2.Astraia



「ふん、それはどうであろうな」
「わたくしが絶対と言えば絶対ですわ!」
 泡良妃央は仙桃綾子の宣言をかるくいなし、スカートのポケットで鳴り響く携帯電話を手にとり、電話にでた。
 たんたんと相槌を打っているだけで、妃央が誰となにを話しているか、周辺の人間にはまったく伝わってこない。
 あしらわれた上に戦闘中に電話にでる妃央の姿をみて、綾子はますます頭に血がのぼっているようだ。
「校内での携帯電話の使用は禁止……」
 綾子は妃央の電話を妨害するぐらいの大きな声で携帯電話の使用とやめるよう促す。
 まったくもって優等生らしい生徒の見本のような行動であるが、その注意は妃央には無意味だ。
「美術室だ。ではな」
 最後に居場所を告げると、妃央はさっさと電話を切ってしまう。綾子の注意は完全に無視していた。
 そして槇下結未華と棺乃深早をそれぞれ見、口を開く。抑えきれない笑みが口角にあらわれている。
「『鍵』は今から持ってくる」
「は?」
「あらぁ」
 なにを言っているんだ、と言わんばかりの結未華の拍子抜けした表情に、深早のとぼけた顔。
 しかし、ふたりよりも驚いていたのは仙桃綾子のほうであった。
 その証拠に、妃央の言葉を聞いてよろめき、机にからだをぶつけている。
「な、な、なにを言ってらっしゃるのかしら。まったく意味がわからないですわ」
 動揺が言葉ににじみでている。一点に集中しない視線、とつぜん髪の毛をいじりだす手は落ち着きのなさをあらわしている。
 仙桃綾子の動揺は、妃央の言っていることが正しいと確信させた。
 もうひとつの鍵が美術室のなかにあるとは限らない。
 ここにいるRain(s)の四人に渡ることがないというのなら、この部屋以外に鍵があるということだ。
 綾子の言葉から察するに、そういうことなのだろうと妃央はカマをかけた。それはおかしいぐらいに当たりだったというわけだ。
「わたしは貴様に話しかけてなどいない」
 妃央は綾子に目線すら合さずつめたく突っぱねる。
「鍵は! わたくしたちが持っているのです! さあ、奪いにきなさい!」
  大手を広げて、幼稚な挑発をしてみせる。しかし妃央に効果はない。
「敗者は黙っているがよい。恥辱のうえにさらに恥を塗り重ねるのか」
「わ、わたくしは負けてなど……負けてなどいませんわ!」
 負けを認めろと言わんばかりの妃央の言葉が綾子に突き刺さる。
 侮辱をうけた綾子は拳を震わせ、再び鞭を蘇生させると、八つ当たりするかのようにぐちゃぐちゃになった机へ鞭を振るった。
 焦りと興奮が入り混じった、綾子の荒い呼吸音が美術室に洩れる。
「<わが毒の息吹を源に、その力を現世に降らせ――秘匿の毒、クラーレの矢>!」
 手を振りかざし、綾子は詩を唱える。
 妃央たちが蘇生の詠唱に気づいた時には、綾子によって頭上に幾百もの弓矢が散りばめられていた。
 クラーレという毒は南米に伝わる猛毒で、呼吸を麻痺させる作用がある。
 くらえばひとたまりもなく、ここから形勢逆転される未来も容易に想像づく。
 綾子が攻撃を合図するかのように、手を妃央らに向けて振り下ろすと、弓矢も降り始める。
 妃央たちはその場から動こうとしない。その代わり、ひとりの声が聞こえる。
「<ドヴォルザーク、森の静けさ>」
 ゆったりとしたピアノとチェロの演奏が槇下結未華の背後で始まった。
 その美しい旋律につられるように矢はゆっくりと速度を落として落下を始める。
 速度の落ちた弓矢は床に次々と倒れこみ、Rainsにはかすりもしない。
 仙桃綾子は自らの攻撃がふるわなかったことをうけて呆然と立ちつくす。万策がつきたのだろうか。
 演奏が終わると、槇下結未華はべきっ、と弓矢を踏みにじりながら綾子の前まで進み、鼻をならして彼女をあざける。
「残念だがお前に譲れるイスはなさそうだ」
「くっ……! ひなたも歩けぬ悪党が生意気な口を!」
