏真と妃央のほうへ近づいてくる。すらっとした長身で、人のよさそうな顔をしている。彼は制服のポケットから柏真が持っているものと同様の便箋を取り出すと、にやりと笑う。
「へっへー、俺も貰っちゃった。コレ」
「……お前の実力からいったら順当だろ、始」
 封筒の右端に書かれている名前「九澄始」は彼の名前だ。外面はつねにへらへらしていて、内面もかなりふざけた九澄始だったが、騎士としての実力は相当のものだった。
「ていうかお前さあ、また妃央ちゃんにやられたの?」
 ぼろぼろになった柏真の状態をみて始はそう尋ねる。また、と彼が言うとおり、柏真は妃央と喧嘩しては負け、喧嘩しては負けを繰り返している。柏真は負けたことをあまり認めたくはないのか、返事は首を縦にふるだけにとどまる。そんな柏真の返事を吹き飛ばすかのように、妃央は柏真たちのほうへ向き直り、右手で顔にかかった髪の毛を払うと、まるで悪の親玉のように悪い笑い声をあげる。
「ふっふっふっ、どうやらこの妃央様に完全敗北したことを認めたくないようだな、柏真よ。なんと往生際の悪い! 猿でも負ければそれを認めるぞ! ああなんて情けない男なんだ貴様は」
「まあまあ、妃央ちゃん。そこら辺にしておいてやってよ。ところでさ、Rainsに選ばれた面々で簡単なゲームをやろうと思うんだけど、どう?」
「あら、それはおもしろそうですわね」
 三人の声ではない誰かの声が聞こえて、三人は一斉にその声のほうへ振り向いた。そこにはRainsを選抜した張本人である、妙才の理事長がいた。理事長、松原蘭はただ微笑みかける。そのなにも考えていなさそうな笑顔に騙される人の多いこと多いこと。松原は壁がけ時計を指さして、柏真たちに話しかける。
「ですが時刻はもう午後五時半。残念ながら今日の完全下校時刻は午後六時ですわよ。おかえりなさいな」
「あらら、理事長に見つかっちゃあ仕方がない。じゃ、妃央ちゃん、柏真、この話はまた明日にしよう」
 松原を目の前にした始は、そそくさと練習場を後にする。妃央も床に置いていた鞄を肩にかけると、松原に一礼だけして練習場を出た。柏真はというと、床に投げるように置かれているくたびれたブレザーに袖を通し、帰る支度をしている途中、朗らかな笑みを浮かべたままの松原に疑問を投げかける。手紙を寄こされた時からずっと理解できなかった。それは手紙そのものを泡良妃央の悪趣味な冗談だとすら思ったほどである。
「あの……どうしてオレを、Rainsに選んだんですか」
 自分が「Rains」というこの学校中八人しか選ばれない名誉ある騎士団に選ばれたこと自体、柏真は疑問視せざるをえなかった。簡単にいえば高塔柏真は自分に自信がなかった。できることならばデウスになりたいという願望はあるものの、普通の成績で学校を出て、国家公務員になってある程度の稼ぎをもって、なんの変哲もない普遍な人生を送りたいと思い込み、願望を封じ込めているタイプであった。柏真は俗に天才とよばれる、世間の目という目を集める人間とは違う。だからこそ諦めがいつも心にあった。柏真が唯一いだいている特殊な感情とはいえば、泡良妃央になんとしてでも勝ちたいという気持ちだけだった。その感情が騎士団の和を乱すことは松原もわかっているはずだ。
「あなたはわが校の雷属性の騎士の中でもっとも優れています。それ以外に選んだ理由などありませんよ」
「……知っているじゃないですか……俺と妃央の仲の悪さを」
「あら、そうでしたか?」
 胡散臭い笑みを浮かべる松原に柏真は心のなかで「知っているくせに」とつぶやく。この松原蘭という人物が学校のことを、生徒のことを知らないはずがないのだ。彼女はすべてを掌握している。それを理解するたび、この学校の生徒はすべて松原蘭の手駒なのだ、と思い知らされているような気がしてならなかった。すべてを見透かしているような、聖母のような微笑みが柏真は苦手であった。
「いつか仲直りできますよ」
「…………仲直りもなにもないですよ。最初っから仲が悪いんですから」
 初めから仲が悪いのだから仲直りのしようがない。柏真は退出際に失礼します、とだけ松原に声をかけ、練習場を出て行こうとする。
「高塔さん。あなたには、いえ……あなた達にはデウスになる理由がある」
 その独り言のような松原のつぶやきに柏真はなんと答えることもできなくて、頭に疑問符が浮かんだまま廊下に出ると、落ちかけの夕日が雲に隠れて雨がしとしとと降りていた。どうやら天気雨のようで、雨降る中に夕日が目に差し込む。眩しい光を手でよけると、少し前のほうに泡良妃央がいた。出て行ってからしばらく経っているはずだが、と柏真は奇妙に思ったが、なにを考えているかわからない女なので疑問に思うのはやめた。
 微妙な感覚を保ったまま柏真はそのうしろを歩く。少女の背中は小さい。
「柏真」
 凛々しい声に名前を呼ばれて、おもわず柏真の歩みは停止する。しかしその呼びかけに反応することができず、黙って少女が続きをしゃべるのを待つ。
「このわたしの望みはデウスになることだ」
「……」
 そんなこと、柏真は知っている。ずっと前から、知っているのだ。
 柏真がじっと黙っていると、妃央は柏真のほうへ向き直る。煌々とひかるその目には、強い意志を感じる。妃央の眼から感じる威圧感に、柏真は一言しゃべるのがやっとだった。
「……知ってる」
「くれぐれもわたしの足を引っ張るなよ」
 そう言って鼻で柏真を笑うと、先をつかつかと歩いて行ってしまう。その妃央の傲慢な態度に柏真はとても苛ついたが、その苛立ちを言葉にしてぶつけることはなく、まるで芋虫を噛み潰したような苦い顔をひとりでしていた。わかりきったことをなぜ再三宣言するのか、相当自分に自信がなければできない芸当だ。柏真にはその自信がない。だからといって泡良妃央のような高尚な自信など、まったく羨ましくもなんともないのだが。
 妃央が歩いていった廊下の先を歩けず、柏真はしばらくその場に立ち尽くした。
 何度も見たことのあるこの雨模様は、あいかわらず心を重くさせていた。