2.Astraia



 不本意にも敵から逃げさせられた泡良妃央は、美術室の前で中を覗いている棺乃深早に出くわし、彼女に駆け寄る。
「深早」
「あらぁ、妃央。ちょうどよかったわぁ」
 深早は微笑んで妃央を美術室の扉の前へまねく。
 中を覗くと、敵の騎士が仙桃綾子を含めて四人いるのが見え、綾子の近くには枷で手足が不自由な伊江色恋朱が捕らえられていた。
 妃央は扉から顔をはなすと、深早を美術室から死角になった廊下の角へ誘導して作戦を練り始める。
 このゲーム、「看守と囚人」における囚人は全員が逃げ延びることが絶対条件だ。そのためにも伊江色恋朱の奪還は必須とも言える。
 それに制限時間は残り二十分。ここで勝負をかけるほかないと妃央は判断した。
「相手は四人……いくら私たち二人でもちょっとしんどいわねぇ」
 いくら格下が相手とはいえども、二人で四人を相手にしつつ恋朱の自由を縛っている枷の鍵を探し出し、奪還して逃げ延びることは難しいと深早は判断する。
 相性が悪ければ、格下にも負ける可能性はゼロではない。妃央もそのことは十分に理解しているので深早の言葉に頷いた。
「ならばもうひとり適当なやつを……」
「おい、何やってんだ?」
 突然の声に妃央は肩を震わせる。
 先ほどまで怪我を負っていたとは思えないほど平然とした顔で二人の前に現れたのは、槇下結未華だった。
「結未華じゃないのぉ、これで人数は十分ねぇ」
「あ? なんの話だ」
「美術室に恋朱が囚われている。『犬』もいるぞ」
 妃央は結未華を焚きつけるように犬……仙桃綾子の暗喩を強調する。
「へっ、それをあたしたちでヤるっつーことか。上等じゃねえか」
 仙桃綾子を叩きのめすために探していた結未華は意気揚々としている。あいかわらずこのゲームの趣旨を無視するつもりらしい。
 それに、結未華は序盤に伊江色恋朱によって助けられている。
 やられた借りと助けられた借りのふたつを返さなければ釈然としないだろう結未華は当然と言わんばかりに作戦にのった。
「準備室からは美術室が見えるようにガラスで仕切られている。もっとも……棚が置かれているので隙は見えにくいがな。そこから敵を仕留める」
「じゃあ、準備室へ侵入しましょうかしらねぇ、下手にエネルギーは消費したくないわぁ。私このあとお仕事だし」
 三人は美術準備室のドアノブをひねり、準備室へ侵入する。
 室内は大判の絵画や無残に置かれており、棚に敷き詰められた石膏像が三人を睨むように見下ろしている。
 さらに絵の具やら美術道具の腐ったような臭い、粘土のような脂ぎった臭いが混ざり合って充満していた。
 気をつけて歩かなければ立てかけられた三脚などが一目散に倒れてしまいそうだった。
 準備室の惨状に気を取られていると、足音が近づいきて、美術室と準備室をつなぐドアの前で止まった。
 危機を察知した三人は各々ドアの正面からみて死角になる場所へと隠れる。
 ガダンッ、と勢いよくドアが開けられると、武器を構えた敵の騎士が現れる。
「おかしいわね……物音がしたのだけれど……」
 ドアは閉じられ、部屋は密室となる。
 ドアが開けられると死角になる部分へ隠れていた深早はゆっくりと敵へ近づき、右手で口を塞ぎ、左手で身体をおさえる。
「<慈悲深き眠り神、ヒュノプス>」
 耳元で深早がそう囁くと、敵の身体から力が抜け、その場にぐったりと倒れこんだ。無防備になった敵の身体をまさぐるが、どこにも枷の鍵はしまいいこんでいないようだ。
 深早はそれを床に寝かせ、そのあたりにあった薄汚れたベージュの布をかぶせて視界から隠す。
「なあ、やっぱり強行突破が一番楽だろ」
 隠れていた結未華は棚の影から顔をだしてそう提案する。
 隠密に人数を減らしていく方法というのはやはり彼女には合わないらしい。
「あとひとり気絶させてしまえばこちらが優勢だ。それまで待て」
 妃央はいまだ隠れたまま、今にも暴れだしそうな結未華にそう指示する。
「なーんでてめえはいつもそう命令口調なんだよ! 腹立つ蛇野郎だ!」
 暴れ足りない上に、自分の意見を反対された怒りからか、結未華は妃央に当たり散らす。
「味方になったからすこしは多目に見ていたが……このわたしを侮辱するなど、断じて許さんぞ!」
 もともとは優劣を争う敵同士。味方になってそう日は経っていない。
 妃央と結未華はお互いどちらも気が長いほうではないし、譲り合いをしない性格だ。
 そういった勝気で負けず嫌いなところが似ているが故に、衝突が起こるのも当然といえば当然なのだが、あまりの程度の低さにそれを見ていた深早は頭を抱える。
