2.Astraia



 暗幕カーテンから少しだけ陽がのぞく化学実験準備室は、ホコリが空中にまん延しており、空気環境は決してよくなかった。
 ふだんからだれも使用していないのか、管理がずさんなのかはわからないが、カビの生えかけたグリフィンビーカーや割れてそのままのフラスコが置きっぱなしになっている。
 さらには不要な丸イスやぶ厚い専門書が床にまで散乱しており、腰をおろす場所はおろか、足の踏み場さえも危うい。
 そんなところにしかたがなく逃げていたのは、先ほど槇下結未華の行動のせいで逃げ遅れた高塔柏真と泡良妃央のふたりだった。
 険悪な仲のふたりはお互い少しでも距離を置こうと泡良妃央は扉の近く、高塔柏真は扉とは反対側の窓際に腰をかけている。
 あまりの空気環境の悪さに、泡良妃央が思わず咳をすると、高塔柏真がその咳に注意をする。妃央はあからさまに苛立った顔でふん、とそっぽを向いた。
「なぜお前と一緒のところへ逃げ込まねばならんのだ」
 不本意そうな声で妃央がつぶやくと。
「こっちだって一緒にいたくているわけじゃねえよ」
 柏真も負けじと嫌味を言ってのける。
 妃央は眉間にしわを寄せて、さらに険しい表情をしている。
 その表情のままからだを屈ませると、扉の下部にあいている直線の隙間から臭いを嗅いでいる。
 そしてなにかを察したのか、少ししてからすぐに立ち上がり、柏真のいる窓際のほうへ近寄る。
「逃げるぞ」
「は?」
「薬品の臭いがする。我々にとって良くないことはたしかだ」
 柏真にはなんの臭いだかさっぱりわからなかったが、妃央が言うのだから間違いないのだろうと思った。
 おそらく毒薬、それでなくとも敵の気配をさぐるための偽薬。ここにいては時間の問題だということは明らかだ。
「逃げるってどこから……」
 正攻法で扉から出れば敵が待ち構えているなんてことも考えられる。
 柏真にとって出口はひとつだけある扉しかない。
 そんなとぼけた柏真を呆れた目で見、妃央は窓の鍵に手をかける。ゆっくりと、なるべく音をたてないように解錠すると、人ひとりがぎりぎり出られそうな窓を開けた。
 さわやかな風が塵臭い科学実験準備室に舞い込んでくる。重たい暗幕カーテンもなびくほどだからそれなりに風は強い。
「貴様はバスジャック犯に閉じ込められた時もご丁寧に出入口からしか逃げないのか?」
「窓から出ても逃げ道が……」
「道なんぞつくればよい」
 減らず口をいつまでも叩く妃央は窓の縁に足をかけると、完全に身を外へ投げ打ち、左手に持っていた蛇腹の剣を四階の窓へのばす。
 すると、引っかかった先端からみるみるうちに窓枠は凍って剣が固定される。それをまるでロープのように扱い、妃央はさっさと上階の窓枠に手をかける。
 命綱代わりになっていた剣を窓枠から外すと、窓枠に片手を引っかけた状態で妃央は剣の鞘で窓を思いきり叩き割り、あっさりと部屋へ侵入した。
 したり顔の妃央は上から柏真を見下ろす。
「今からカーテンを伸ばすから掴まれ。引き上げてやる」
「……」
 妃央は乱雑にカーテンを切断すると、柏真が残っている科学実験準備室の窓へ垂らす。長さはそれほどでもないが、掴まるには十分な長さである。
 窓から顔だけを覗かせる柏真はなかなかカーテンを掴もうとしない。すこしして一瞬掴んだが、ぐっと力を込めてまたすぐに手を放してしまう。
 急ごうという気持ちが微塵も感じられない柏真に苛立ったのか、妃央は隠れる気がまったく感じられない怒号を浴びせる。
「情けなく捕まりたいのか、貴様は! はやくしろ!」
「いや、ちょっと、待てよ、待て。こっちにはこっちのタイミングってもんが……」
 視線をばらばらと動かして返答する柏真は明らかに挙動不審である。
 いっこうに窓からからだを出さない柏真に、妃央はひとつの可能性を思いつく。
「まさか貴様……高所恐怖症などではあるまいな」
 その妃央の問いに、柏真はただ視線をそらす。なにも言わない、いや、なにも言えないのである。その姿は肯定するも同然だ。
 R2Pを発動している限り、身体能力は通常時に数倍以上にまで跳ね上がる。多少高いところから落ちたところで、大した支障はない。
 それなのに高いところが怖いだのとごねるのは、妃央にとってはばからしいことこの上なかった。
 しかし、こういった類いの恐怖症をもつ人間は絶対にその場から動こうとしない。しびれを切らした妃央は実力行使にでることにした。
 柏真の制服の襟をめがけて、蛇腹剣を伸ばし、繊維に先端を引っかけると、まるで釣り竿を引き上げるような動作で柏真を釣り上げた。
