1.Fimbulvetr



 妃央はふたりの神が巻き起こした嵐を突破してから、むりやり<シュガール>をみずからの肉片ごと引き剥がすとそれを床に叩きつけ、連結した蛇腹剣を突き立てる。すると、剣の周囲には冷気が漂いはじめ、刃がふれている部分からぺきぺきと音をたてて凍っていく。これが妃央の所持する刀の能力だった。刃がふれたものはなんであろうと凍らせる。蘇生させたものでも人でも無機質でも有効なこの力は非常にやっかいで、柏真も何度も困らせられてきたし、いまも困らせられていた。
 凍らせることしかできないと笑う者たちもいたが、それによる負荷は数多あるため、見くびるなんてことはできない。なにせこの力は現に、妃央が手ごわいと言われている要因のひとつだ。
 彫像のように固まってしまった<シュガール>はすこし刀に力を入れただけで割れてしまった。破片が飛び散って柏真の足にぶつかる。
 当然だとばかりにわらう妃央は地面から刀を抜き取って柏真に向かって走っていく。下段から振り上げられた刀は柏真の右腕をかすめる。一太刀におわらず、妃央は振り上げた刀を逃げる柏真の目玉めがけて突く。間一髪のところで雷の走る右腕で刀を払いのけるが、その代償として右腕はわずかな切り傷からぱき、と音をたてて凍りはじめていた。
 このままでは完全に前回と同じ負け方をしてしまう。そう理解してしまった柏真は悔しさに顔をにじませながら右腕に体中の雷を集中させて凍傷になってしまった部位を温めようとする。けれども防戦一方で妃央に勝てるはずなどない。すぐにそう考えてしまうところが自分の弱みだとはわかっていた。けれども何度も何度もそれの繰り返しではそう思ってしまうのもしかたがない。柏真はそうやって自分の心に納得する理由をむりやり作っていた。
「わたしは何度お前と戦わなければならないのだろうか。もういい加減見飽きたぞ!」
 肩の痛みなど微塵も感じさせないかのように妃央は刀を振るう。
「こっちはお前に勝たなきゃ腹の虫がおさまらねえんだよ!」
「ねーえ柏真。燃えてるところ悪いけど、ちょっと静かになってくれなーい?」
 背後から陽如月の声が聞こえた。後退する足が止まり、妃央の太刀を必死に受け止める。
 まんまとはめられたかのように挟撃されてしまった柏真の前方からは泡良妃央、後方からは陽如月に前後を封じられてしまってわずかに動くことすらままならない。
「<わが闇の息吹を糧に、とこしえの時間から蘇りそして、――」
「さっきの、返すわぁ。――<憐れなる復讐神、セクメト>」
 詠唱をしている如月の背後に、深早が蘇生した獅子の頭部を持った女神が現れた。
 ふいを突かれた如月は危機を避けることができず、獅子の傲慢な牙を首筋に思いきり食い込ませてしまう。
 ごりごりと骨が擦り潰れていく音、女神が生唾とともに血液を飲んでいる音が如月の耳いっぱいに広がる。徐々にひいていく血の気が、身体中の酸素のうごきも止めてしまって如月の思考は停止しつつあった。
 次第に荒くなっていく呼吸、青白くなっていく如月をみて、深早はさっきの仕返しができたと嬉しそうであった。
「うふふ、今度は<ドッペルゲンガー>じゃあないみたいねぇ」
 もともと体力のない如月は強い蘇生一撃でも食らうとだめになってしまうことが多い。
 柏真は何回も体力のなさを指摘したが如月は聞く耳を持たなかった。
 彼曰く、体力が増える見込みがないからそんなことしても無駄だ、と。
 如月らしい言い訳だと思ったが、こんな腕試しでも的にされてしまえば真っ先に倒れてしまうのだからいい加減どうにかしたほうがいいだろうにと柏真は自分のことは棚に上げて思う。
「これでこっちは恋朱がやられてるから三対三か……」
「いいや、貴様が倒れて三対二だ」
 余裕を含んだ声音は蛇腹の剣とともに現れる。相変わらず肩の傷なんぞものともしない妃央の表情は冷えきっている。
 足元にみえた刀を反射的に避けると、次は斜め上から不規則な動きをする蛇腹が柏真の腕を絡め取ろうと必死だ。