「ちょっとぉ、静かにしなさいってば。ここで私たち捕まったら完全に終わりよぉ?」
「深早はだまって……」
 結未華は横にあった棚をいらいらをぶつけるように叩くと、そこに収まっていたヴィーナスの石膏像がぐらりとバランスを崩した。
 石膏像が動いたことに妃央はぎょっとして目を見開き、像を抑えに移動しようとするが、石膏像は土台を軸にしてくるり一回転すると、頭部から床に転落した。
 激しい音が準備室を越えて美術室、はては廊下にまで響いたことだろう。石膏像はばらばらに砕けており、唯一首だけが原型を保っていた。
「……わるい」
 バツがわるそうに結未華は反省の弁を述べる。
「…………」
「…………」
「おい、無視すんなよ! 人がせっかく謝ってんのによ!」
 なんの反応も示さない妃央と深早に、結未華はあっというまに開き直る。
「本当に……貴様は華未結と同じ人間だとは思えんぞ」
 妃央は溜め息をついて結未華に呆れた視線を送る。
 結未華と華未結はひとりの体に存在している。性格も違えば、知能の違うし、運動能力も異なる。
「ここまで騒いじゃあ、もう突っ込むしかないわねぇ」
「んだよ……そういうことなら、ヤるっていえよ!」
 あきらかな激しい物音をたててしまってはここにいつまでもいられない。それどころか、早くここからでなければ袋の鼠になってしまう。
 深早はゆっくりと扉に近づき、ドアノブに手をかける。そしてふたりには目配せで合図をし、ドアを一気に開けた。
「<わが毒の息吹を源に、いま目覚めてこの現へと力を示せ――金に眩んだ竜、ファフニール>!」
「<わが音の息吹を糧に、偉大なる芸術を響かせ給え――ベルリオーズ「幻想交響曲」第四楽章、断頭台への行進>」
 結未華が蘇生を唱えたと同時に唱えられた毒の蘇生により、鋼のような鱗をもった巨大な竜が咆哮し、部屋中に毒霧がまん延する。
 それに対抗するように現れた管弦楽団が毒霧をかき消す勢いの演奏を始める。まるで湧き上がる民衆のように賑やかだ。
 轟音により<ファフニール>は混乱し、悲鳴をあげて現世から消えていった。
「この学校に蔓延る害獣は駆除しなければなりません!」
「チッ、<わが音の息吹を糧に、力を――巴御前>!」
 梅紫色の霧のなか、仙桃綾子の声とともに結未華へ鞭がのびる。
 しかし結未華は咄嗟に自身の武器である薙刀を蘇生し、攻撃をはばむ。
 だが次の手が潜んでいることはすぐに察した。かすかな音が聞こえるほうへ、近づけさせんとばかりに薙刀を投げ飛ばし、威嚇攻撃をお見舞いする。
 霧のなかで視角がはっきりとしていないこの状況で武器を手放したことは明らかに不利だ。霧が晴れるまではまだ時間がかかる。
 結未華が敵を警戒している最中、金属の擦れ合う音、重たいものが一気に落下する音が聞こえてきた。
「貴様、このわたしに無礼を働いたこと、忘れたわけではあるまいな!」
 泡良妃央は威勢のいい言葉とともに綾子の武器である鞭を真っ二つに削ぎ落とす。
「……っ! この毒のなかを平気で動きまわるなんて!」
「鍵を探せ!」
 妃央の号令のもと、結未華と華未結も美術室へ侵入する。
 美術室には仙桃綾子のほかに二人の騎士がおり、だれが伊江色恋朱を拘束する鍵を持っているかわからない。
 残り時間は十五分。今を逃せば次はない。
「妃央先輩!」
 自らを助けにきた妃央に対し、恋朱は感嘆の声をあげる。
「安心しろ。この妃央さまがすぐに助けてやる」
 妃央は恋朱に声をかけながら、背後から迫ってきた敵を蛇腹の剣で受け止め、弾き返す。
 そして追い打ちを掛けるように剣を横に振るうと、敵は避けようとして机の足につまずき、机の上に倒されてしまう。
 つかつかと迫る妃央は敵の首を片手で掴み、首の骨を圧迫するように絞め上げ、その隙に敵の身体をまさぐる。
 しかし敵もただでやられているわけではない。自由な脚を思いきり上に振り上げ、妃央のすねを蹴りつける。だが、上半身が押さえつけられているため、力は弱い。
「……鍵は、素直に出すわけないな」
 妃央は美術品をしまっているガラスの戸がついた棚に首を持ったまま敵を投げ飛ばす。
 その衝撃にガラスはヒビが入り、砕け落ちる。ばらばらと割れたガラスが敵の頭に降り注ぐ。砕け散ったガラスのなかに紛れて、小さな鍵が落ちたのを妃央は見逃さなかった。
「これか。……深早」
「はぁい」
 深早は妃央から投げられた鍵をキャッチすると、恋朱の手枷につけられた錠前にさしこむ。
「やったー! あとは足だけですよお!」
 鍵を外されてしまったことに、結未華と交戦中の仙桃綾子は焦った表情を見せる。
「鍵は残りひとつ……ぜったいにあなた方の手に渡ることはありませんわ!」