 最初の口約束を引き合いにだし、結未華は悠々と勝利宣言をする。綾子は悔しそうに顔をゆがめ、その場にあった机を勢いのまま握りこぶしで叩いた。
 悪党、と呼ばれた結未華の目がわずかに見開く。そして綾子の胸元を掴み、顔を引き寄せる。わずかに綾子のからだが地から浮いた。
 結未華の顔には一切の表情がない。おこっているのか、かなしんでいるのかもわからない。
「警察ごっこは余所でやりな。うちは子犬に構ってられるほど暇じゃねえんだ」
 綾子にだけ聞こえるような声の大きさで、結未華はそっと脅した。
 ぱっ、と結未華は手をはなし、綾子を解放する。圧倒された綾子はなにも言い返せずたじろいでしまう。
「残念だが悪党でもひなたは歩けるんだ。しかも、正義を押し退けてイスに座ることもできる」
 先ほどと打って変わってふざけた態度で綾子をからかう結未華は、自嘲を含ませながらわざとおどけてみせる。
 彼女たちの言う、悪党とは隠語だ。
 槇下が悪党、という話はこの学校中の誰もが知っていることだ。
 言葉をいいように飾れば極道とも言い換えられる。
 ――槇下の家は極道を歩く者の家だ。
 槇下華未結が最初に言ったように、神の座を奪う大戦ラグナロクの前ではそれぞれの立場など関係ない。
 富豪であろうと貧民であろうと、人種、宗教、主張の差異、すべてが神の有する力の下では等しく無意味である。
 つまり槇下の家がなんであれ、罵り、言い争うことは滑稽で無意味なことでしかない。
 正義感の強い仙桃綾子は特に槇下を疎ましく思い、排除しようとしているが、力の前ではただの小競り合いにすぎないのだ。

 この教室の空気を引き裂くように美術室の扉が開き、急いできたのか、息を荒らげた高塔柏真が入ってきた。
 手には鈍くひかる鍵が握られている。
 先ほど妃央が連絡をとっていたのは、途中まで行動を共にしていた高塔柏真だった。
「ほらよ、鍵」
「ふん、ちょうどよかったな」
 柏真は手に持っていた鍵を妃央に向けて放り投げる。
 それを片手でキャッチした妃央は恋朱の足枷をさっさと外す。
 はれて自由の身になった恋朱の表情は明るくなり、妃央に抱きついた。
 これでRainsには捕まえられている囚人はいない。
 ゲームの終了時刻を知らせるブザーが校内に鳴り響く。勝者が確定した。
 このゲームは無事、全員逃げ延びることができた囚人側、Rainsが勝利を収めた。
 恋朱は安心した様子で妃央に抱きついたまま、勝利を喜んでいる。
「じゃあ、私これからお仕事だからぁ」
「ああ」
 棺乃深早は気だるそうに告げると、さっさと美術室を出て行ってしまう。
 深早も妃央も結未華も、だれも勝利の余韻にひたっていない。勝つことがさも当然であるかのような態度だ。
 少しのにぎわいもないこの現場に、柏真は軽くため息をつく。
「俺が鍵持ってる敵に遭遇してなかったらどうする気だったんだよ、お前」
「妃央様はもしもということなど考えない」
 今回の勝利は運が味方していたからだと柏真は思っている。
 柏真が倒した敵がぐうぜん鍵を所持しており、それを見つけていなければこの勝利はなかったと言ってもよいのだ。
 しかし妃央にはもしも、万が一、という考えはないらしく、柏真の言葉を軽くあしらった。
 そんな彼女の態度が気に入らない柏真は、彼女に合わせていた視線をさっとそらす。
 やはり柏真にとっての妃央は、態度が気に入らない、癪に障るやつという認識のまま変わらない。
「今回はわたくしの敗北です。それは認めましょう。……しかし、決してあなた方の思い通りにはさせません!」
 少しの間黙っていた綾子は口を開くと、ゲーム直前と同じような態度に戻っていた。
 こういう性格の人間はどうもへこたれないらしい。実にタフネスである。
 その態度にはさすがに結未華も呆れた表情を見せる。
「特に、槇下結未華。あなたの思い通りにはさせませんわ!」
 下唇を噛み、揺るがぬ眼光で綾子は結未華を見つめる。
「はっ、吠えてろワン公。こちとら思い通りになったことなんざ一度もねえよ」