 身体から発電させて刃を避けても、直接妃央に対する攻撃には繋がらない。
 優位になれない苛立ちが柏真をさらに焦らせる。
「動きが鈍くなってきているが、疲れたのか?」
 妃央はそうやって笑うと、蛇腹はいとも簡単に柏真の右腕を絡めとって刃を腕に食い込ませる。刃が血肉に押し込まれると、痛みよりもまず湧き上がるのは血液の熱さ。
 妃央が剣を引っ張れば引っ張るほど、血肉に剣が食い込み、内部が引き裂かれていくのがわかる。
 拷問をするかのように、妃央は柏真の腕にゆっくりと、ゆっくりと刃を侵食させていく。彼女の表情は先ほどの冷たい面持ちとはちがい、やけに楽しそうであった。
 ぼたりぼたりとおびただしい量の血液が失われていくたびに、妃央のことがまた、恨めしくなると同時に意識と戦意が薄れていく。
 しかし、反撃をするのであれば距離が近くなった今しかない。そう何度もやられてるわけにはいかないのだ。おなじ騎士団に入ったのだから、妃央に食らいつける騎士でいなければと、根底にある意地が柏真を動かす。
 意識を持ち直して、妃央に目を向ける。妃央も柏真の気持ちの変化に気づいたようで、あからさまに訝しげな顔をする。
「ふん、まだそんな目をする元気があったか」
「生憎だがあきらめは悪いんだよ! <わが雷の息吹を糧に、この現へ御身をとこしえの時間から蘇らせることを許し給え――稲妻の暴徒、ラシャプ>」
 柏真を苦しめる妃央の前に現れたのは斧を持ち、盾を構えた巨大な神の姿だった。
 妃央は分が悪いと即座に判断すると、蛇腹を解いて<ラシャプ>から距離をとる。
 けれども凶暴なこの神は、妃央という攻撃対象に目をつけると一直線に妃央を狙って斧を振り下ろす。その斧はなんとか避けるが、風圧で飛ばされてしまい、刀を床に突き刺して着地地点を確保する。
 妃央は<ラシャプ>を仕留めるために一旦体勢を持ち直し、重心を低くして刀を脇腹に構える。
 地面に突き刺さった斧を<ラシャプ>が抜き取ると咆哮して、また妃央に斧を振り落とさんと天高く持ち上げた。
 その様子をみて妃央は、弱者を見限るようにあざけり笑った。
「張り合いがなくてはつまらないからな。わたしに挑むのだからこれぐらいはしてもらわなくては困る」
 そう言ってのけたすぐ後にはもう、<ラシャプ>の姿容は消えていた。
 つまらないものを斬ったとでも言いたげな妃央は<ラシャプ>の背後に隠れていた柏真を見る。
 柏真は自分が苦しみの間際でひねりだした蘇生をいとも簡単に破られて、歯を強く噛みあわせて悔しさを表情にもらしていく。
 屈辱の記憶がまた、塗られていく。なんどもなんども重ねられた恥辱は、分厚くなって次第に憎悪のようなものに変わっていった。
 しかしその恥辱がそそがれる時は未だ来ず、いつか追いつき追い越すという夢は掴めぬまま。
「お前のせいで俺は……俺は!」
 悔し紛れに出た言葉は、愚者の言葉そのもので、柏真も自分がなにを口にしているのかわからなくなっているようであった。
 お前のせいで、と自分のせいにされた妃央は鼻でその言葉を笑い流し、眉間にしわを刻んで柏真にツカツカと近寄り、学年指定の緑色をしたネクタイをつかむ。
「まるでわたしのせいでこんな自分になってしまったとでも言いたげな台詞だな。ああ、だとしたらわたしはなんて影響力のある人間だろうか」
「……ああそうだよ! お前のせいで俺の性格は変わったし、生き方も変わったよ!」
 妃央にとって思わぬ肯定だったのか、わずかに目が見開く。
 そんな彼女の変化には気づくこともなく、柏真はネクタイにかかっている妃央の手を引っ叩いて払いのける。
「<わが水の息吹を糧に、この現へ御身をとこしえの時間から蘇らせることを許し給え――不幸を呼ぶ大蛇、グローツラング>」
 妃央の背後には水に濡れた蛇が現れ、ちろちろと二又にわかれた舌を覗かせている。その大きさは柏真程度ならゆうに丸呑みできそうなほどに大きい。
