2.Astraia



 妃央に忠告されて以来、自分でもやめなければとわかっていた煙草を大人しくやめた柏真は、いらいらすることが増えた。
 煙草とは古くから嗜まれる合法の毒物である。いつからか煙草を覚えてしまった柏真は、おもに気を落ち着かせるために煙草を吸うことが多かった。
 朝起きてまず一服、昼食を摂りながら談笑すれば煙草も進み、夜長を過ごしていると気がつけば二十本で一箱の煙草が空になっている。
 けして一日の喫煙本数は多くないほうであると信じていた柏真だったが、煙草に依存しているということは誰の目から見ても明らかだった。だが、注意など今までされたことがなかった。
 煙草は人間の体内を侵し、呼吸器や肺機能を著しく低下させる。騎士が神を目指すために通うこの学校では、愛煙家など「自ずから不利になっているバカなやつ」なのである。
 だから誰も止めなかったし、誰も言わないから柏真もバレているとは考えてなかった。考えれば考えるほど、つくづくバカなやつだと柏真は自分を責める。
 甘いもの好きの陽如月から貰った棒つきキャンディを口にくわえて気を紛らわせるが、余計に煙草のことが忘れられない。
「柏真ー、つぎ柏真の番だよー!」
「あー、はいはい」
 保健室からひょっこりと顔を出した如月が柏真を呼ぶ。
 ラグナロクに参戦するには指定された身体のデータを提出する必要があるため、今日の放課後は検診を行っていた。
 柏真が保健室に入ると、この天翔学校の校内医である我妻ミコトがパソコンの画面を見ながら文字を打ち込んでいるところであった。
 ミコトはすばやくデータを打ち込んでキーボードから手を離すと、柏真のほうへ向き直り、はあ、とため息を吐いた。
「なんでオレが野郎の検診を担当しなくっちゃならないのかなぁ、高塔くんも医者だったら女の子の診察したいよねぇ?」
 なんともよこしまな考えを持つ医者である。こういう奴が医者になれるなんて世も末だな、と柏真は思ったが、もっとおぞましい医者が身近にいたことを思い出して頭のなかで訂正した。
 柏真は仮にも教師という上の立場であるミコトの言葉に半笑いで返すし、適当なイスに腰かける。
 ひとつで結わえられた直毛に、なにを考えているのかわからない、見たことのある紫色の目が特徴的だ。
 校内では有名な話であるが、我妻ミコトは、棺乃深早の年の離れたいとこであった。似ていると言われれば似ている。性格が人間として破綻しているところが特に。
「ところで君さー、妃央ちゃんに言われて禁煙してるんだって?」
「はあ?!」
 なんでそれを、と言いたげな叫び声が出てしまう。咳払いをして調子を取り戻すと、唸りながら言い訳を考える。
 彼だって、性格は壊滅的といえども教師である。こんなことがもっと上の教師にばれてしまえばRainsからの脱退だけでは済まされないだろう。頭に浮かび上がるのは停学や退学などの不吉な二文字。
 自分の行いが良いほうではないのは自覚していたが、こうも簡単に窮地に立たされるのだから、やはり罪に手を染めないにこしたことはない。もっとも、いまさら反省しても遅すぎるのだが。
「……煙草なんて吸ってないです」
 言い訳を考えた挙句にでた言葉は薄っぺらい嘯き。
「医者の目をなめないでもらいたいねぇ。君の体力が落ちてきているのは目に見えてわかるよ。肺がにごってる」
 柏真は図星を当てられてさらに苦しくなる。たしかに柏真の体力とエネルギー量は、ここ数年で低下の一途をたどっている。
 問診をしながらミコトは手早く血圧を測り、柏真の二の腕を駆血帯できつくしばり、手早く注射器を取り出して静脈めがけて針を刺した。