 宙にからだが浮いた瞬間、柏真が驚きのあまり絶叫していたが妃央の耳にはまるっきり届いていなかった。それよりも、一仕事やり終えた、とでも言いたげな顔をしている。まさに自己満足の塊である。
 いきなり空中に釣り上げられて、床に投げつけられた柏真は、真っ青な顔をしてぜえぜえと荒い息を吐いている。この世の終わりを味わったかのような顔をして床に両膝をつき、うなだれていた。
「し、死ぬかとおもった……」
「あの程度で、情けない」
「お前なあ、あんな速度で引き上げられたら誰だって……」
 窓の方を指さそうと後ろを向いたところ、ふと、古びた写真が目に飛び込んでくる。どこかで見たことのある顔が写っている気がした。
 写真に気をとられて妃央への反論をやめると、写真が飾られている窓際の壁に近づいた。
「……これって」
「どうした」
 写真に写っているのはひとりの老女とひとりの女学生であった。祖母と孫の間柄にも見える慎ましやかな女性ふたりの顔は年齢こそ顔にでているものの、瓜二つであった。
 妃央もその写真立てを一緒に覗き込み、小首をかしげている。
 焦げ茶の髪を腰ぐらいまで伸ばた、カメラではないどこか遠くを見ている女性。貞淑な雰囲気は写真からでもわかるほどだ。
 女性ふたりが写っている背景にも見覚えがあった。それは天翔学校の玄関前だ。特徴的な落葉松が、ふたりの後方で大きくそびえ立っている。
「いや、理事長の写真かと思って」
 天翔学校理事長、松原蘭に姿かたちがよく似ていた。写真に写るどちらもが。
「確かに似ているな。しかし……この部屋はなんだ? 今までに見たこともない部屋だ」
 妃央は軽く同意をすると、写真については深く言及しなかった。写真よりも、部屋そのものが気になっているらしい。
 柏真もこんな部屋は今まで見たことがなく、初めて足を踏み入れた。……正確に言えば窓をかち割って侵入したのだが。
 写真から目をそらし、学校の部屋としてはそう広くもない室内を見渡すと、整理が行き届いている印象は見受けられないが、倉庫のような場所ではないことは確かであった。
 きちんと時計もかかっており、緋色をした革張りの三人がけソファが足の低い木製のテーブルをはさむようにふたつ置いてある。そしてテーブルの正面、窓を背にして同じ材質であろう一人がけのソファも置いてある。
 壁を埋めている本棚にはあまり本が置かれておらず、資料室というわけでもなさそうだ。ちらほらと、大判の本が倒れているだけの本棚は寂しくみえる。
 妃央は本が気になったのか、ひとつの本に人差し指をかけた。しかしその瞬間――がちゃっ、とドアノブをひねる音がした。
 ぎぃ、と古びた木が音をたてて扉はゆっくりと開けられる。
「……あらあら、この部屋にひとがいるなんてねえ」
 扉の向こうにいたのは、先ほど話題に上がっていた、天翔学校の理事長、松原蘭であった。
 割られた窓から吹き込む風が、松原の髪をなびかせる。
 その風がどこから入ってきたのか不思議に感じたのか、松原は部屋の奥を覗きこもうとした。
「り、理事長! 我々はいま戦闘中のため、失礼します! 行くぞ、柏真!」
 妃央は半ば強引に柏真の手をひっぱり、逃げるように部屋を出た。
 松原の返答の前に、勢いよく、ばたん、と扉が閉じた。
 誰が窓を割ってしまったのかなど、どうみても明解である。
 柏真はちゃんと謝れば逃げずともよいのではと思った。
 なにせ喧騒が起こりやすいこの学校では窓が割れることなど日常茶飯事だ。多額の修理費用はどこから捻出されているのかわからないが、明日になれば窓なんて元通りになっているだろう。
 それでも妃央はまずい、とでも言いたげな顔でなるべくさっきまでいた部屋から遠ざかろうとする。
「もう大丈夫だろ、おい!」
「……あ、危なかった……。窓を割ったことがバレればまた……」
「いや、バレてるだろ」

 ――松原は床に散らばっているガラスの破片を手にすると、まるでパズルを当て込むかのように、木枠の角に置いた。
「<三度よみがえる黄金、グルヴェイグ>」
 しずかな声で唱えると、ばらばらに砕けたガラスは号令をかけられたかのように窓へともどっていく。
 そしてすべてのガラスで窓枠が埋まると、亀裂ひとつ残さずに本来の姿を取り戻した。
 松原はふ、と軽く息をついて、妃央が取り出そうとした本を取り出し、一人がけのソファに腰を下ろす。
「ちゃんと鍵をかけないと、蛇たちが入ってきてしまうわ」
 気をつけないと、と言葉を付け足すと、松原は本に視線を落とし、何事もなかったかのように読み耽るのだった。