 強大な蛇の姿に柏真は思わずたじらう。<グローツラング>を蘇生した妃央は微動だにせず、柏真の目に視線を合わせたままである。
 その妃央の顔が柏真にはぼやけて見えた。物理的に見えないというわけではなく、ぼやけて見える、と柏真の心身が思い込んでいるような感覚であるのだが。
 まるで自分の脳が、心が、彼女をうつすことを拒んでいるかのようで、こんな気味の悪い感触を抱くのは、後にも先にも泡良妃央ただひとりだけであった。

 時計を目を向けると、終了時刻が迫ってきていた。
 攻撃を受けたことによる体力の消耗と、蘇生を繰り返すことによってエネルギーを浪費した柏真はもはや妃央に抵抗できないほど疲れ果てていた。左手に流れる雷を放電させてみせるが、威力は半減している。
 妃央が刀で柏真を指し、<グローツラング>に指示をすると、地面を這う大蛇はすさまじい速度で柏真に接近し、身体に巻きついてくる。
 小枝を折るような、みしっ、という音が身体中に何度も何度もひびく。右腕はすでに使い物にならなくなっているし、エネルギーも底をつき始めている。
 しかし疲れていても足掻くことはやめない。微量の雷を身体からゆっくり流し、<グローツラング>からの拘束を弱めていく。だが、弱めてはさらに拘束されての繰り返しでさらに苦しくなる。
 折られた部分が二度も三度も折る動作を繰り返され、だんだんと感触がなくなっていく。
「わたしは頂点に君臨するために生きてきた。邪魔をしてくれるなよ、柏真」
 妃央がここまで言い切るのは初めてのことだった。
 デウスになるために生きてきたという彼女にとって柏真は中間地点にもならないただの小石にすぎないのだろう。
 刀を上段に構えた彼女はそれを一気に振り下ろすと、<グローツラング>ごと柏真を切り裂き、汗ひとつかかない顔で刀を鞘に収めた。
 ちょうど頃よく、時計は制限時間の時刻になり、重低音のチャイムが鳴る。
「ふむ、終了の時刻だな」
「妃央ちゃん、残念! 今回は俺らのチームの勝ちみたいだ」
「なにっ!」
 元気な始の声を聞いて妃央が後ろを振り向くと、同チームの三人、如月と結未華、睦月のR2Pは解かれた状態になっていた。負けた証拠でもある。
 一方のチームは深早と始が生存しているため、一対二となる。
 結果を理解した妃央は眉間にしわを寄せながらこめかみに手をあてて低く唸っている。チーム戦とはいえども負けたことが気に喰わないのだろう。
「ふ、一回の敗北など痛くも痒くもないわ!」
「あんたぁ、そう言いながら貧乏揺すりするのやめなさいよぉ」
 負け惜しみを言う妃央をからかう深早は相変わらず眠たそうにあくびをしている。
「うるさい! わたしはもう帰るぞ!」
「あっ、待ってくださいよ妃央さまー!」
 苛立った足取りで第一演習場を後にする妃央と、彼女を追いかける恋朱。
 このゲームを観戦していた生徒たちもぞろぞろと退散し始め、柏真は大勢の視線から解放されたことにひっそりと安堵した。
 ふと床に座っていた柏真の頭上は暗くなり、敗北で曇ったまぬけな顔をあげると、立ち去ったはずの泡良妃央がいた。
「……なんだよ」
「前々からお前に忠告しておこうと思ってな、この際だから言わせてもらうぞ」
 妃央は柏真と同じ目線ぐらいにしゃがむと、柏真の左耳を引っ張った。銀色のフープピアスが揺れる。
「喫煙は周囲のためにも貴様のためにもならん。即刻やめろ」
 耳元で伝えられた小さな忠告は柏真の胸に痛く突き刺さる。
 たしかに喫煙をしているのは事実であったが、誰にもバレていない、ましてや妃央になんて知られているとは思わなかったのだ。
 妃央は柏真のワイシャツの胸ポケットに手を突っ込むと、煙草の箱を取り出し、おもいきり握りつぶす。
「ばっ、お前!」
「これは没収だ。口寂しいのならばおしゃぶりでもしてるんだな!」
 妃央は高笑いしながら今度こそ第一演習場を立ち去る。
 煙草を没収された挙句、挑発された柏真には焦燥感だけが残った。
 それを癒やしてくれる煙草も手元になく、柏真は今日一日苛立ちで頭を抱えることとなった。