 いくら戦いを重ねているとはいえども、血の抜けていく奇妙な感覚には未だになれない柏真は注射器を見ないように目を背ける。一本目が終わると次は二本目に取り替えられ、赤黒い血液がみるみるうちに溜まっていく。
 採血が終わると、針刺されていた箇所に人差し指でミコトが触れる。柏真の腕から採血をしたという事実が消え去ったかのように、小さな傷はなくなっていた。
「あー、ほんと野郎の体触ってもなんも楽しくねえわぁ」
「なんで女子は担当じゃないんすか」
「……理事長から女子は深早ちゃんが担当するからってスパッと」
「よく理事長から信用されなくてこの学校にいますね」
「おっ、高塔くんのくせに言うなあ!」
 事実、理事長と良好な信頼関係を築けなくて解雇された教師は何人もいるのである。
 ミコトはげらげらと笑って、ふと、天井のシミでも見つめるかのように柏真の頭部を黙視した。
 柏真は最初、見られているとは気づかず、後方になにかあったのかと後ろを振り向いてみる。しかし背の方にはなにもない。
 今までにみたことがないぐらいの神妙な顔をしているミコトに、柏真は訝しげに尋ねる。
「あの、俺の頭がなにか?」
「いやぁー……将来、やばそうだなって思って」
「ばっ、バカなこと言わないでください!」
 その言葉がなにを意味しているか察した柏真は慌てて頭部を隠す。
 柏真の髪の毛は色素が薄く、細い髪の毛だ。その髪の将来といえば、あえて言葉にしなくても伝わるだろう。
 ミコトはまたげらげらと笑って、液晶画面に視線をうつす。
「はいもう検診終わり。帰っていいよー」
「えっ、もう終わりっすか」
「医療は進歩してるのよ、高塔くん。煙草のことは黙っといてあげるよ」
「あ、ありがとうございます」
「オレに貸し作っちゃったねぇ、ははは」
 貸しを作ってはいけない人間に作ってしまったようだと思いながら柏真は保健室を後にする。
 廊下を出ると、待っていた如月が柏真に気づいてタブレット端末を制服のポケットにしまう。
「さてと、それじゃ練習いきますかー」
「ああ」
 落ちかけの夕陽がさしこむ廊下を歩いていると、奥の演習場がやけに静かであった。そんなこと、よっぽどのことがない限り珍しい。
 おそるおそる演習場のドアに手をかけると、ひんやりとした空気感が、柏真と如月に一瞬で理解させた。
 演習場内ではふたつの騎士団が対立していた。ひとつは柏真と如月も所属するRains。それに相対するかのように、全員が赤色のネクタイをした騎士団が、先に演習場に入っていたらしい泡良妃央らを睨みつけている。
 この学校では学年ごとにネクタイの色が一年生は青、二年生は緑、三年生は青、と分かれている。つまりRainsの対抗勢力らしき集団はすべてが三年生ということになる。
 柏真と如月はそろっ、と完全にバレている抜き足差し足で、すでにこの場にきていた九澄始に近づく。
「どうしたんだよ、これ」
「いやーなんか喧嘩ふっかけられたみたいで。Rains全体に」
 始はまるで他人事のように笑い混じりでそう話す。
 まさかラグナロク開戦前に喧嘩を売られるとは思っていなかった柏真の顔は思わず引きつる。
「んで、どうするの。戦うの?」
「断るわきゃないでしょうよ、うちのお嬢さんたちが」
「なにをこそこそ話しているのだ」
 ひそひそ話しをしていた柏真らの背後に悪寒。小さな女支配者はなにやらお怒りのようであった。
「ゲームだ。準備しろ」
「あ、やっぱりそうなったのね」
 上っ面平和主義者きどりの始は妃央の言葉にうそくさい苦笑い、如月はのん気に戦えることを喜んでいるしで、物事を単純にとらえられない柏真は気重であった。
 喧嘩を売られたといえどもやはり先輩は先輩なのでなんだかやりづらいし、今後にも影響してきそうなので柏真にとっては避けたいカードであった。
