2.Astraia



「<わが毒の息吹を源に、大義を――洞>」
 仙桃綾子がそう唱えると、右手には黒の鞭が握られている。先端には逃げまどう者を引っ捕らえやすそうな、錨に似た刃が四方についている。
 得意げな顔で勢いよくそれを振りかざすと、鞭は伊江色恋朱の右腕を絡めとる。細腕に刃物が突き刺さり、振り解こうと動けば動くほど刃は血肉に深く深く食い込んでいく。
 ゲームが始まって早々標的にされてしまった恋朱は額に汗をにじませ打開策を思考するが、大体のことを力ずくで収める伊江色恋朱は策とはまったくの無縁である。
 これは「囚人」が逃げ続けるゲーム。味方を助けるにはリスクがつきまとう。
「うふふ。残念でしたわねえ、まずは一人目……」
 仙桃綾子が上機嫌に笑いながら鞭を引っ張りあげた瞬間だった。
 灰青色に輝く刀はたやすく鞭を一刀両断した。
 恋朱は反動で後方へ転びそうになるが、鞭による攻撃を阻んだ刀の主、泡良妃央に受け止められ、事なきを得た。
「す、すいません、妃央さま!」
「謝罪よりこのゲームに勝つことが先だ。逃げろ」
「はい!」
 尊敬する先輩に助けられた恋朱は元気な返事をして演習場を後にする。
「わたくしの攻撃を阻止した程度でいい気にならないでくださいますこと」
 仙桃綾子がぱちんと指を鳴らすと、泡良妃央の頭上にはいずれも刀を持った敵が二名、襲いかかる。
 ひとりに狙いを定めると、上段構えでがら空きな敵の腹部へと潜り込み、太刀の柄の部分でみぞおちを抉るような重たい一撃を食らわせた。
 そして、腹部をおさえる敵の刀を天高くはじき、丸腰になった相手の右肩に蛇腹状になった刀を巻きつかせる。それを少しでも引っ張れば、肌と刃がこすれ合い、皮膚がべろりとめくれて、熱のこもった痛みをもたらす。
 看守が囚人に捕らえられている。なんとも滑稽な状態だ。
 あまりにもとるに足らない敵だったのか、妃央がつまらなさそうな顔をしていると、もうひとりの敵が襲いかかる。
 痛みを与えるためにつかんでいた蛇腹剣から手を離し、雄叫びを上げながら襲いかかってくる男の太刀をかわし続けていると、壁へと追いやられる。けれども妃央は笑っている。
 妃央の笑みの意味に気づきもしない男は高揚した様子で、とどめだと言わんばかりに刀を頭上から振りおろす。
 しかしその刀が妃央の素肌を切り裂こうとしたその瞬間、男の首元を高圧の電流が流れる。――まぶしい青白の光は男の気をもうろうとさせ、立っていることを困難にさせた。
 気を失いかけ、前に倒れこんでくる男を妃央はすっとさけて、追い詰められた状態を難なく回避する。
「らしくないことをしおって。お前は看守役のほうが向いているのではないか?」
「うるせえよ」
 妃央を助けたのはだれよりも彼女のことを敵視している高塔柏真だった。
 わざと怒らせるような皮肉を柏真はさっと流して、面倒そうに後頭部を掻く。
「このゲームは逃げるゲームだ。我々は看守役を蘇生不能(ゲームオーバー)にすることはできない。つまり攻撃は逆に我々を窮地に追い込む」
「そんなことわかって……」
「貴様にむけて言ったわけではない」
 このゲームのルールを改めて確認する妃央の目に映るのは敵に猪突猛進する少女の姿だった。
 彼女にとってゲームのルールなど関係ないのか、それともただルールを知らないのか。
「<わが音の息吹を糧に、力を――巴御前>!」
 彼女の手に蘇生されたのは強弓精兵の武将として伝えられている女性の名がつけられた薙刀。美しい輝きを放つ刀身は、人の血液を吸って美しくなったかのような禍々しさも感じさせる。
 薙刀を頭上でぐるぐると回転させ、矛先を敵に合わせる。
「ようはこいつら全員ぶっ倒せばあたしらの勝ちだろ?」
 自分の好きなように暴れる主義の少女、槇下結未華にはルールなど通用しないのかもしれない。
「…………」
「やはりわかっていなかったか……」
 額に手をあてて、困ったようにため息をつく妃央は珍しい。自分自身がルールだとでも発言しそうな妃央ですら結未華に呆れているのだから結未華の傍若無人っぷりは妃央に勝る。
 そんな猪突猛進なんて言葉が似合う女武者の手綱はしっかりと握らなければならない。
 ラグナロクは集団戦。ひとりが崩れればすべてが崩れる。ひとりひとりが協調性をもっていなければ勝つことはできない。
 もっとも、このRainsにはそのことをちゃんと理解して戦いに臨んでいる騎士なんぞ、何人いるんだかわかったものではないのだが。
 妃央と柏真が呆れた顔をしていると、結未華は騎士団仲間の顔色なんて気にも留めず、八相の構えをとる。まるで「私から攻撃を仕掛けます」とでも言いたげなものだ。
「はい、結未華ちゃんそこまで」
 陽気な声で結未華の腕をぐいっ、と優しくかつ力強く引っ張るのは九澄始だった。
 掴まれた手を振りほどくこともできないぐらいにバランスを崩した結未華は自分勝手ができなくてあからさまに憤怒している。
「邪魔すんじゃねえよ!」
 無理やり始に連れられて走っている結未華は始の耳元で怒鳴り散らす。よっぽど自分の思い通りにならなかったことが気に食わないらしい。