 それに負ければただでは済まない。Rainsの人選を変えられることがないとは言い切れないし、生徒からの野次も相当なものになるだろう。考えれば考えるほど憂鬱になる。しかし柏真にノーと言える権限はない。
 不安げな柏真の顔色を読み取ったのか、妃央は柏真の顔を覗き込む。
「まさか貴様、恐れおののいているわけではあるまいな」
 不機嫌な妃央は柏真に八つ当りするかのように侮蔑の言葉を投げつける。
「……そんなわけあるか、この蛇おん……」
「ま、まて! 柏真ストップ!」
 始が制止した時にはもう遅かった。妃央は柏真の左腹部を狙って回し蹴り。肝臓をえぐるような痛みに柏真は思わず転げてしまう。
 女子であるしR2Pもまだ起動していなかったのでそこまでのダメージはなかったが、手より口がでるイメージの強い妃央からの受けた突然のミドルキックに周囲も柏真も驚いた顔をしていた。
 蛇女と呼ばれて妃央が怒るのは知っていたが、ここまで怒りをあらわにすることはまずなかったはずだった。
 妃央は冷えきった視線で柏真を見下ろすと、顔にかかった髪をはらって口を開く。
「わたしは今とても機嫌がよろしくない。発言には気をつけるのだな」
 それだけ言うと妃央は柏真のもとを離れていってしまう。
 よっぽど三年生との間になにかいざこざがあったようである。理由のわからない八つ当たりに柏真は思わず呆然と転げたままでいる。
「おいおい、大丈夫かよ」
「大丈夫だけどよ……」
「妃央ちゃん、よっぽど気がたってるみたいだね」
「だからって人にミドルキック食らわせるか、普通」
 柏真は立ち上がって左腹をさする。じんわりとした痛みはまだ残ったままである。
「まぁ、いまのはあんたがわるいわねぇ」
 のんびりとした物言いの棺乃深早はなにか理由を知っているようであった。
 物騒な雰囲気のなか、困り眉の微笑で話す深早は親指で敵方の中心にいる女生徒を指す。
 穏やかな空気を漂わせた色白に焦げ茶色の髪を縦にカールさせ、制服を校則通り着こなした女生徒はこちらをみてくすくすと笑っている。その笑みは上品さを演出しようとしたあまり、すこし下品にもみえた。
「あの、雌犬が妃央に醜いメドゥーサって罵倒したのよぉ。それで妃央すっかり怒っちゃってぇ」
 泡良妃央はその顔つきと刀の形状から蛇によく例えられる。それが転じてギリシア神話に登場する怪物、メドゥーサと比喩されるようになった。たしかにメドゥーサは醜い化け物の姿であったが、神々の怒りに触れて仕置されるまでは絶世の美女であったと伝えられている。その部分だけを抜粋したのか、メドゥーサという言葉の意味が女支配者であるからなのか、妃央はわりとメドゥーサというあだ名を好んでおり、そう呼ばれても否定はしなかった。
 ただし、醜いという部分に触れてはいけなかった。とうぜん、妃央は機嫌を損ね、怒りは頂点に達している。
「自分のあだ名をいじられて怒ってたのかよ」
「め、雌犬って……」
 如月は妃央が言われた罵りよりも、深早の口から出た女生徒を指す、雌犬のほうに引っかかっていた。
「正義の番犬って自分から名乗ってたんだものぉ。それぐらい言ったっていいじゃない?」
 深早も彼女が得手ではないのか、思いっきり侮蔑している。
 柏真がふと正義の番犬と謳う彼女を見ると、自信満々にこちらへ貶みの眼差しを向けていた。そんな彼女とぱっちり目が合い、外面の上品さを上回る卑俗な視線のまま、弧を描いていた薄紅色の唇がゆっくりとうごく。
 ――お前らを牢屋に閉じ込めてやる。
 うす気味わるい唇は言葉をつなげ、何事もなかったかのようにまた弧を描いていた。