 獰猛な動物を連れているかのような九澄始は好戦的な結未華の言葉をうすら笑う。
「あんまりひとりで突出しないでほしいなあ」
「別にいいだろう。どうせ勝つんだから」
「全然わかってないね、結未華ちゃん。あの騎士団――いや、仙桃桃子は『看守と囚人』のゲームでは負けなしなんだ」
「はあ?」
 そんなこと関係ない、とでも言いたげな結未華の反応に始はさらに言葉を重ねる。
「彼女のやっかいなところは……」
「んなこと関係ねえよ! ごり押しだろうとなんだろうと勝ちゃい……」
 しっかりと考察を広げようとする始をぶっきらぼうに一蹴して、結未華は強引に掴まれていた腕を振りほどいて走り去ろうとする。
 その途端、前を見ていなかった結未華は右足に急激な痛みを感じ、反論の途中で体勢を崩して床に倒れてしまう。
 右足首にはトラバサミの刃が食い込んでおり、穴のように開いた傷にトラバサミにしたたる液体が流れていく。
 そして、罠に引っかかったことがまるで合図かのように、結未華を囲う鉄の牢が一瞬にして組み立てられる。
「クソ!」
「結未華ちゃん、触っちゃ駄目だ!」
 痛みに耐えすがるように鉄格子にのばす手を、罠から逃れられた始は制止する。
 足から全身へと駆け巡る猛毒は結未華に痙攣をもたらし、完全に力が抜けて床から起き上がる気力すらなくなってしまった。
 結未華は焦燥を顔に浮かべながら必死にトラバサミを外そうとする。しかし痙攣やめまいに侵されている結未華にそんな力は残っておらず、逆に鋭利な刃物に指を引っかけてしまって廊下を血で汚してしまう。
「風の蘇生じゃあ、相性が悪いしなあ……」
「チッ、役にたたねー奴だ……」
 結未華は暴言を吐いてみせるが、言葉には力強さがまったく感じられない。語尾がなんとも弱々しく、毒の作用なのか、歯はがちがちと音をたてて震えている。
「深早ちゃんを連れてこようにも毒の牢から出す方法が――」
「<わが炎の息吹を糧に、御身をとこしえの時間から蘇らせることを許し給え――炎の神鳥、ガルーダ>!」
 光り輝く神の鳥獣が現れ、毒の牢の周囲をぐるぐると旋回して焼きつくす。
 それと同時に結未華の足を放さなかったトラバサミも焼却され、刃物が突き刺さり続ける痛みから解放された。
 <ガルーダ>を蘇生した主は伊江色恋朱。彼女は始らがやってきたほうとは逆から現れ、さっきほど仙桃綾子に捕まりかけたことなど忘れているかのような得意げな笑みを浮かべている。
 後輩に助けだされた結未華はというと、額に脂汗をにじませながらなんとか平常を保とうとしている。痛みを訴えることをしないのがなんとも結未華らしい気の張り方だ。
「……たまには、やるじゃねーか、クソガキ……」
「たまにはとかひどーい! あたしいつもがんばってます!」
「恋朱ちゃんが来てくれてよかったよ。さて、まずは深早ちゃんを探して……」
 危機をひとつ脱してのん気に喋っていると、突如、恋朱の首筋に黒の鞭が絡みつく。そしてそのまま鞭は後方へ引っ張られ、恋朱は尻餅をついてしまう。
 ぎちぎちと絞まっていく鞭に抵抗しようと、恋朱は必死に両手で鞭をおさえつける。
「狙った獲物は逃がしませんのよ、わたくし」
 声の主は先ほど恋朱を逃してしまった仙桃綾子であった。
 唯一、まともに動ける始の周囲には首を絞められ呼吸もままならない騎士に、猛毒に侵食されてまともに動けない騎士。それに対し、すでにひとりを捕らえ、ひとりを罠で窮地に追い込んでいる番犬。
 人数はRainsのほうが多いが、その分負傷者も多い。Rainsのほうが不利であることは明らかだった。
 始はだれを優先的に助けるべきか考えていた。ここで選択を誤れば、勝敗は大きく変わってくる。
「九澄センパイ、……槇下センパイをつれて、さっさと逃げてください!」
「そうしたいけど、毒を唯一焼き尽くせる戦力をここで失うわけには……」
「く、九澄センパイにさわられるぐらいなら、ここでまけたほうがマシです!!」
 一瞬犠牲的で感動を生むようなシーンにも見えたかもしれないが、そんな幻想は恋朱の言葉によって打ち消される。
 恋朱の顔色はだんだん青くなっていくが、それは首を絞められていることに対するうっ血なのか、男の手によって助けられた際のおぞましさ故に青ざめているのかわからない。
 大の男性不信である伊江色恋朱は、こんな時にもお構いなしに自分の好き嫌いを優先させる。
「……それじゃ、ここは君に任せるよ」
 始は恋朱をここに置いて逃げることをあっさりと決めた。
 自由に足を動かせない結未華を無理やり抱えると、仙桃綾子に背を向けて廊下を走った。
 二匹のネズミを捕らえそこねた綾子は芋虫を噛み潰したような顔をしながら手に持つ鞭をさらに引っ張って締め上げる。
「う、ぐっ……!」
「劣等生にしてはすばらしい助け合いの精神ですこと。しかし逃がしませんわ。あの者は、なんとしてもわたくしの手で捕らえなければならないですから」
 綾子は屈んで恋朱の耳元でそう嗤うと、廊下の奥に消えていった少女の血痕を睨んでそう呟いた。